› きくいち日記 › 寿司ネタ › 江戸時代のマグロは下魚(げうお)

2014年03月18日

江戸時代のマグロは下魚(げうお)

江戸時代には、町人は食べたが、武士は食べられないものがあったと言います。
それはコノシロ「鮗」、フグ「鰒」、マグロ「鮪」です。

コノシロは「この城」と言い、語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は縁起が悪く、落城に通じるとされたのす。
また「腹切り魚」といって切腹を命じられた武士の最後の食膳にのぼることが多かったのようで、このことからも、縁起の悪い魚とされ、 江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言の小肌にしたと言われています。

フグを武士は食べて毒に当たればお家断絶。武士が死ぬのは戦場であって、魚の毒などで死ぬのは武士にとってあるまじきこと。そのため、武士のほとんどは、明治維新までフグの美味しさをしらなかったのです。
江戸中期からフグをよく食べたのは「卑賎」と言われた庶民たちであり、その美味を体験していたようですが、武士たちは頑健にも伝統的な食生活を墨守していたのだそうです。(その頃は、フグが一匹12文程度であり、安蕎麦一杯が16文であるのと比較すれば、いかに安価であるかが分かります)

マグロは、別名で「「シビ」と言います。「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわからない武士にとって、この名は禁句でした。それゆえにマグロは下賤な食べ物として食べなかったそうです。

江戸時代のマグロは下魚(げうお)
 
マグロが江戸前ずしに登場したのは天保年間とされています。天保の末(西暦1842年)にマグロの大漁があって、そのころまではマグロは魚の中では上等のものとして扱われていなかったので、そのマグロの処置に困って捨てようにも場所がなかったそうです。

江戸市中にだぶつき、ひじょうな安値になったマグロを、日本橋馬喰町の「恵比寿ずし」という屋台店が試しにマグロを握ってみたところ、これが意外にもうまくて江戸っ子の人気をさらい、扱いとしては下魚であっても、明治のころはもう、「マグロがなくては商売ができない」とまでいわれるほど、重要なすしダネになっていたのだそうです。

江戸時代のマグロは下魚(げうお)

馬喰町というところは、名のごとく馬喰が大勢いた土地であり、馬喰がいなくなってからは、地方人相手の宿屋が多かったので、諸物の安いものが歓迎され多く売れたため、安しいすしとして恵比寿鮨の主人が売り出したのではないかと…?。(注)馬喰とは牛を鑑定・見極めて市場へ売りに行く牛の鑑定人、仲買人のこと。当時、江戸の魚河岸(日本橋)には、 昼の芝居小屋が集まった芝居町、夜の吉原と並 んで「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。

ただし、当初から明治半ばに至るまでの調理法は、しょうゆに漬ける「ヅケ」調理法であり、それには脂肪の少ない赤身の部分がもっぱらといってよいほど使われました。トロはもっとも価値のない部分だったわけで、高級店は背の身のほうから選び、安いトロは、屋台店など、下のランクの店でしか使われなかったのです。

この時代は冷蔵庫の設備がないので鮪の色が変わるので、切りつけしてから醤油の中につけて、亀甲色にして用いたので、鮪のことをヅケ(漬けるの略)という名が出ました。(当時、上流家庭に納める鮨には鮪を用いない。御膳ずしと看板をだした店は鮪に代わってタイ、ヒラメの白身の魚を用いている)

また、マグロの種類も、明治・大正のころまでは出前が主であったため、時間がたっても色のかわらぬカジキやキハダの方が珍重されがちだったようです。


同じカテゴリー(寿司ネタ)の記事
今日は海苔の日!!
今日は海苔の日!!(2022-02-06 08:22)


Posted by きくいち at 15:16│Comments(0)寿司ネタ

コメント

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
江戸時代のマグロは下魚(げうお)
    コメント(0)