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2015年08月30日

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

四国旅、2日目のスタートは道後温泉のすぐ側にある道後公園です。ここは国指定史跡となっている湯築城跡です。8年前にここを訪れた時に皆と行動を別にして園内をゆっくり散歩したことがあります。今回は朝も早く資料館も開園していず、時間も限られていたので写真を数枚撮って次の目的地に向かいました車汗うわっ

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

道後公園(湯築城跡)は、道後温泉で有名な愛媛県松山市の道後地区にある面積8.6haの県立都市公園で、松山城から東へ2km、JR松山駅から東へ3.5kmの距離に位置しています。

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)
道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)
道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

道後公園の地形は、直径約350mのほぼ円形状で、中央部は30m程度の高さの丘陵地となっていて、公園全域が、中世伊予の守護河野氏の居城として、14世紀前半から16世紀後半にかけての250年間存続した城跡であり、堀や土塁(どるい)など城の地割(じわり)が当時の姿のままよく残っています。外周は湯築城の外堀で囲まれ、丘陵部を取り巻くように内堀が巡っています。

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

湯築城は、南北朝時代の築城当時は丘陵部に三段の曲輪が設けられた丘城でしたが、戦国時代に丘陵部を取り囲むように内堀と外堀が設けられました。

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

湯築城の外堀は、ほぼ完全な状態で残されていて、堀の内側には高さ約5m程の土塁が廻らされています。その内側が河野氏の上級家臣の屋敷が建ち並んでいたようで、発掘調査に基づいて、武家屋敷の一部が復元されています。

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)
道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

武家屋敷街と丘陵の間には内堀と土塁が復元されていて、土塁は、内堀の外側に築かれた外土塁形式となっています。(東側大手口と武家屋敷との境に遮蔽土塁が復元されている)

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)
•湯築城の縄張り図(現地案内板より)

湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。河野氏は、風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185年)では河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。

承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移しました。その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立しました。庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡し、平安時代末期から戦国期(12世紀末〜16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。

※鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたります。

朝からの雨雨松山を後に次の目的地に急ぎます汗汗




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