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2014年03月07日

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

丹波から西進する山陰道と播磨から北上する播但道の接点にある和田山は古くからの交通の要所で、その両街道の接点近くにある古城山に竹田城は築かれています。

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

竹田城は標高353mの古城山山頂に主郭部が築かれた典型的な山城です。
この城の魅力は山頂の地形のままに総石垣で構築された圧倒的な姿に尽きます。

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

竹田城といえば山頂に残る全国でも屈指の石垣群が有名ですが、ここの石垣は安土城や姫路城と同じ穴太積みが用いられ、非常に美しい山城の姿を現在に伝えています。

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
(山城の郷から…虎臥山を見上げると、山頂に累々とした石垣が見え、気持ちが高まりました)
城跡を覆う樹木が少ないせいで山麓からでもその圧倒的な石垣を望めます。

登城ルートは「山の郷」からの「南登山道」…本来なら中腹の駐車場まで車で行けるのですが、冬季間は車両通行止めわーん 山の郷駐車場から中腹の駐車場まで1時間ちょっと、そこからさらに城跡まで約20分…でもここまで来たら歩くしかありませんしょんぼり

ところが、観光タクシーの運転手さんが別ルートを聞いてくれて…少し急ではあるが「駅裏登山道」で行くと1時間はかからないとの事…健脚に物言わてと、そちらのルートを選択しました。ナイス

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
(情報館、天空の城から…)
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
(虎臥城公園前の踏み切り)
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
後から気が付いたのですが、実際に歩いたのは表米神社登山道でした…

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
タクシーの運転手も地元でなく登山道をよく知っていなかったようです…

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
中腹駐車場からの登城口にある模擬山門…冬でなければここまで車でこれたのに…用意されていた杖を使って大手門コースをさらに歩きます(ここから約20分…)

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
やっと石垣が見えてきました…

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
竹田城南千畳
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
竹田城勝手口
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
竹田城平殿
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
竹田城二の丸
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
本丸から北千畳
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
天守台
最高峰にある天守台を中心にして梯郭式に、南に南二の丸と南千畳、北東に二の丸と三の丸そして北千畳、西に花屋敷が配置されている。城の規模は、南北約400m、東西100mでいまなお当時の偉容をほこっています。

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
三の丸門
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
北千畳
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
大手門
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
三の丸
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
本丸から南千畳
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
正門
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
本丸から
この城ほど 山上にあって視界を遮る樹木の少ない城はないでしょう。本丸最高所に立つと180度パノラマの景色が拡がります。まさしく天空に向かって立つ思いです。もうひとつ素晴らしいのは樹木の少ない恩恵で 全縄張りが一目で見渡せることです。現在の山城は殆どが樹木に覆われ山と一体化してますが、往時の山城の中枢部は現在の竹田城城のような状態だったと思われます。
 
山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ
情報館模型から…

縄張りは全体的にはシンプルで本丸を中心に北と南に延びる郭と背後の花屋敷からなっています。残念ながらこの時期は天守台には登れませんでしたが、情報館の写真から見ると南北の各千畳曲輪が翼で花屋敷曲輪が尾で、飛翔する鳥のような縄張りだという事が分かります。

この天守台は縄張りのほぼ中央に位置し山麓の城下からも正面にあたり、まさしく「見せる天守」を絵に描いたような構図です。山城のおもしろいところは曲輪内の通路が地形の高低差で複雑なことで、狭い箇所で幾重にも折れ曲がる石塁の変化が楽しめます。当時、建築群は天守、櫓で総数20基ほどあったらしく、この総石垣に加えその全貌は拠点城郭としては威圧するものがあったと想えます。
 
【歴史】(現地案内板より)
竹田城は、嘉吉3年に但馬守護山名持豊(宗全)が築城し、家臣太田垣光景に守らせました。戦国時代の天正元年には、播磨龍野城主赤松広秀に攻められ落城し、城主太田垣朝延は因幡に逃れ、広秀が城主とります。天正5年、豊臣秀吉がによる播磨侵攻により、但馬にも兵を入れ、竹田城も豊臣秀長によて攻められ落城します。秀吉は、但馬攻略の功を賞して弟秀長に但馬を預け、秀長はこの竹田城の城主なりました。
その後、桑山重晴が城主になるが、天正13年紀伊和歌山城代に転じると、再び赤松広秀が城主に任じられます。この時期に、竹田城は現在残る石垣群が築かれました。慶長5年、赤松広秀は関ヶ原の役では西軍に加担して自刃し、竹田城も廃城となりました。 

山頂に累々と築かれた石垣…日本のマチュピチュ

竹田城は、戦国時代の山城と言うよりも、むしろ近世山城と言ってよいほどで、日本三大山城(美濃岩村城・大和高取城・備中松山城)の各城とも素晴らしいと思いますが、城跡から見る展望、累々と残る石垣の見事さ、どれをとっても三代山城に勝るとも劣らないのでは…?
私自身、日本三大山城に全て行っている訳ではありませんが、むしろそれらの城よりも山城の素晴らしさ、感動を伝えてくれるのではないでしょうか…?関ヶ原以後廃城されず、存続していたならば間違いなく「日本四大山城」に数えられていたと思います。
 


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Posted by きくいち at 15:52│Comments(0)趣味

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