「燃える男」巨人を倒すために野球人生をささげてきた男がこの世を去った

きくいち

2018年01月06日 16:17

プロ野球中日のエースとして活躍し、引退後は中日、阪神、楽天の3球団と日本代表の監督を務めた星野仙一さんが亡くなりました。70歳、楽天球団によると、膵臓がんを患い、昨年末から病状が悪化していたとの事…



倉敷商高、明大を経て1969年、ドラフト1位で中日に入団。闘志むき出しの投球で「燃える男」と呼ばれました。巨人戦では長嶋茂雄、王貞治らと名勝負を繰り広げて35勝(31敗)を挙げ「巨人キラー」の異名を取り、私のような巨人ファンにとってとても嫌な投手でした(74年には先発、救援にフル回転して中日の20年ぶりリーグ優勝に貢献。巨人の10連覇を阻み、沢村賞と最多セーブに輝いた)




86年オフ、中日の監督に就任すると、抑えの牛島和彦投手ら4人を放出し、ロッテから三冠王3度の落合博満内野手を獲得するトレードを敢行。中日では87~91年、96~2001年と2期11年指揮を執り、88、99年にリーグ優勝を果たします



中日を退団したばかりの01年オフ、野村克也監督の後任として阪神へ。金本知憲外野手を獲得するなど、積極的な補強を進め、就任2年目の03年、チーム18年ぶりの優勝をもたらした。ダイエーとの日本シリーズには3勝4敗で敗れ退任。日本代表監督として指揮を執った08年北京五輪はメダルなしの4位でした



楽天監督1年目の開幕前、11年3月11日に東日本大震災が発生し、球団が本拠を置く宮城県が甚大な被害を受けます「強さを被災者に届けよう」とナインを鼓舞し、3年目の13年は24勝無敗の田中将大投手らを擁して初優勝に導いたのです巨人との日本シリーズも制し選手、監督を通じて初の日本一に輝きます(この時は私も感動し、巨人よりも星野楽天を応援していました)3球団で監督を計17年務め、戦後生まれでは初の1000勝監督となり14年に監督を退いた後は楽天の球団副会長を務めていたのですが…(17年に野球殿堂入り)



昨年暮れの「野球殿堂入りを祝う会」に出席。2000人を超えるプロ、アマの球界関係者が集まり「これだけの人が来てくれて野球をやってて良かった。野球と恋愛して良かった。もっともっと恋したい」と失われない野球への情熱を口にした。しかし、これが、最後の晴れ舞台となった。



相手が強ければ強いほど「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズだった。その原動力が「打倒・巨人」。ドラフトでふられ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わった。中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦は歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げた。沢村賞を受賞した74年にはV10を阻止して優勝したが「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは引退後も変わることはなかった。



監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は鉄拳制裁だった。「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げた。中日で2度のリーグ優勝。97年には扶沙子夫人を白血病で亡くしたが、グラウンドで戦い続けた。「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。反骨心の塊のような男。02年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導く。楽天監督時代の13年には日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となった。



14年にユニホームを脱ぎ、15年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた。恋に恋した野球。しかし、楽しみにしていた20年東京五輪を前に帰らぬ人となった
あの笑顔はもう見れない。あの怒鳴り声ももう聞けない…ご冥福をお祈りします

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