気になっていた山城(遠江・光明城)林道は長かった…!
先週、昼間時間が少し取れたので以前から気になっていた
光明城に行ってきました。天竜区役所のある、天竜の町並みから、国道362号を北東に進むと600メートルほどで「
光明遺跡」の看板が出ていますので、表示に従って、山道を延々と登っていきます。(勿論ナビをたよりに行ったのですが、私の車のナビでは「光明山林道」の途中から道がなく不安な思いをして林道を6、7km進むとやっと「光明山遺跡」がありました)林道は舗装されてはいましたが、たまにすれ違えない幅になるところもあり、林道の空地の駐車場を見つけたときにはホッとしました。
駐車場から2分程東へ歩くと「西光寺跡」で、そこから更に3分程で「光明寺跡」(本曲輪)となります。石段や石垣がありますがかなり藪です。本曲輪の東側にも石垣がしっかりあり、その北側が中曲輪なのですがここも酷い藪です。この東に五人塚があり、その東の堀切を見ると、城だったのだと感じられます。
光明城は標高540mの光明山山頂から700m程南にあり、「秋葉街道」を城内に取り込んで押さえる要衝に築かれています。城が築かれる以前には山岳寺院があり、江戸時代には光明寺が再び山上に寺院を建立されたようで、現在「光明寺遺跡」として残る石垣はこの寺院のものであり、城跡は中曲輪や堀切などわずかしか残っていませんでした。
城跡にはこの様に堅固な石垣が残っていますが、これは武田時代のものではないということです。長篠の戦いの後、光明城は徳川の手に落ち、武田家滅亡により、その戦略的意義を失い、廃城となったのです。現在残る石垣は、江戸時代に寺院が建立されたときのものだそうで水の神として祀られ、参拝者でにぎわったそうです。武田時代の光明城は、寺院建立により破壊されてしまい、遺構は現存していません。
しかし、ここからの眺望は素晴らしく、遠江全域を見渡すことが出来ます。二俣城や浜松城も見渡せ、ここに立った信玄や勝頼が遠江攻略に思いをはせたであろうことが伝わってくるようです。
光明寺跡から浜松方面の眺望が素晴らしい。
光明城…別名 光明寺城、高明城、高明山城
遺構等 曲輪、堀切
現状 光明山遺跡(山林)
築城年 享禄年間(1528-32)
築城者 朝比奈時茂
歴代城主 朝比奈
形式 山城
光明城は光明山の山頂付近にあったとされていますが、光明寺遺跡を利用したものではなかったのではないでしょうか…?光明寺遺跡は奥の院を含めて広大な地域で、城郭として利用するに際し、防御施設が造られていないため、城域を特定するのは難しいようです。奥の院への途中に「徳川家康隠れ岩」と称される大岩があるが、どういった謂われがあるのかこれも不明です。
光明寺跡は見事な石垣造りの遺構で、近世城郭を思わせる造りに驚かされた。現地の案内板では昭和6年まで、この地に光明寺があったとのことで、この石垣は近世になってから積まれたものと考えた方がよさそうですが、案内板がないと城郭遺構かと思ってしまうほどの造りでした。この光明寺跡にも「徳川家康腰掛石」があり、徳川家康と光明城との関係を強く裏付けしています。なお、光明寺遺跡は717年に高僧行基が開創し、明鏡山光明寺と云うが、昭和6年火災になり、光明寺は光明山の麓に再建されたそうです。(現地案内版から)
【歴史】
享禄年間(1528-32)、朝比奈時茂が築城し、太郎泰方が継いで在城したとも言われていますが、定かではありません。
光明城は、天竜川の左岸に位置に、天竜川に沿って佐久間から信州街道に通じ、甲斐・武田氏の遠江への進出ルートに位置しています。また犬居城と二俣城とのほぼ中間に位置していて、元亀年間(1570-73)に甲斐・武田氏の支城として城番が置かれたようです。(その後、武田勝頼が犬居・高明・只来・二俣を巡検したことが知られています)
天正3年(1575)武田勝頼は長篠城を包囲しますが、後詰めに駆けつけた織田・徳川連合軍との間で設楽原の連吾川を挟んで戦いに及び、織田・徳川軍に大敗します。徳川家康は二俣城を包囲し、二俣城の周囲に蜷原、毘沙門堂、鳥羽山、渡ヶ島に付城を築き家臣の本多忠勝や榊原康政に城を攻めさせます。激戦の後城は攻め落とされ、光明城は二俣城主大久保忠世に預けられ、その家臣が天正10年頃まで在番し武田氏滅亡後に廃城になったと考えられています。
関連記事