住宅地の真ん中に石碑が建てられているお城。 

きくいち

2012年11月24日 10:36

本證寺に寄った際、駐車場のところにあった説明板でこの近くに色々な城跡があることを知り、藤井城を訪ねてみました。
本證寺から南へ約1km県道を南下すると、左手に安正寺本堂の屋根が見えました。安生寺駐車場の東側の住宅地の一角、秋葉社の小さな社と並んで藤井城の石碑がありました。
 
藤井城は、矢作川沿いで近くには公園があります。遺構は特に何も残ってなく、石碑と説明板があるだけです。ところで、この付近には、藤井・桜井・古井・石井と「井」のつく地名が4つもあります。昔、井戸が4つあり、それが地名になっているようです。

 

藤井城跡は宅地として開発されてしまいましたが、藤井町北本郷にお城跡を偲ぶ石碑と看板が立てられています。住宅地の中にあるので分からないときは周辺の方に聞けば大丈夫だと思います。    

(遺構等)碑、説明板、(築城年)永正年間(1504-21)、(築城者)松平利長、(歴代城主)藤井松平、(形式)平城
 
歴史
文明3年(1471)安祥城進出を果たした松平氏は、福釜・桜井・と周辺に勢力を拡大していきました。そんな中、永正年間(1504~21)には藤井にも進出し、その時築かれたのがこの城です。
永正年間(1504-21)、松平氏5代・長親の五男・利長が藤井氏に養子に入り、藤井松平氏の初代となり城主になります。その後藤井松平氏は宗家(本家)に従い天文9年(1540)、織田勢が安城城を攻めた際、撃退するため戦いますが重傷を負い、利長は死去しまた。2代目・信一は一向宗の本拠である本証寺や桜井城と近くに位置しながらも藤井城を守り一揆勢を撃退しました。その後、信長の近江出陣でも功績をあげ、関ヶ原の戦いの後は35,000石の土浦城主となります。藤井城は家康が関東移封となった天正18年(1590)、ともに関東へ移ったため廃城となったのです。

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