2016年03月21日
「花見=桜」は平安時代から…お花見弁当
花見は、日本人が古来から楽しみにしていた春の行事です。奈良時代には、花といえば梅や萩などを指していましたが、平安時代の貴族たちは桜を春の花の代表格として愛で、歌を詠み、花見の宴を開いて楽しんでいました。
以来、この時季に咲き誇る花は、桜以外にも桃や菜の花など色々ありますが、日本人にとって「花」といえば桜の花を意味するようになりました。そして「花見」といえば桜の花を見るために野山に出かることをさし、桜以外の花を見に行くときは「梅見」「観梅」「観菊」などとその花の名前をつけて表します。
今日は花見の歴史を辿りながら当店の春限定「花見弁当」を色々紹介していきます。

【春爛漫御膳…2160円、蕨餅付き】
古代では呪術的要素が強い桜の木の下での宴が、奈良時代には花を楽しむ為の行事と変化しました。「万葉集」には桜を詠んだ歌が残されており、当時の貴族が桜を好んでいた事が分かります。
平安時代になると桜の人気はさらに高まりました。「古今和歌集」の春の歌はほとんどが桜を歌っていて、「源氏物語」でも宮中での華やかな宴の様子が記されています。花といえば桜、というイメージが定着したのもこの頃と考えられています。
鎌倉時代に入ると、貴族の楽しみであった桜の下の宴はあらゆる階層に広まり、武士や町人の間でも行われるようになりました。京都の寺社や山々に山桜が植えられたのもこの時代と言われています。
また、花見は豊作祈願の行事として、農民の間でも行われていました。桜は、春になって山から降りてきた田の神様が宿る木とされていた為、桜の咲き方でその年の収穫を占ったり、桜の開花期に種もみをまく準備をしたりしていました。
「サクラ」の語源には諸説ありますが、一説によると「サクラ」の「サ」は田の神様のことを表し、「クラ」は神様の座る場所という意味があり、「サクラ」は田の神様が山から里に降りて来る時に、一旦留まる依代(よりしろ)を表すとされています。また、桜の花が稲の花に見立てられ、その年の収穫を占うことに使われたりしていた為、「サクラ」の代表として桜の木が当てられるようになったという説もあります。豊作を願って、桜のもとで田の神様を迎え、料理や酒でもてなし、人も一緒に頂く事が本来の花見の意味だったのです。

(お花見弁当…1620円)
江戸時代になると、春の行楽として花見が庶民の間にも広がり、酒を酌み交わす花見になっていきました。江戸時代は、園芸が盛んになった時代でもあり、桜の品種改良が進んだことで、身近な場所で花見が楽しめるようになったのです。三代将軍家光が上野や隅田河畔に桜を植え、八代将軍吉宗は飛鳥山を桜の名所にし、花見の場も増えました。これらは今でも東京の花見の名所になっています。
桜にはたくさんの種類がありますが、日本の桜のおよそ8割を占めるのが「染井吉野」です。桜の代表格とも言える「染井吉野」は、江戸時代末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋が、「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配して観賞用に作りだしたもの。当初は桜で名高い奈良県吉野にあやかり「吉野桜」という名でしたが、吉野山の山桜と間違えないように「染井吉野」と改名されました。
花が大きく香りもよい「大島桜」の華やかさを、花が咲いたあとに葉が出てくると言う「江戸彼岸桜」の特徴がより引き立て、この新品種は一躍人気となりました。「染井吉野」は親木の利点を上手く受け継いだ逸品だったのです。

(お花見御膳…1944円)
染井吉野は成長が早い分、寿命も短いと言われています。近年の環境汚染によるダメージから、深刻な病気も発生しています。種子ではなく、人の手による接ぎ木で増やすことが病気を広げるとの見方もあります。現在お花見会場となっている染井吉野の並木道にも、もしかすると寿命が近づいているかもしれないのです。
山桜、八重桜、吉野桜、桜の品種は数々ありますが、やはりお花見は染井吉野の木の下でしたいものです。お花見文化を後世に伝えるために出来る事は何か、今年はそんなことも考えながらお花見を楽しんでみてはいかがでしょうか…
以来、この時季に咲き誇る花は、桜以外にも桃や菜の花など色々ありますが、日本人にとって「花」といえば桜の花を意味するようになりました。そして「花見」といえば桜の花を見るために野山に出かることをさし、桜以外の花を見に行くときは「梅見」「観梅」「観菊」などとその花の名前をつけて表します。
今日は花見の歴史を辿りながら当店の春限定「花見弁当」を色々紹介していきます。

【春爛漫御膳…2160円、蕨餅付き】
古代では呪術的要素が強い桜の木の下での宴が、奈良時代には花を楽しむ為の行事と変化しました。「万葉集」には桜を詠んだ歌が残されており、当時の貴族が桜を好んでいた事が分かります。
平安時代になると桜の人気はさらに高まりました。「古今和歌集」の春の歌はほとんどが桜を歌っていて、「源氏物語」でも宮中での華やかな宴の様子が記されています。花といえば桜、というイメージが定着したのもこの頃と考えられています。
鎌倉時代に入ると、貴族の楽しみであった桜の下の宴はあらゆる階層に広まり、武士や町人の間でも行われるようになりました。京都の寺社や山々に山桜が植えられたのもこの時代と言われています。
また、花見は豊作祈願の行事として、農民の間でも行われていました。桜は、春になって山から降りてきた田の神様が宿る木とされていた為、桜の咲き方でその年の収穫を占ったり、桜の開花期に種もみをまく準備をしたりしていました。
「サクラ」の語源には諸説ありますが、一説によると「サクラ」の「サ」は田の神様のことを表し、「クラ」は神様の座る場所という意味があり、「サクラ」は田の神様が山から里に降りて来る時に、一旦留まる依代(よりしろ)を表すとされています。また、桜の花が稲の花に見立てられ、その年の収穫を占うことに使われたりしていた為、「サクラ」の代表として桜の木が当てられるようになったという説もあります。豊作を願って、桜のもとで田の神様を迎え、料理や酒でもてなし、人も一緒に頂く事が本来の花見の意味だったのです。

(お花見弁当…1620円)
江戸時代になると、春の行楽として花見が庶民の間にも広がり、酒を酌み交わす花見になっていきました。江戸時代は、園芸が盛んになった時代でもあり、桜の品種改良が進んだことで、身近な場所で花見が楽しめるようになったのです。三代将軍家光が上野や隅田河畔に桜を植え、八代将軍吉宗は飛鳥山を桜の名所にし、花見の場も増えました。これらは今でも東京の花見の名所になっています。
桜にはたくさんの種類がありますが、日本の桜のおよそ8割を占めるのが「染井吉野」です。桜の代表格とも言える「染井吉野」は、江戸時代末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋が、「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配して観賞用に作りだしたもの。当初は桜で名高い奈良県吉野にあやかり「吉野桜」という名でしたが、吉野山の山桜と間違えないように「染井吉野」と改名されました。
花が大きく香りもよい「大島桜」の華やかさを、花が咲いたあとに葉が出てくると言う「江戸彼岸桜」の特徴がより引き立て、この新品種は一躍人気となりました。「染井吉野」は親木の利点を上手く受け継いだ逸品だったのです。

(お花見御膳…1944円)
染井吉野は成長が早い分、寿命も短いと言われています。近年の環境汚染によるダメージから、深刻な病気も発生しています。種子ではなく、人の手による接ぎ木で増やすことが病気を広げるとの見方もあります。現在お花見会場となっている染井吉野の並木道にも、もしかすると寿命が近づいているかもしれないのです。
山桜、八重桜、吉野桜、桜の品種は数々ありますが、やはりお花見は染井吉野の木の下でしたいものです。お花見文化を後世に伝えるために出来る事は何か、今年はそんなことも考えながらお花見を楽しんでみてはいかがでしょうか…

Posted by きくいち at 08:44│Comments(0)
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