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2015年04月20日

賤ヶ岳の古戦場

北近江の旅、初日最後に向かったのが、賤ヶ岳の古戦場車

賤ヶ岳の古戦場

本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。

賤ヶ岳の古戦場

賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられていて、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。

賤ヶ岳の古戦場

賤ヶ岳砦(山頂)まではリフト(一人乗り)と登山道がありますが、登山道はリフトの下を七曲りで上がっていく感じで、途中には特に遺構などもないので登山自体が好きでないとつまらないかも…?と言うことでリフトを選択しました。

賤ヶ岳の古戦場
賤ヶ岳の古戦場
賤ヶ岳の古戦場

リフトを降り登山道を登って行きます。登山道から時折見える琵琶湖の北端。賤ヶ岳は琵琶湖北の余呉湖の湖畔にありますが、余呉湖は北側なので、山頂の向こう側にあたりでは…?

賤ヶ岳の古戦場

登山道はゆるやかに奥へ向かうと、途中右側に祠のようなものが見えてきます。賤ヶ嶽合戦戦歿者霊地…賤ヶ嶽合戦の戦没者を弔う石佛が野山に点在していたが、昭和57年にここに合祀して移転したそうで、4月の山開き祭の際に供養をしているそうです。

賤ヶ岳の古戦場

いよいよ山頂です。色々石碑などが建てられていました。かつての激戦地も、今はリフトで楽々ハイキングコースとなっていて、お城ではなく戦に備えた山頂の砦の1つでしたが、土塁や虎口や堀切など砦の基礎工事の跡がしっかり残っていました。

賤ヶ岳の古戦場

入口付近にあった「史蹟 賤ヶ嶽」石碑。戦前に建てられたものです。
東側は展望台のようになっていて、木之本の平野部が一望。史蹟(史跡)だけでなく、琵琶湖八景の1つ「新雪賤ヶ岳の大観」としても登録されているようです。他には彦根城、竹生島、瀬田など。

賤ヶ岳の古戦場

今までは道の左側、琵琶湖側しか見えなかったが、ここにきて右側、木之本市街地(本日の宿泊先)への眺望がひらけてきました。中央奥にうっすら見える山が小谷城跡、少し離れて右側にある独立丘陵が虎御前山(信長が小谷城を攻めた際に陣を敷いた場所)。たぶん…?

賤ヶ岳の古戦場

主郭を少し北へ進むと、史蹟 賤ヶ嶽 の標柱とともに、うなだれたサムライ?の銅像と、百科事典の形をした説明板がありました。

百科事典型の説明板。内容は前半が小説風、後半がエッセイ風で、要はこの銅像の製作者がどういう想いでこの銅像を作ったかを記したもののようです。タイトルは「戦のあと」。場面は秀吉軍が賤ヶ岳近辺での戦に勝ち、柴田軍が撤退したところからスタート。必死の戦が終わると、ひとかどの武将であっても、厳しくて哀しい戦の現実に直面し、戦に赴き続けねばならない己の宿命を想い、勝利方であっても手放しで喜んでいたのではないだろうという考えのもと、このような姿の銅像を造ったとのことしょんぼり

賤ヶ岳の古戦場

賤ヶ岳 三等三角点。標高421m。

賤ヶ岳の古戦場

主郭の西側(余呉湖側)にある巨大な賤ヶ岳周辺地図。賤ヶ岳は中央の余呉湖のすぐ下。赤凸が秀吉軍陣地、白凸が柴田軍陣地。互いが木之本に対峙し陣地を築き始めたのは3月頭だが、実際に大規模な戦闘が起きたのはその1ヶ月半後の4月20日。秀吉が岐阜城の織田信孝を攻めるべく木之本を発った直後、柴田軍の佐久間盛政が大岩山砦(余呉湖の右側)に居た秀吉軍の中川清秀を攻め、これを撃破。そこから盛政の怒濤の侵攻が始まる。深入りする盛政に対し、勝家は再三退却して立て直すよう命令するがこれを無視。そして賤ヶ岳砦まで侵攻したとき、岐阜に向かったはずの秀吉軍本隊が戻ってきて激戦となり、連戦で疲れていた盛政軍は敗走。前田利家の撤退もあり、勝家軍は総崩れとなって居城 北之庄城へと戻っていった。これが4月21日。有名な賤ヶ岳の合戦は実質わずか2日間の出来事だった。

賤ヶ岳の古戦場

巨大な周辺地図の下に、佐久間盛政の説明板がありました。佐久間盛政は柴田軍の勇将で、賤ヶ岳の戦いで深追いしすぎて総崩れとなり柴田軍の敗戦のキッカケを作ったとされていますが、その説は江戸時代の作であり、実際はどうだったか信ぴょう性には疑問が残るところ、とのこと。また秀吉はその佐久間盛政の勇猛さに惚れ込んで、敗戦後に捕らえた際、味方になるように説得するも忠誠厚く寝返らなかったので、なくなく処刑したという話も残っているようです。

賤ヶ岳の古戦場

地面に設置されていた、古い木の説明板。
木の説明板の向こうには、余呉湖。最初に攻められた中川清秀は、余呉湖の東側、この写真の右前ぐらいに陣を敷いていた。そこからこの賤ヶ岳まで、佐久間盛政は一気に攻め立てた。

賤ヶ岳の古戦場

賤ヶ岳砦跡 縄張図も設置されていた。勝家vs秀吉の賤ヶ岳合戦の前にもここに既に城(砦)はあったようで、天正元年(1573年) の浅井朝倉vs織田軍の合戦の際にもここに城があった記録があると言います。遺構としては、山頂の3つの曲輪のほか、堀切、土橋、枡形虎口などがありますが、公園化かつ430年前の土の城なのでそれほど期待はしない方が良いかもしれません。

もう1つの標柱を発見。七本槍古戦場賤ヶ嶽と書かれていて、その向こうには、虎口の跡のような土塁の盛り上がりも見られました。

賤ヶ岳の古戦場

七本槍古戦場賤ヶ嶽の標柱の右側は、琵琶湖の北端を見下ろす眺望スペースになっている。

賤ヶ岳の古戦場

山頂からの琵琶湖の眺望。左の1本高い木の奥にうっすら見える小さな島は、竹生島か。

秀吉がその最大のライバルだった柴田勝家一派を滅ぼした賤ヶ岳古戦場。かつての激戦地はロープウェイに展望台にと公園化されていますが、それでも堀切や土橋、虎口、曲輪といった当時の砦の跡がはっきり分かる遺構も残っていました。少し肩透かしの感じはしましたが、アクセスも簡単でしたし短時間で見て回れてたので良かったです。できれば、玄蕃尾城跡や小谷城跡など近隣の巨大山城も登山したかったのですが…しょんぼり



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Posted by きくいち at 09:49│Comments(0)趣味

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