江戸時代グルメ(華屋与兵衛)
以前「江戸時代グルメ」で「握り寿司は江戸っ子が生んだファストフード」で、江戸時代、華屋与兵衛が開業した高級寿司店を、少しだけ紹介しましたが、今日はその与兵衛寿司とそのライバルに付いて紹介していきます
ゴージャスさでは随一江戸っ子垂涎の与兵衛寿司
握り寿司の考案者とも言われる華屋与兵衛が文政7年(1824年)に開業した寿司店の特徴は、初のワサビ使用だけでなく、豪勢なネタをふんだんに使っていたことです。飲食店における他業者との競争は当時から激烈で、与兵衛がぜいたくな寿司ネタを使わざるを得なかったのは、そうした競争に原因がありました。
また、天保の改革(1830年~1843年)でぜいたく禁止令が出た時は、“アナゴの寿司を扱った”との理由で彼が逮捕されたことがあったという逸話も残っています。天保の改革が終わった15年後の安政5年(1858年)に60歳で与兵衛は亡くなりますが、その流れを汲む店は昭和5年(1930年)に閉店するまでのおよそ百年以上、両国で営業し続けました。
伝統の名店毛抜鮓と、上方の実力派松が鮨とは
与兵衛の華屋には、同業者のライバルで共に江戸三鮨と賞賛された競合店がいました。江戸で一番高級な寿司と言われた堺屋松五郎の松が鮨、松崎喜衛門の老舗・毛抜鮓と言った名店です。
堺屋松五郎は泉州堺(今の大阪府)で産まれたと言われていて、文政13年(1830年)に深川の安宅六間堀に『松が寿司(別名安宅松が寿司)』を開店した寿司職人です。彼が考案して売り出した寿司は豪華絢爛で、江戸名物誌と言う書籍には『卵は金の如く魚は水晶の如し』と書かれ、大判錦絵にも描かれるなど評判を呼びました。
しかし、松が寿司にも高価と言う欠点があり、進物用の寿司であれば五寸の器を重ねた二重の折は三両もの高値で売られていました。こうして高級寿司店としての地位を確立した松が寿司ですが、ライバルと目される与兵衛の華屋と共に倹約令に触れて松五郎らも罰されています。
毛抜鮓は他の2店と趣が違い、扱っていたのは高級な握りや巻き寿司ではなく、押し寿司に比較的近い、保存性に優れた寿司でした。越後国(新潟県)の新発田出身だった初代の松崎喜右衛門が元禄15年(1702年)に竃河岸(今の人形町)で創業した毛抜鮓は、その名の通り魚の骨を毛抜で除去したことが由来とされています。
しかし、それ以外にも名の由来は諸説あり「色気抜きで食欲をそそる」と言う語呂合わせから「毛抜は良く物を掴むから、人々が良く食べる寿司」と説明されたなぞなぞのようなものから様々です。
華屋や松が寿司は、現代にその流れを汲む店を残してはいませんが、毛抜鮓は今でも13代めのご主人が神田小川町で営業しています。根強いファンを持つ老舗として江戸時代から活躍しているため、江戸前寿司ファンならば行ってみたいお店のひとつです
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