忠臣蔵の「悪役」?愛知県西尾市吉良町
三河湾には形原漁港、西浦漁港、幡豆漁港、色漁港などの市場があり、こちらの方にはちょくちょく足を運ぶのですが、今回は漁港でなく普段あまり立ち寄ることのなかった街の歴史を尋ねてみました。(こちらの市場は一般客が気軽に魚貝類を購入出来るところがあります)
愛知県西尾市吉良町と言えば、「忠臣蔵」で有名な
吉良上野介義央公。この界隈は、鎌倉時代から江戸時代初期まで吉良この領地として発展しました。義央公は領民から慕われながら非業の死を遂げた名君として今も地元では多くの人々記憶の中に静かに行き続けています。
元禄15年12月14日、江戸本所の吉良家江戸屋敷において赤穂浪士に討たれた義央公でしたが、領地では赤馬にまたがり巡回をして親しく領民と接し、人々から厚く信頼されたとつたえられているようです。塩田開発や治水、堤防を築き水害からも農民を守った名君であったと言われ町のいたるとこには馬にまたがり微笑む義央公の銅像がありました。
吉良公を守った忠臣「
清水一学」の墓所で有名
円融寺は大永5年(1525)に創建されたと伝えられる日蓮宗の寺院で、本堂裏には赤穂浪士の討入りの際に吉良公を守って奮戦した清水一学の墓があります。一学は宮迫村の出身で、二刀流の剣豪として知られています。門前には樹齢430年以上と言われる吉良の五本松、本堂前には大梛の木があり、市の天然記念物に指定されていました。
吉良の忠臣、清水一学の墓
一学はここ宮迫の百姓の生まれで、幼名を藤作といった。少年のころから剣術を好み、岡山の陣屋へ通った。義央(よしひさ)(吉良上野介)は、藤作に目をかけ、15歳で江戸に呼び寄せ、やがて中小姓にとりたてた。赤穂浪士襲撃の夜一学は奮戦して討死、行年25歳であった。 遺骨は江戸万昌院に葬られ、円融寺に分骨した。時の円光上人は一学の法名端翁元的を改め、義央 の法名にちなんで実相院宗禅信士として、ここに葬った。 一学は、一角 逸学 逸覚とも書かれ仮名手本忠臣蔵では鷺坂伴内(さぎさかばんない)の名で知られている。
<尾崎士郎「清水一学」より>
一学目がけて斬り込んでくる浪士の数は五人十人とふえてくる。眼も醒むるばかりの雪の色であった。よき死に場所だという気持ちがはなやかな思いをわき立たせるようである。血にまみれた彼の両刀に月の光がキラキラと映った。
吉良の殿様は江戸から吉良へ帰ってくると馬に乗って領内を歩かれたそうです。ここにも吉良公の藩内見回りの像がありました。「吉良の赤馬」の由来は.忠臣蔵で有名な吉良上野介までさかのぼる。吉良氏は三河吉良の荘を治めていた元禄の昔、赤馬に乗って領内の治水事業を巡視したという言い伝えが残り、この姿を、領民が木彫りのおもちゃにして、子どもたちに分け与えたのが始まりと伝えられています。 また、三河吉良の山々は、雲母(きらら)の産地とし有名でありました。
忠臣蔵の「悪役」として有名な義央の評価は芳しくないのですが領地三河国幡豆郡では、貞享3年(1686年)に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から名君とされ、地元では慕われている、と言われてきましたが、黄金堤は元禄よりも前に作られていたことがわかり、この説は崩れます。さらに、義央は領地を殆ど訪れた形跡がないことから、地元での評価は汚名を着せられた領主に対する同情によるところが大きいのではないでしょうか…?
吉良には浅野長矩以外の御馳走人にも、いわゆるいじめを行っていたという逸話が多く残っているようですが、物語としての「忠臣蔵」が成立した後に、物語のイメージから後世に創作された可能性も高いとも云われているのです。(高家肝煎という役職で礼儀作法の達人で幼い頃より吉良流礼法を身に付け、その厳しい指導が松の廊下の出来事の引き金になったとも…)
吉良は三河国に領地を持つ旗本で浅野は、外様大名という大きな違いがありました。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどで、こうした領地への思いも原因の引き金かもしれません。
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