江戸時代グルメ雑学(8)
秋といえばのサツマイモ、元々は不作対策の作物だった
様々な作物が収穫され、食欲の秋も盛り上がっている今日この頃ですが、コンビニやスーパーを見ると、ブドウや栗と並んでサツマイモのスイーツが目立ちます。食が多様化しても、あの素朴な甘味は日本の秋の風物詩と言えますね。今回の江戸時代グルメ雑学は、そのサツマイモについて紹介します。
そもそも、サツマイモは南米原産の作物だったのを、大航海時代に欧州人が東南アジア諸国や中国に広めたのが始まりです。日本人とサツマイモの出会いは慶長2年(1597年)に宮古島の役人が中国から伝えたのが始まりで、沖縄や中国の舶来品と言うことで琉球芋・唐芋(からいも)と呼ばれていましたしかし、当時のサツマイモは救荒作物すなわち干ばつなど不作、飢饉に備えて植えられる作物として扱われました。余り扱いが良いとは言えませんが、日照りに強く水が少なくても育つのだから、サツマイモはタフな作物ですその利便性に気付いたのが薩摩、今の鹿児島県の人々でした。鹿児島は火山性の土、つまりシラス台地なので稲作には不向きでしたが、水はけが良い土地でも育つし南国の作物でもあるサツマイモはピッタリだったのです。薩摩の国で作られる芋と言うことで、この異国渡りの芋は「サツマイモ」になっていきました
江戸時代は平和で戦争こそありませんでしたが、社会不安の要因として飢饉が存在していて、それは諸藩と幕府を悩ませていました。享保17年(1732年)に起きた享保の大飢饉では、西日本で多くの餓死者が出ましたが瀬戸内海の大三島全くは餓死者が出ませんでした。
大三島が飢餓から救われたのは、他でもなくサツマイモを栽培していたためであり、一躍サツマイモの名は広まります。その4年後の天文元年(1736年)、1人の学者が“暴れん坊将軍”で有名な8代将軍徳川吉宗より、薩摩芋御用掛と言う役職を拝命しました
その学者こそが「甘藷(かんしょ。サツマイモの別名)先生」として親しまれる、青木昆陽です。昆陽は「蕃薯考(ばんしょこう)」と言うサツマイモに関する著書を記し、江戸の小石川植物園、九十九里浜の不動堂村などで芋の試験栽培に成功しており、飢饉対策に悩む吉宗に抜擢されたのでした。こうして、関東にもサツマイモ栽培が本格的に根付く基礎が出来たのです
こうして将軍から武家、そして町の学者に至るまでが飢饉を乗り切るために導入したサツマイモは、徐々に江戸庶民に愛好されるようになり、空前のサツマイモ食文化を築いていったのです次は、その江戸っ子達によるサツマイモブームについて紹介していきます
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