2014年01月26日
信長が家康を饗応した料理
皆さん「饗応料理」をご存知ですか…?
饗応料理とは、酒や食事などを出してもてなすことで、武家の饗応料理は本膳料理と呼ばれ、室町時代に確立された武家の礼法により、江戸時代に発展しました。冠婚葬祭などの儀式的な意味合いが強く、器の並べ方(膳組)から食べる順序、服装、作法などが細かく決められているのです。
実は先日、「安土の信長の館」を訪ねた時、館内の正面に再現された天守の前に、「信長の家康饗応膳」のサンプルが陳列されていたのを思い出しまして…。
天正十年。信長と家康は共同で武田領を侵攻します、すでに信玄を失っていた武田家はこれに耐え切れず、武田勝頼は自害…ついに甲斐源氏武田家は滅びました。武田領だった駿河を奪うことに成功した家康は、この戦功により信長から駿河を拝領され、そのお礼として駿府において信長を接待しています。
この接待のために家康は莫大な私財を注ぎ込み、街道を整備し、宿を整えました。信長は家康領を見回るかのように、各地を周り、上機嫌で接待を受けています。そしてこの返礼として、信長は家康を安土へ招き、饗宴を開きました。
これが安土大饗応と呼ばれるもので、信長から接待役を仰せつかったのが明智光秀です。
この大饗応で振舞われた料理は当時としても眼を見張る豪華なものだったようで、その献立を再現しようという試みを安土の町のイベントで幾度か行われたようです。その時の料理を元にした食品サンプルのようなレプリカが「安土城天主 信長の館」に展示されているのです。

この時代の最高峰の食事と言われていて、その内容が非常に興味深く、今では珍しい、ひばりの焼き鳥や、魚も、鱧、すずき、かれい、鱒などがありました。朝ご飯から膳が5つもあり、この時代から数の子やからすみが食されていたということが特に興味深かったです。
これだけの食材をそろえるのに、当時の輸送、冷蔵技術などで、想像以上の苦労があったはずで、接待役を命じられた明智光秀も、さぞかし大変であっただろうと思います。その光秀は、接待の準備の不始末からか信長の怒りをかい途中で任を解かれ、この事が本能寺の変の原因の一つと伝えられています。
日本史の謎とされる本能寺の変は何が原因で起きたのか…?
饗応役の明智光秀は「支度が行き過ぎている」と信長の怒りを買い森蘭丸ら小姓衆に殴打され、翌日には饗応役を解任された…。これが原因で本能寺の変が…?
家康饗応に端緒を求める指摘は、様々な説の一つとして常に登場します。ほんの少し小説を読んだ知識しかありませんが、多くは「食材の魚が腐っていた」、あるいは「光秀が用意した京料理の薄味が塩辛い味付けを好む信長に合わなかった」など食材の選択や調理方法に原因を求めていて、「料理が立派過ぎた」との説が一般的と言えるほど有力説とは知りませんでした。
この時の饗応をめぐっては、信長が家康の毒殺を命じたのに光秀がこれを拒否したため信長の怒りをかった、などの説もあるようですが、残念がら真偽は分かりません。それでも過剰接待が原因と言う説は、「料理が腐っていた」といった通説に比べ説得性があるような気がします。
光秀は諸学に通じた当代一流の知識人であり慎重な性格だったと言われています。最大限の心配りで饗応役を務めたと思われ、食材の選択や料理方法に手落ちがあったとは考えにくく、むしろ饗応に徹底を期すあまり「家康が盟友ではあっても、あくまで弟分であり自分より格下」とみる信長のプライドを結果的に傷つけた可能性の方があるように思われます。
レプリカの饗応メニューは「続群書類従」に基づき東京福祉大学の大学院理事長が中心となって復元した、とパンフレットで説明されていますから、学術的な成果だと思います。(一の膳から五の膳まで30数品、写真に見るように大変豪華なもので、当時の交通事情や材料の保存技術のことを考えると、気の遠くなるような贅沢な料理だっに違いありません…)、しかしメニューが当時の食文化の中でどの程度、贅沢な内容だったのか、この点に関しても判断できるような知識は私にはなく、結局、真相は定かではないのが現実です。

当日の復元献立…当時の資料「続群書類従」の記述に基づきでき得る限り忠実に復元された。
一の膳
①金高立入、蛸(湯引たこ)②鯛の焼き物③菜汁④膾(なます)⑤高立入、香の物(大根の味噌漬)⑥鮒の寿司⑦御飯
二の膳
①絵を書いた金の桶入、うるか(鮎の内臓の塩辛、今回はこのわた使用)②高立入、宇治丸(鰻の丸蒲焼き ③ほや冷や汁 ④太煮(干海鼠に由芋を入れて味噌煮にしたもの)⑤絵を描いた金色の輪に乗せた貝鮑⑥高立入、鱧(照焼き)⑦鯉の汁
三の膳
①焼き鳥(鶉・うずらの姿焼き、当時は雲雀・ひばり)②山の芋鶴汁(鶴とろ汁味噌仕立て、鶴はフランス産使用)③がざみ(ワタリガニの一種)④辛螺・にし(にしがいの壷煎、巻貝の一種)⑤鱸・すずき汁
四の膳
①高立入、巻するめ②鮒汁③高立入、椎茸④色絵皿入、鴫・しぎ壷(鴫の壷焼き、なすの田楽)
五の膳
①まな鰹さしみ②生姜酢③鴨・かも汁(鴨の味噌汁)④けずり昆布⑤土器入りのごぼう
足付の縁高御菓子
①から花(造花)②みの柿(干し柿)③豆飴 くるみ⑤花昆布⑥求肥餅(羽二重餅)
饗応料理とは、酒や食事などを出してもてなすことで、武家の饗応料理は本膳料理と呼ばれ、室町時代に確立された武家の礼法により、江戸時代に発展しました。冠婚葬祭などの儀式的な意味合いが強く、器の並べ方(膳組)から食べる順序、服装、作法などが細かく決められているのです。
実は先日、「安土の信長の館」を訪ねた時、館内の正面に再現された天守の前に、「信長の家康饗応膳」のサンプルが陳列されていたのを思い出しまして…。
天正十年。信長と家康は共同で武田領を侵攻します、すでに信玄を失っていた武田家はこれに耐え切れず、武田勝頼は自害…ついに甲斐源氏武田家は滅びました。武田領だった駿河を奪うことに成功した家康は、この戦功により信長から駿河を拝領され、そのお礼として駿府において信長を接待しています。
この接待のために家康は莫大な私財を注ぎ込み、街道を整備し、宿を整えました。信長は家康領を見回るかのように、各地を周り、上機嫌で接待を受けています。そしてこの返礼として、信長は家康を安土へ招き、饗宴を開きました。
これが安土大饗応と呼ばれるもので、信長から接待役を仰せつかったのが明智光秀です。
この大饗応で振舞われた料理は当時としても眼を見張る豪華なものだったようで、その献立を再現しようという試みを安土の町のイベントで幾度か行われたようです。その時の料理を元にした食品サンプルのようなレプリカが「安土城天主 信長の館」に展示されているのです。

この時代の最高峰の食事と言われていて、その内容が非常に興味深く、今では珍しい、ひばりの焼き鳥や、魚も、鱧、すずき、かれい、鱒などがありました。朝ご飯から膳が5つもあり、この時代から数の子やからすみが食されていたということが特に興味深かったです。
これだけの食材をそろえるのに、当時の輸送、冷蔵技術などで、想像以上の苦労があったはずで、接待役を命じられた明智光秀も、さぞかし大変であっただろうと思います。その光秀は、接待の準備の不始末からか信長の怒りをかい途中で任を解かれ、この事が本能寺の変の原因の一つと伝えられています。
日本史の謎とされる本能寺の変は何が原因で起きたのか…?
饗応役の明智光秀は「支度が行き過ぎている」と信長の怒りを買い森蘭丸ら小姓衆に殴打され、翌日には饗応役を解任された…。これが原因で本能寺の変が…?
家康饗応に端緒を求める指摘は、様々な説の一つとして常に登場します。ほんの少し小説を読んだ知識しかありませんが、多くは「食材の魚が腐っていた」、あるいは「光秀が用意した京料理の薄味が塩辛い味付けを好む信長に合わなかった」など食材の選択や調理方法に原因を求めていて、「料理が立派過ぎた」との説が一般的と言えるほど有力説とは知りませんでした。
この時の饗応をめぐっては、信長が家康の毒殺を命じたのに光秀がこれを拒否したため信長の怒りをかった、などの説もあるようですが、残念がら真偽は分かりません。それでも過剰接待が原因と言う説は、「料理が腐っていた」といった通説に比べ説得性があるような気がします。
光秀は諸学に通じた当代一流の知識人であり慎重な性格だったと言われています。最大限の心配りで饗応役を務めたと思われ、食材の選択や料理方法に手落ちがあったとは考えにくく、むしろ饗応に徹底を期すあまり「家康が盟友ではあっても、あくまで弟分であり自分より格下」とみる信長のプライドを結果的に傷つけた可能性の方があるように思われます。
レプリカの饗応メニューは「続群書類従」に基づき東京福祉大学の大学院理事長が中心となって復元した、とパンフレットで説明されていますから、学術的な成果だと思います。(一の膳から五の膳まで30数品、写真に見るように大変豪華なもので、当時の交通事情や材料の保存技術のことを考えると、気の遠くなるような贅沢な料理だっに違いありません…)、しかしメニューが当時の食文化の中でどの程度、贅沢な内容だったのか、この点に関しても判断できるような知識は私にはなく、結局、真相は定かではないのが現実です。

当日の復元献立…当時の資料「続群書類従」の記述に基づきでき得る限り忠実に復元された。
一の膳
①金高立入、蛸(湯引たこ)②鯛の焼き物③菜汁④膾(なます)⑤高立入、香の物(大根の味噌漬)⑥鮒の寿司⑦御飯
二の膳
①絵を書いた金の桶入、うるか(鮎の内臓の塩辛、今回はこのわた使用)②高立入、宇治丸(鰻の丸蒲焼き ③ほや冷や汁 ④太煮(干海鼠に由芋を入れて味噌煮にしたもの)⑤絵を描いた金色の輪に乗せた貝鮑⑥高立入、鱧(照焼き)⑦鯉の汁
三の膳
①焼き鳥(鶉・うずらの姿焼き、当時は雲雀・ひばり)②山の芋鶴汁(鶴とろ汁味噌仕立て、鶴はフランス産使用)③がざみ(ワタリガニの一種)④辛螺・にし(にしがいの壷煎、巻貝の一種)⑤鱸・すずき汁
四の膳
①高立入、巻するめ②鮒汁③高立入、椎茸④色絵皿入、鴫・しぎ壷(鴫の壷焼き、なすの田楽)
五の膳
①まな鰹さしみ②生姜酢③鴨・かも汁(鴨の味噌汁)④けずり昆布⑤土器入りのごぼう
足付の縁高御菓子
①から花(造花)②みの柿(干し柿)③豆飴 くるみ⑤花昆布⑥求肥餅(羽二重餅)
Posted by きくいち at 23:42│Comments(0)
│大将