水城の名残を色濃く残している桑名城

きくいち

2012年01月30日 09:23

伊勢神宮までの間、三重のお城を行けるだけ全て廻ってきました。
桑名、津、鳥羽、玉城(田丸城)、松坂と…本当は亀山、鈴鹿(神戸城)にも立ち寄りたかったのですが、さすがに時間がなくて…。まず、降りたのが桑名市です。ここには桑名城があります。

桑名城址は現在、九華公園となり、現存建造物は無くなってしまっていますが、満々と水を湛えた湖のような幅の広い堀の中に、浮島のように各郭跡が点在するさまは、揖斐川河口に築かれた水城の名残りを色濃く残しています。


本丸掘り…水堀があってのどかな公園になっていて鎮国守国神社が鎮座し、辰巳櫓や神戸櫓がありました。

吉之丸コミュニティパークと蟠龍櫓… 桑名城は明治の廃城以降、荒れる一方でしたが、昭和3年、楽翁公一百年記念大祭を期に、公園として整備され「九華公園」と名付けられました。


桑名城は、別名を「扇城」と呼ばれています。
公園の名前の由来は、この「扇城」に関連しています。
中国には「九華扇」と言う扇があり、「九華」を「くわな」と読ませ、この「くわな」と「扇」をかけあわせ、公園名を「九華」にしたそうです。

桑名城 蟠龍櫓(復元) 

平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元しました。二重櫓であり、1階は水門管理所となっていますが、2階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。

  
桑名城の幕末の藩主・松平定敬(会津若松城主・松平容保の弟)は、戊辰戦争時、京都所司代を務め、京都守護職であった兄の容保とともに佐幕派であったために、新政府側からは敵視され、明治維新後に城はいち早く破却されてしまったのです。



辰巳櫓跡は、桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓がありました。元禄14年(1701)天守閣が焼失し、再建されなかったので、以後は辰巳櫓が桑名城のシンボルになっていました。このため、明治維新の時、降伏のしるしとして、新政府軍に焼き払われてしまいました。


現在櫓台跡には大砲がおかれていますが、由来等は不明だそうです。
明治新政府の勝利の証なのでしょうか。

本丸跡西南角に神戸櫓の櫓台跡がありますが、かつてここには、伊勢神戸城から移築された三重の隅櫓が聳えていて、櫓台石垣は取り崩されていましたが、神戸城の天守台から推定するとかなり大きな櫓だったと思われます。



神戸櫓跡… 戦国時代、この付近には、伊藤武左衛門の治める東城があったとされています。織田信長による伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し東城は廃城となりました。文禄の頃(1592~1596)一柳直盛が城主となると、城郭が築かれ、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したと言われています。
江戸時代、藩主本多忠勝は、城を拡張し本格的な近世城郭を築きましたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され、「神戸櫓」と呼ばれました。

元禄14年(1701)の火災焼失以後、再建されなかった天守閣代わりの辰巳櫓とともに、かつての東海道を行き交う人々が目にした桑名城のシンボルであった蟠龍櫓が、「七里の渡」近くの揖斐川堤防に推定外観復元されています。

 

七里の渡」は、熱田の宮から桑名まで、海路七里(約28Km)あったことから、そう呼ばれています。当時は東海道42番目の宿場町として、大賑わいを見せていました。「七里の渡」はちょうど伊勢の東の口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられました。
「七里の渡」の西側には、舟番所・高札場・脇本陣・駿河屋・大塚本陣が、南側には舟会所・人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。


三之丸堀には、当時の石垣遺構が今も残っています。
遺構は、川口樋門あたりから見るのが一番分りやすく内掘の「吉之丸堀」には朱色の鮮やかな欄干の橋が架かっていました。



三之丸水門 七里の渡に因んだこんな話があります。
本多忠勝の子・忠政が城主の頃、大坂冬・夏の陣が起こって、豊臣氏が滅亡しました。炎上する大坂城から、徳川家康の孫娘・千姫が救い出されましたが、江戸へ帰る途中、桑名の七里の渡で、忠政の子・忠刻に一目ぼれし、救出してくれた坂崎出羽守を袖にして、忠刻のもとに嫁ぐと言う一件がありました。千姫を一目ぼれさせた言う本多忠刻とはどんな武将だったのでしょうか…?  

色々見て廻ったのですが一つだけ見落としてしまいました…天守閣跡を探していたのですが 付近に説明板などはなく天守閣跡は、鎮国守国神社の東側にあったのです。帰るときに、公園入口にある案内地図で見て分かったのですが時間がなく断念…

公園と有料駐車場の間の通り沿いに「本田平八郎忠勝」の像もあります。また、有料駐車場の前には「柿安」があり、お肉がお手軽に買えますし、店の中に食べられるところがあって、地元ならではの蛤ラーメンなどもありお勧めです。ちなみに「柿安」には無料駐車場が完備されています。
 
桑名城の歴史…
桑名城は、鎌倉時代初期の文治2年(1186)桑名三郎行綱が最初に築いた城だと言われています。時代は下って天正2年(1574)長島城の一向一揆が滅亡した時、滝川一益の所領となりました。

その後、氏家行広が2万2千石の領主として入りましたが、関ヶ原の際に西軍に属したために没収され、替わって家康の命を受けた徳川四天王の一人・本多忠勝が慶長6年(1601)10万石の太守として入城しました。忠勝は同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変え外堀として利用し、揖斐川を利用して城内から船で川に出ることができるようにしました。城下町も整備もし「七里の渡」もこの時に造られました。天守は四重六層の勇壮なものだったようですが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後再建されなかったようです。

忠勝の嫡男・忠政が播磨姫路城に転封した後、家康の異父弟・松平(久松)定勝が遠江掛川より入り、子の定行の時に伊予松山城へ移る。替わって、定行の弟の松平(久松)定綱が入って3代続き、備後福山城から松平(奥平)忠雅が領して7代続き、松平(久松)定永(8代将軍徳川吉宗の孫・定信の長男)が岩代白河より11万3千石で返り咲き、4代続いて明治に至ります。

幕末戊辰戦争の際(1868)、桑名藩は旧幕府方につき、藩主松平定敬は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れます。新政府軍は天守閣の役目を果たしていた三重の辰巳櫓を焼き払って桑名城落城のしるしとしその後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされたようです。

桑名城には元禄の大火後に再建された時点で、51の櫓があったと記録されています。川口にある七里の渡に面して立てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。蟠龍櫓がいつ建てられたか定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされている正保年間(1644~48)作成の絵図にもすでにその姿が描かれています。「蟠龍」の名は、享和2年(1802)の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面に「蟠龍瓦」と出ていて、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことが分ります。
蟠龍とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。
(現地説明板参照) 
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