2017年11月04日
浄土真宗の東本願寺・西本願寺・大谷派の違い(地方分布)
墓の土台ができ、先程、魂入れ法要を済ませやっと親父のお骨をお墓に収めることが出来、まずは一安心
後は100日法要を済ませれば、1周忌までしばらくはホッとできます。

日本の伝統教団最大の浄土真宗ですが(日本には大きく分けて13宗54派あるといわれます)、西本願寺末寺(浄土真宗本願寺派)は広島を中心とした中国地方に多く、東本願寺末寺(真宗大谷派)は名古屋、岐阜を中心とした東海地方に多いそうです
北陸の福井・石川・富山は両派とも多く、「真宗王国」などと呼ばれています。真宗は概して、西日本で強い勢力をもっているようですね
浄土宗は徳川家との関係上、三河の岡崎を中心とした愛知県や、東京・京都に末寺や本山格の寺が集中している都市型の宗派ですね
そして日蓮宗は日蓮聖人がご活躍になった関東や静岡県東部、それから岡山とか熊本に多いようで、どちらかというと東日本に多いようです。また、禅宗系の曹洞宗は、全国的に多いようですが、静岡県西部あたりが寺院密度が高いようです。臨済宗もおなじ静岡西部や鎌倉・京都に多いようです
その他の宗派としては真言宗は四国や近畿南部。それから天台宗は意外に関東地方に多いようです

京都にある東本願寺、西本願寺は、いわゆる通称というもので、西本願寺は正しくは龍谷山本願寺といい、浄土真宗本願寺派の本山です。 一方、東本願寺は正しくは「真宗本廟」といい、真宗大谷派の本山です。戦国時代、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます
秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのだそうです
そのため、本願寺派と大谷派の違いは、政治的問題によって分裂が起きたのですから、教義上においてはほとんどなく、それゆえ、東西の交流がもどるのもさほど時間はかからなかったようです。 (日蓮系宗派が教義上の理由で分派している点とは大きな違いです
)
せいぜい、本願寺派中興の祖、蓮如上人の五帖御文の呼び方が、本願寺派が「御文章(ごぶんしょう)」といい、大谷派が「御文(おふみ)」ということ、日常の勤行で読まれる「正信念仏偈」の節回しが微妙に違うこと、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。あと、焼香の回数が本願寺派は1回、大谷派は2回。お仏壇の様式が微妙に違うところがあります。まぁ、その程度の違いしかないのです
ちなみに、浄土真宗西本願寺派という呼び方は誤りだそうで、そのような宗教団体は無いようです。また、真宗東本願寺派というのもありませんが、浄土真宗東本願寺派という宗教団体はあるそうです
これは、昭和56年に宗派の維持・運営をめぐる見解の相違により、真宗大谷派から離脱・独立した宗派で、東京にある「東本願寺」が本山です
ご住職御説法有難うございました…ハト派→本願寺派、タカ派→大谷派…妙に納得してしまいました
まさに、誰かさんと私の性格の違いが出ているようなものですね


日本の伝統教団最大の浄土真宗ですが(日本には大きく分けて13宗54派あるといわれます)、西本願寺末寺(浄土真宗本願寺派)は広島を中心とした中国地方に多く、東本願寺末寺(真宗大谷派)は名古屋、岐阜を中心とした東海地方に多いそうです


浄土宗は徳川家との関係上、三河の岡崎を中心とした愛知県や、東京・京都に末寺や本山格の寺が集中している都市型の宗派ですね

そして日蓮宗は日蓮聖人がご活躍になった関東や静岡県東部、それから岡山とか熊本に多いようで、どちらかというと東日本に多いようです。また、禅宗系の曹洞宗は、全国的に多いようですが、静岡県西部あたりが寺院密度が高いようです。臨済宗もおなじ静岡西部や鎌倉・京都に多いようです

その他の宗派としては真言宗は四国や近畿南部。それから天台宗は意外に関東地方に多いようです


京都にある東本願寺、西本願寺は、いわゆる通称というもので、西本願寺は正しくは龍谷山本願寺といい、浄土真宗本願寺派の本山です。 一方、東本願寺は正しくは「真宗本廟」といい、真宗大谷派の本山です。戦国時代、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます

秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのだそうです

そのため、本願寺派と大谷派の違いは、政治的問題によって分裂が起きたのですから、教義上においてはほとんどなく、それゆえ、東西の交流がもどるのもさほど時間はかからなかったようです。 (日蓮系宗派が教義上の理由で分派している点とは大きな違いです

せいぜい、本願寺派中興の祖、蓮如上人の五帖御文の呼び方が、本願寺派が「御文章(ごぶんしょう)」といい、大谷派が「御文(おふみ)」ということ、日常の勤行で読まれる「正信念仏偈」の節回しが微妙に違うこと、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。あと、焼香の回数が本願寺派は1回、大谷派は2回。お仏壇の様式が微妙に違うところがあります。まぁ、その程度の違いしかないのです

ちなみに、浄土真宗西本願寺派という呼び方は誤りだそうで、そのような宗教団体は無いようです。また、真宗東本願寺派というのもありませんが、浄土真宗東本願寺派という宗教団体はあるそうです


ご住職御説法有難うございました…ハト派→本願寺派、タカ派→大谷派…妙に納得してしまいました

まさに、誰かさんと私の性格の違いが出ているようなものですね

Posted by きくいち at 16:07│Comments(0)
│大将