藤原三代の栄華と義経・芭蕉

きくいち

2016年06月05日 23:52

このところいろいろ忙しく、中々書き込めなったのですが、仕事も早く終わり今晩から「みちのくの旅日記」再開します。

藤原三代…平泉は平安時代11~12世紀後半の100年あまり奥州に華開いた京さながらの都でした。
前九年・後三年の戦いの後、初代清衡が戦で亡くなった御霊を慰めるために建立したとされる中尊寺には多くの寺塔や僧坊があります。 主なものに初代清衡が金色堂を、二代基衡が毛越寺を、三代秀衡が無量光院(後に焼失) を建立、清衡の願いであった仏国土の実現は代々受け継がれ現代に至っています。



中尊寺の大池跡は、藤原清衡の「中尊寺建立供養願文」に伝えられている寺院があった場所と考えられている。池に面した本堂と、そこから延びる左右の廊下の先端には経蔵と鐘楼が設けられ、3基の三重塔が建てられていたという。2001年(平成13年)の発掘調査では、奥州藤原氏三代秀衡の時代の堆積土中よりハスの実が出土し、2005年(平成17年)に開花に成功し「大池ハス」と名付けられた。



2011年6月平泉の文化遺産は世界遺産に登録されました。 副題のー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ーは中尊寺や毛越寺の仏教寺院や 浄土庭園などの遺跡群は浄土思想に基づき現生に表現するために作られた事例である事が評価されました。
その中で金色堂は私たち見る者に壮大なロマンを描かせます。
何故なら東方見聞録に「日本(ジバング)には黄金に輝く家がある」 と云うことをマルコポーロがヨーロッパへ紹介しそれがコロンブスの新大陸の発見までもを生み出したのだと云うことを、 日本人なら誰もが知っているからです。



奥州藤原氏滅亡への引き金となった義経の来泉。 秀衡は頼朝に追われて平泉にやって来た義経を庇護しましたが、その死後四代泰衡は頼朝の 圧力に屈し文治4年(1188年)義経を自害に追い込みました。 平泉は国民的ヒーロー義経の最期の地でもあります。



芭蕉は、藤原氏滅亡500年後、平泉文化遺跡に魅せられ、1689年平泉を訪れました。 我々は金色堂に、そして高館に立つ時、芭蕉の俳句を思い出し知らず知らずにその世界に夢を膨らませています。 芭蕉が涙したであろう歴史を伝える風景とその思いを詠んだ弐句は、永遠に日本人の心に語り継がれています。
     
悲劇の英雄・源義経と武蔵坊弁慶、 俳聖と称される松尾芭蕉と河合曽良、奇しくも名のある供を連れて訪れた二人…平泉での足跡を訪ねながら平泉の世界遺産、黄金文化に触れて見ました。

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