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2020年06月13日

寿司の歴史NO4…稲荷ずしの発祥の地

正確な起源は定かではありませんが、「守貞漫稿」(嘉永6年、喜多川守貞著)に、「天保(1830〜44年)末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて袋形にし、木耳干瓢等を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。日夜売之ども、夜を専らとし、行灯に華表を画き、号て稲荷鮨、或いは篠田鮨と云、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異名)は油揚を好む者故に名とす。最も賎価鮨也。尾の名古屋等従来有之、江戸も天保前より店売には有之輿。蓋両国等の田舎人のみを専らとする鮨店に、従来有之輿也」とあり、これを拠りどころとして、名古屋発生説が巷説となっています。

寿司の歴史NO4…稲荷ずしの発祥の地

食べ物の起源は、と問うとたいてい地域地域により、ここだ。という説が出てきますひみついなりすしに於いても、同じなようですガーン

稲荷寿司は、別名 おいなりさん、いなり、篠田寿司等々と呼ばれます。が、稲荷と付けば、神社(稲荷)関係かなとは思います。とすれば、京都伏見の稲荷神社(この神社が日本国中の稲荷神社の総本山です)辺りが、発祥地かと想像するのですが、今一、そのような発言もないようですまるっ

案の定、愛知県では、豊川市の豊川稲荷が、発祥地であると 市をあげて説明されているとか。それは、いなり寿司の発祥は、愛知県豊川市にある豊川稲荷の門前町で、天保の大飢饉の頃{1833年(天保4年)に始まり 、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。}に考え出されたといわれるところからでしょうか!?
すると、いや違う。それはおかしいという意見も出てきておるようです。本家本元争いは我田引水の様相を呈していると言えましょうかびっくり

寿司の歴史NO4…稲荷ずしの発祥の地

守貞謾稿によれば、天保頃には、稲荷すしを売る者があったと言う。名古屋等では、もともと以前からあったという。江戸でも天保以前から売る者がいたかもと記されております。 稲荷鮨の発祥は江戸が先か、名古屋が先か、豊川が先かは、特に記述はされてはいないようで    す。しかし、守貞謾稿に書かれた稲荷寿司の事柄、そして、豊川稲荷の天保の大飢饉の頃の年代をみれば、豊川の稲荷寿司は、いくら早くても1833年より前にはならないでしょう。

所が、江戸では、天保期以前にも稲荷寿司が、売られていたかもという記述。また、江戸の稲荷寿司以前から名古屋では、稲荷寿司が、あったという記述である以上、やはり、稲荷寿司の起源は、名古屋に軍配があがるのではないでしょうか人差し指

この書籍によっても、発祥の地は、尾張名古屋である可能性が高いようです。しかし、豊川でも可。江戸でも、天保前頃には売られていたようでもあります。とても廉価のようで、もっぱら江戸では田舎もん(庶民)の食べ物(鮨)であったかとはてな

寿司の歴史NO4…稲荷ずしの発祥の地

江戸では、専ら夜売られていたようで、店の行灯(あんどん)に、とりいが描かれ、野干(やかん…狐の異名とか)に由来するとして、その食べ物を「稲荷鮨」或いは「篠田鮨」と言ったというようであります。夜売られていた所は、両国等。相撲で有名な所ですが、江戸時代の元禄以降、この両国は江戸屈指の歓楽街として栄え、特に両国橋西詰の両国広小路は見世物などの小屋が立ち並んで庶民にとっては、この上ない楽しみな場所になり、賑わったという。そうした場所で、天保期以前、夜専ら売られていたのでしょうか電車

そうそう、尾張名古屋にもこのような常設の見世物小屋は、存在しており、歓楽街となっていたようであります。そうした所で、小腹の空いた客相手に、稲荷鮨は、格好の食べ物(現代風に言えば、ファーストフード)であったのかも。必要があって創作された食べ物の変り種であり、時勢にあったのでしょうかひみつ

寿司の歴史NO4…稲荷ずしの発祥の地

念のため、名古屋に於ける江戸時代、常設の芝居小屋があった所は、現 名古屋市中区橘町を含む、本町通り筋 現 白川公園辺りまでの寺社境内であったようで、名古屋城から南へ2~3Km筋には、寺社が多い。これは、名古屋城下を築く時、徳川家康により、南の防御の為に寺社を多く置いた事によるようでありますOK


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Posted by きくいち at 08:12│Comments(0)雑学

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