ヤクルト優勝のターニングポイントは…「監督のマネジメント力」
ヤクルトが、6年ぶり8回目のリーグ優勝を達成しました
高津臣吾監督、村上宗隆、山田哲人、青木宣親、中村悠平が出席した優勝会見では、ターニングポイントを聞かれた
青木は「少し考えたんですけど、うーん…本当に1つじゃなくて、前半も中盤も後半も、いろんなことがあったので」と前置きした上でコンデショニングの維持と監督のマネジメント力を挙げた。
「シーズン通して、良かったことはこの戦力を維持できたことなのかなと。新しい戦力もあったけど、ケガをしなかった。監督のマネジメント力じゃないかなと思います。コンディションの維持をいつも言っていたので、練習量を減らしながらとか、その辺がやっぱりうまくいって、戦力を維持できたのではないかと思います。練習をやりすぎないでとか常に言っていたので、マネジメント力がすごかった」
中村はヤクルトの先輩で名捕手の古田敦也氏に言われたひと言から、自分がプラスへと変われた試合を挙げた。
「個人的に開幕カードで阪神に3連敗食らって(3月31日のDeNA戦で新型コロナウイルスの影響で選手数人が一時チームを離れ)自分が2番を任された時に古田さんが『その気になれ』と言っていて、自分がその気になっちゃったところで、自分がプラスにとらえられていけたところが1つ大きな要因だった」
山田は、シンプルに勝利への執念を全員が持ち続けたことを挙げた。
「勝ちたいという思い、これは全員持っていた。それをつくったのは監督。このチームで勝ちたいという思いを持って、監督を胴上げしたいという気持ちにさせてくれた。モチベーションにさせてくれたのが大きかった」
村上は、山田に同調しながら、“チームスワローズ”の絆の強さを挙げた。「この試合というのはないんですけど、開幕した当初からチーム全員で勝ちたいという気持ちが一致していた。選手、裏方さん、全ての方を含めて、“チームスワローズ”で戦えた。チームワーク、ベンチワーク、絆じゃないですけど、チーム一丸となって戦えたことが全てと思います」
◆東京ヤクルトスワローズ 2リーグ制が始まった1950年(昭25)、国鉄スワローズとしてセ・リーグに加盟。65年に経営権がサンケイ新聞社(現産経新聞社)に移りサンケイスワローズに。サンケイ・アトムズ、ヤクルト・アトムズと変遷し、74年からスワローズの呼称が復活。06年から球団名に「東京」を冠した。広岡監督の78年にリーグ初優勝(日本一)。野村監督の90年代に4度優勝(日本一3度)するなどリーグ優勝は今回で8度目。日本一5度。
状態を見極め、万全の状態でグラウンドに送り出す。高津監督の気配りが、悲願の優勝を呼び寄せたのです
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