2014年09月15日
わずか7年で廃城になった田沼意次が築いた近世城郭
親戚の見舞いで静岡に行ってきました。その途中、相良(牧之原)の歴史史料館に立ち寄りました。

相良城を模した歴史史料館…相良城本丸跡地に建つ、相良城の城閣を形どった郷土史料館。
ここには相良城の初代城主だった田沼意の肖像画や遺品をはじめ、領内遠望図、田沼意次貨幣改革で使われた三貨(南鐐二朱判、五匁銀、四文銭)、田沼意次寄進の大名馬具や八幡宮神輿、相良城ゆかりの古文書、国宝聖武天皇勅書(複製)大江八幡宮の御船など文化財や歴史資料、稲荷山古墳からの出土品、およそ270点が展示されています。

田沼意の肖像画

大江八幡宮の御船(この時代の鰹和船…
)

相良城の城址碑
権勢を誇った田沼意次の失脚、意次が築いた相良城は、「田沼意次憎し」の一念か? 老中松平定信の命によって徹底的に破壊されてしまいました。現在の相良城は、相良町役場・相良小学校・相良中学校の敷地になっています。役場の一角にある郷土資料館前に、徳川家達書による相良城趾の石碑が建っていて、資料館の職員の方のお話では、役場前の道路が内堀跡とか…?道端に生えている並木が、堀端にあった木に見えてきました。
【城郭の歴史】
相良城の前身は、平安末期に相良荘を領した肥後人吉城主相良氏の先祖相良周頼の館(相良館)、戦国時代に武田勝頼が築いた相良古城です。相良古城は、その後相良御殿となり、江戸時代には、本多・板倉・本多氏1万石の所領だった。(天正2年武田勝頼に高天神城を落とされた徳川家康は、高天神城への支援・補給ルートを絶つべく諏訪原城への攻撃を強め、翌3年に諏訪原城を攻略した。諏訪原城を落とされ、牧ノ原台地を経由する高天神城への支援ルートを失った勝頼は、小山城から遠州灘沿いのルートを確保するため天正4年(1575)高坂弾正に命じて相良城を築かせた。
天正10年武田氏滅亡後、相良城は天野三郎兵衛によって徳川家康の相良御殿が営まれた。
宝永7年(1710)寺社奉行であった本多忠晴が相良1万5千石を領して陣屋を構え、その後板倉氏、本多氏が藩主となり、明和4年(1767)には側用人田沼意次が3万石で入封した。翌5年、老中にのぼり5万2千石に加封された意次は、相良城の築城に着手し、安永9年(1780)に石垣造りの城を完成させた。(現地資料から)

史料館前には相良城本丸跡の石碑が建てられている。
近世城郭相良城は、明和5年に田沼意次が築城したものです。権勢を誇った意次が、その格式によって城は築かれましたが、松平定信が老中になり、田沼意次は失脚します。意次の家督を嗣いだ意明は、天明7年に陸奥下村へ移封。そして相良城は廃城となり破却されます。
その後、天領を経て、文政8年に陸奥下村から田沼意正が、1万石で旧領相良に復帰、以後3代続いて明治に至ります。慶応4年、徳川家達が駿河駿府へ移封されたことに伴い、田沼意尊が上総小久保に移され陣屋を構えます。
田沼意次の一代、わずか7年で廃城になった近世城郭。天明8年(1788)に壊され堀も埋められ農地になったそうです。そのため、遺構はほとんどありませんでした。

【田沼街道】
相良と東海道の宿場の藤枝宿を結んだ街道で相良街道とも呼ばれている。宝暦8年(1758)田沼意次が相良藩主となり城を築き、街道,港,橋を整備して、地域産業の発展に貢献した。この意次が整備した道であるので田沼街道と呼ばれるようになった。
道筋は相良の湊橋を起点として榛原町、吉田町を通り、大井川を越え藤枝市内を北上して瀬戸川西岸で東海道に合流した。その間の距離は約7里(約28km)である。(現地案内板から)
史料館西隣の相良小学校は二の丸跡で、入口には高さ3mほどの土塁が今でも残っている。

相良町役場・相良町史料館が本丸跡、小学校が二の丸跡、高校が三の丸跡。相良町史料館横に石碑があります。また、二の丸跡の相良小学校入り口の土塁にある松は、かつて二の丸にあった当時のものだそうです。
唯一相良城の遺構として、仙台河岸の石垣が僅かに残っているだけ。
この石垣は、仙台城主伊達重村の協力によって築かれたことから、この名が付いたそうです。

船着場として利用した「仙台河岸)」と呼ばれるエリアは、かつては、城内と外海を結ぶ軍事上の役目を秘め備えた船着場で、当時は千石船が横付けできたそうです。それを示す案内板と石垣があります。東へ徒歩5分程度。路地とまではいかないですが狭い路を進み、幅2mほどの川にかかる小さい橋の付近にあるため、あらかじめ史料館等で場所を確認してから行くといいです。

町役場の周囲の民家の間には仙台藩から寄進された石で造られたとされる石垣(仙台河岸)の一部が残っている。
石器時代から人が住んでいたという、相良町。田沼氏城下町の雰囲気を漂わせているこの一帯は、現在も郷土の歴史の拠点として人々に親しまれているようです。実は一緒に見舞いに行ったうちの父親の生まれ故郷が榛原で、相良とは隣町…
昔を懐かしがり、いろいろ説明してくれました。

親父も乗った藤相線…大喜びの親父を見て、少しは親孝行ができた気がしました。

相良城を模した歴史史料館…相良城本丸跡地に建つ、相良城の城閣を形どった郷土史料館。
ここには相良城の初代城主だった田沼意の肖像画や遺品をはじめ、領内遠望図、田沼意次貨幣改革で使われた三貨(南鐐二朱判、五匁銀、四文銭)、田沼意次寄進の大名馬具や八幡宮神輿、相良城ゆかりの古文書、国宝聖武天皇勅書(複製)大江八幡宮の御船など文化財や歴史資料、稲荷山古墳からの出土品、およそ270点が展示されています。

田沼意の肖像画

大江八幡宮の御船(この時代の鰹和船…


相良城の城址碑
権勢を誇った田沼意次の失脚、意次が築いた相良城は、「田沼意次憎し」の一念か? 老中松平定信の命によって徹底的に破壊されてしまいました。現在の相良城は、相良町役場・相良小学校・相良中学校の敷地になっています。役場の一角にある郷土資料館前に、徳川家達書による相良城趾の石碑が建っていて、資料館の職員の方のお話では、役場前の道路が内堀跡とか…?道端に生えている並木が、堀端にあった木に見えてきました。
【城郭の歴史】
相良城の前身は、平安末期に相良荘を領した肥後人吉城主相良氏の先祖相良周頼の館(相良館)、戦国時代に武田勝頼が築いた相良古城です。相良古城は、その後相良御殿となり、江戸時代には、本多・板倉・本多氏1万石の所領だった。(天正2年武田勝頼に高天神城を落とされた徳川家康は、高天神城への支援・補給ルートを絶つべく諏訪原城への攻撃を強め、翌3年に諏訪原城を攻略した。諏訪原城を落とされ、牧ノ原台地を経由する高天神城への支援ルートを失った勝頼は、小山城から遠州灘沿いのルートを確保するため天正4年(1575)高坂弾正に命じて相良城を築かせた。
天正10年武田氏滅亡後、相良城は天野三郎兵衛によって徳川家康の相良御殿が営まれた。
宝永7年(1710)寺社奉行であった本多忠晴が相良1万5千石を領して陣屋を構え、その後板倉氏、本多氏が藩主となり、明和4年(1767)には側用人田沼意次が3万石で入封した。翌5年、老中にのぼり5万2千石に加封された意次は、相良城の築城に着手し、安永9年(1780)に石垣造りの城を完成させた。(現地資料から)

史料館前には相良城本丸跡の石碑が建てられている。
近世城郭相良城は、明和5年に田沼意次が築城したものです。権勢を誇った意次が、その格式によって城は築かれましたが、松平定信が老中になり、田沼意次は失脚します。意次の家督を嗣いだ意明は、天明7年に陸奥下村へ移封。そして相良城は廃城となり破却されます。
その後、天領を経て、文政8年に陸奥下村から田沼意正が、1万石で旧領相良に復帰、以後3代続いて明治に至ります。慶応4年、徳川家達が駿河駿府へ移封されたことに伴い、田沼意尊が上総小久保に移され陣屋を構えます。
田沼意次の一代、わずか7年で廃城になった近世城郭。天明8年(1788)に壊され堀も埋められ農地になったそうです。そのため、遺構はほとんどありませんでした。

【田沼街道】
相良と東海道の宿場の藤枝宿を結んだ街道で相良街道とも呼ばれている。宝暦8年(1758)田沼意次が相良藩主となり城を築き、街道,港,橋を整備して、地域産業の発展に貢献した。この意次が整備した道であるので田沼街道と呼ばれるようになった。
道筋は相良の湊橋を起点として榛原町、吉田町を通り、大井川を越え藤枝市内を北上して瀬戸川西岸で東海道に合流した。その間の距離は約7里(約28km)である。(現地案内板から)
史料館西隣の相良小学校は二の丸跡で、入口には高さ3mほどの土塁が今でも残っている。

相良町役場・相良町史料館が本丸跡、小学校が二の丸跡、高校が三の丸跡。相良町史料館横に石碑があります。また、二の丸跡の相良小学校入り口の土塁にある松は、かつて二の丸にあった当時のものだそうです。

唯一相良城の遺構として、仙台河岸の石垣が僅かに残っているだけ。
この石垣は、仙台城主伊達重村の協力によって築かれたことから、この名が付いたそうです。

船着場として利用した「仙台河岸)」と呼ばれるエリアは、かつては、城内と外海を結ぶ軍事上の役目を秘め備えた船着場で、当時は千石船が横付けできたそうです。それを示す案内板と石垣があります。東へ徒歩5分程度。路地とまではいかないですが狭い路を進み、幅2mほどの川にかかる小さい橋の付近にあるため、あらかじめ史料館等で場所を確認してから行くといいです。

町役場の周囲の民家の間には仙台藩から寄進された石で造られたとされる石垣(仙台河岸)の一部が残っている。
石器時代から人が住んでいたという、相良町。田沼氏城下町の雰囲気を漂わせているこの一帯は、現在も郷土の歴史の拠点として人々に親しまれているようです。実は一緒に見舞いに行ったうちの父親の生まれ故郷が榛原で、相良とは隣町…

昔を懐かしがり、いろいろ説明してくれました。

親父も乗った藤相線…大喜びの親父を見て、少しは親孝行ができた気がしました。

Posted by きくいち at 16:03│Comments(0)
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