宇和島城は、秀吉から伊予7万石を与えられた藤堂高虎が中世城郭だった板嶋丸串城を大改修し、望楼型天守を持つ近世城郭として1601年に完成しまた。その後、伊達政宗の長男秀宗が伊予10万石で入国し、2代宗利の頃に層塔型天守へと改修。街は伊達十万石の城下町として栄えました。明治になり建造物は天守・追手門を除いて解体、堀は市街化で埋没。昭和20年の米軍による無差別爆撃で追手門焼失。現在は天守および石垣、慶長期の城門 等が残っています。
宇和島城…築城: 藤堂高虎(創建)、伊達宗利(大改修)
宇和島城は平山城で、堀を含め平地部分の遺構はほぼ失われています、山上に築かれた石垣や曲輪、そして天守が現存しています。登城口は北と南の二箇所あり、本当は南側から登城し、ぐるっと廻って北側から出るルートを辿るつもりでしたが、車のナビで案内されたのが北側駐車場、雨も少しふりだし仕方なく北側登城ルートで登ることにしました。
最後に、南側登城口の入口に建つ「宇和島城の沿革」説明板と、「上り立ち門」を見るつもりでしたが、本丸に辿り着くころから雨が激しくなり結局元の道を戻った為、、搦め手口にある上立門(現存)を見る事は出来ず少し心残りでした
南側登城口に建つ「上り立ち門」…こちらは城の搦め手(裏口)にあたり、武家の正門とされる薬医門とのこと。全国に現存する薬医門の中では最大級で、なおかつ創建年代が慶長期と想定されています。
桑折(こおり)氏武家長屋門
現在の地に初めて天守が建造されたのは慶長6 年(1601)藤堂高虎築城のときとされています。城の外郭は上から見ると不等辺5 角形をしていて、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられます。
高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成。その姿を現在に残しています。
桑折氏武家長屋門を越え、いざ城郭へ。長い石段が続く。天守まで750m
登山道の石段に感じる歴史の重み
城山の北登山口にある桑折氏武家長屋門は、市の文化財に指定されています。現在は間口15メートルですが、本来は35メートルの堂々たるものだったようです。かつては南登山口から天守に至るまでに7つの門がありましたが、現在残っているのは上り立ち門(市指定文化財)のみです。
このあたりは当時、三の丸御殿が建っていて、井戸丸へ通じる北側の登城道は、三の丸御殿から登城する際のルートだったようです。
宇和島城は、典型的な一二三段の平山城で、最高所の本丸には三層三階の天守が現存しています。今は残っていませんが三の丸月見櫓は河後森城の天守を移築したものであったと云われています。
途中には井戸丸跡。横には井戸丸矢倉が建ち、井戸丸門で守るという、宇和島城内の井戸の中でも最も重要とされた井戸のようです。奥の説明板によると、井戸直径2.4m、深さ11mとのこと。ちなみに宇和島城内には井戸は3つ残り、この井戸丸、天守前の井戸、そして南側登城口のすぐ上にある式部丸内に1つあるようです。
城山の植物は少なくとも300年以上、火災や伐採をまぬがれたため、巨木や珍しい植物の宝庫となっています。
三の門付近から見た本丸石垣。まさに聳え立つ城壁です。石段はぐるっとヘアピンカーブを描いていて、この三の門付近を通る敵兵は石垣上の矢倉から一斉攻撃を受けたことでしょう。(高虎の築城後、宇和島城での戦闘記録は無し)
天守のある本丸へは、ヘアピンカーブの向こう側から入ります。本丸石垣は野面積みです。
ふと振り返って本丸石垣を見ると、向こうに立派な白亜の天守が見えます。本丸手前の石段上から見るこの場所は撮影スポットとのこと…。
石段を上がりきると本丸の石垣の手前に小さな削平地があります。ここが二の丸跡で、写真を撮った石段の最上段あたりは、二之門が建っていたようです。
二の丸跡 説明板。ヘアピンカーブになっていたので、ちょうどこの真下が雷門跡にあたり、そこを通ってくる敵兵を上から迎え撃つ施設にあたるとのこと。本丸の周囲をぐるっと回るように構成された帯曲輪にも直結しています。発掘調査の結果、幕末期に改修した跡がいくつか出てきたらしい…。
御算用矢倉跡から見る、本丸石垣と天守。手前の木の葉が生い茂ってうまく見えませんでした。
本丸への入口前へ。こちらはしっかりした打込ハギ。石段も実に綺麗に積まれています。
石段の上には櫛型門(一の門)が建ち、左右の櫓台の上には矢倉が建っていたので、往時ここから天守は見えなかったはずです。
いざ本丸の上へ。天守を見る前に振り返ると、北西方面には宇和島港が見えます。高虎創建時は城の周囲は大半が海だったとのことですが少しは雰囲気を味わえます。
本丸正面にはこじんまりとした3重3階の天守が建っています。天守正面の礎石跡は御台所跡。他にも本丸には鉄砲矢倉跡など建物の礎石が多く残っていますが、天守以外の建物は残っていません。
伊予宇和島城 天守。2mほどの高さの天守台の上に乗る、3重3階の小さな層塔型天守です。パンフによると、慶長期に藤堂高虎によって建てられた初代天守は望楼型で、その後入った伊達家が天守台含めて一から建て直したそうです。
天守内へ。左側の小さな階段から上がる。現存のため中は土足禁です。
天守1F内装。江戸時代の古い梁がむき出しだ。武者窓の柱は五角形になっていて、内側から外を広角度で見やすい工夫が凝らしてありました。
中央の部屋には、築城時の詳細な内部構造を模型化したもの。これで城主に説明したとい言います。模型が残っていることは珍しいとか…?
天守2Fさらに最上階への階段…1Fは天井が高く、階段も折れ曲がっていますが、それほど急ではありませんが、天守2Fから3Fへの階段は最初の階段と違って、現存天守らしく急でよく滑る階段でした。
天守最上階から北西方面、本丸を見下ろすと、宇和島港が一望できます。石段が丸見えですが、当時は土塀や二之門なども建っていたことから、全く見えなかったと思われるます。
天守を出て、周囲を一周してみました。こちらは北側。天守台よりも建造物の大きさが少し小さいので、犬走りが出来ています。天守1Fの武者窓の上下にある横につけた柱は補強のための長押(なげし)です。
再度天守前へ。井戸と重なってしまいますが、この角度からの見栄えが最も美しいと思います。
宇和島城…築城の名手高虎、会心の名城
鶴島城と呼ばれる秀麗な天守は、当時のまま現存する貴重なものです。
【宇和島城の歴史 】
宇和島城の前身、板屋城は築城年代や築城者については定かでないが、戦国時代には西園寺氏の家臣家藤信種、西園寺宣久の居城であった。
文禄4年、藤堂高虎が宇和郡7万石を領して入封した。 高虎は、板島城を宇和島と改称し、慶長元年から近世城郭へと城の大修築を行った。
高虎は、慶長5年の関ヶ原の戦功により伊予半国20万石に加増され、今治城を築城して居城とした。 更に慶長13年には伊勢・伊賀22万石に加増され、伊勢安濃津へと移封となった。
慶長13年、富田信高が宇和⒑万石を領して入封したが、慶長18年に石見津和野城主坂崎直盛と争い改易となった。
元和元年、仙台城主伊達政宗の長子秀宗が宇和島⒑万石を領して入封した。 寛文2年、2代宗利は老朽化した城の修築を幕府に願い出て、それが許された寛文4年から修築工事を開始し、寛文11年に完成した。 この時に現存する天守も築かれた。
宇和島伊達家は、江戸時代はこの地を動くことなく明治を迎えた。8代宗城は、幕末から明治維新にかけて活躍した名君として知られている。
帰りは、雨もひどくなり南側登城口を断念再び北側の登城口へ出るルートで足早に車に戻りました。
山里倉庫…幕末の弘化2年(1845年) に建てられた武器庫で、昭和41年に伊達家より譲渡、ここに移築され郷土博物館として一般に公開されていました。中には民俗資料などが展示されているようでしたが、びしょ濡れ状態になり、時間も無いことから今回はスルーしました。
石段を早歩き、折れ曲がりの道(食い違い虎口になっているため)を駆け抜け、雷門跡、藤兵衛丸(曲輪)、長門丸(今は児童公園になっている)を後にして下山しました。
9つの丸から成る「九曜紋」。宇和島伊達家の家紋です。
宇和島城は、今でこそ市街地に囲まれた独立丘陵に築かれた城ですが、築城当時は城の北と西側は直接宇和島湾に面し、堀は海水を引き入れ、海城の一面を持った城とも云えられています。
海辺に城を築き、海水を巧みに利用した縄張りは、この城を近世城郭へと改築した藤堂高虎の得意とする手法で、後に築城した伊予今治城や伊勢安濃津城にも大きな影響を与えているとか…?城は、不等辺五角形の縄張りで、城を囲まれた際に寄せ手に四角形の城と誤認させ、残る一方から反撃する戦法を想定していたとか。 江戸幕府の隠密もこの城を四角形の城であると報告していたという逸話もあります。
約1時間半、あいにくの天気でしたが、宇和島城をぐるっと一周することが出来ました。もう一度訪れることがあれば、今回は訪問出来なかった式部丸や伝右衛門丸などの曲輪群もゆっくり廻ってみたいものです。