2017年11月01日
11月1日がすしの日である由来は何?
11月1日がすしの日に認定されたのは、なんと1961年からなんです。もう50年以上も続いているんですね。その由来はなんなのかというと、11月から秋が本格化するからなんだとか…
秋は実りや収穫の時期で、お米も大量に出回る時期になります。そのため、秋の実りや田んぼの神様に感謝の意を伝えるという意味で、お米の料理に由来したすしを使って「すしの日」となったんだそうです
また、なぜ具体的に11月1日という日付になったのかというと、これには歌舞伎が関係してきます。有名な義経千本桜の中にすし屋が出てくる物語があるのですが、その人物は後にすし屋の先祖となる重要な人物で、かつ平安時代~鎌倉時代における平維盛という人物です。
彼は平家を大繁栄させた清盛の孫でかなり高貴な人物でしたが、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れてすし屋にかくまわれることとなります。するとそこにいた主人の娘に恋をし、のちに養子となってそのすし屋を継ぐこととなるのです。
その養子になった際に改名したのが11月1日と言われていたため、この日はすしの日だと言われているんです。こうやって歴史を辿ると、寿司の日は平安時代にまでさかのぼるんですね
なんだかとってもロマンチックです

1961年(昭和36年)11月に全国寿司商環衛連の第4回全国寿司商環衛連・熊本大会の際に毎年11月1日を、みのりの秋・収穫の秋・米への感謝の日として「全国すしの日」にすることが決議されたのが始まりです。これは、食欲味覚の秋に伝統のすしの真価を一般の方々へ浸透させ、老若男女の別なく十二分に愛食していただき、また、一年間のご愛食への謝恩に報いるためにとのことです。
その理由… 義経千本桜(歌舞伎18番狂言)の中に「鮓屋の段」と言うのがあります。ここに出てくる鮓屋の弥助がすし屋の先祖とされてます。この話は、江戸中期の戯作者・竹田出雲の作ですが、登場人物の鮓屋の弥助、つまり平維盛は 歴史上の人物です。
「鮓屋の段」のあらすじ
維盛は平清盛の孫に当たり 平家の総大将でしたが 壇ノ浦の戦いで破れ源氏に追われ 義経の追討を逃れて、旧臣宅田弥左衛門の家にかくまわれます。宅田弥左衛門は、郷里の大和国(奈良県)吉野郡下市村で、付近を流れる吉野川の鮎を材料にして鮓屋をしていました。そこに維盛が現れかくまわれているうちに弥左衛門の娘(お里)との間に 恋心が芽生え 養子となり維盛改め鮓屋の弥助となります。
平維盛が鮓屋の弥助に改名した日が11月1日である為、この日を(すしの日)と意味づけています。 奈良県の下市村にある「釣瓶鮨屋」は代々、宅田弥助を850年にわたって48代連綿と襲名してるそうです。 又この吉野地方で作られる鮎の寿司は、「延喜式」にも出ている、古来からのものであり、釣瓶鮨や弥助鮨が挙げられています
釣瓶鮨の始まりは、弥左衛門が郷里大和市に帰り、近くを流れる吉野川の鮎をとり、塩お聞かせ、おにぎりの上に乗せ、釣瓶の形をした桶に何個か並べて重ね石の重石をかけて2~3日してご飯が自然発酵した、いわゆるなれ寿司を作ったが これが桶の形から釣瓶鮨と名づけられたのが始まりとなっています
弥助鮨は釣瓶鮨「鮎のなれすし」のかわりに早すししてご飯鮎を酢で処置した鮎の姿すしです
「土用の丑の日」にあやかって寿司を売りたい誰かが適当に決めた「寿司の日」だと思っていましたが、なんと平家や歌舞伎まで出て来てしまう大そうな由来があるんです
でも残念ながら土用の丑の日と比べると全然認知度が低く、よって毎年全然盛り上がらない日とあい成っております
皆さまはこれを機会に「全国寿司の日」を知って頂き、こんな時くらいはお寿司を食べる努力をして下さい
ヨロシクお願い致します


皆さんに知っておいてほしいのは由来だけではありません。
重要なのは、11月1日がすしの日だと知った上で何をするべきなのか、です
でももう皆さんお分かりかと思いますが、この日にやるべきなのは、存分にお寿司を食べることです
秋も深まり、食欲がわいてくる時期なので、改めてお寿司のありがたみや価値の高さを知っていただくことが大事なようです。
ちなみにこの寿司の日というのは、本来土用の丑の日くらいに有名であってもいいくらいの記念日です
しかし寿司は今や誰でも安く食べることができ、そのありがたみが薄れてしまったようなんです
気軽に食べることができるのはいいことですが、この日くらいはいつもよりもちょっと高めのものをいただいたり、寿司の歴史に思いをはせて食べてみたりするのもいいかもしれません。また、家族で家で手巻きずしを食べるのもいいかもしれませんよ
いずれにしろ11月の初めは、美味しいお寿司をみんなで食べましょう


秋は実りや収穫の時期で、お米も大量に出回る時期になります。そのため、秋の実りや田んぼの神様に感謝の意を伝えるという意味で、お米の料理に由来したすしを使って「すしの日」となったんだそうです

また、なぜ具体的に11月1日という日付になったのかというと、これには歌舞伎が関係してきます。有名な義経千本桜の中にすし屋が出てくる物語があるのですが、その人物は後にすし屋の先祖となる重要な人物で、かつ平安時代~鎌倉時代における平維盛という人物です。
彼は平家を大繁栄させた清盛の孫でかなり高貴な人物でしたが、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れてすし屋にかくまわれることとなります。するとそこにいた主人の娘に恋をし、のちに養子となってそのすし屋を継ぐこととなるのです。
その養子になった際に改名したのが11月1日と言われていたため、この日はすしの日だと言われているんです。こうやって歴史を辿ると、寿司の日は平安時代にまでさかのぼるんですね



1961年(昭和36年)11月に全国寿司商環衛連の第4回全国寿司商環衛連・熊本大会の際に毎年11月1日を、みのりの秋・収穫の秋・米への感謝の日として「全国すしの日」にすることが決議されたのが始まりです。これは、食欲味覚の秋に伝統のすしの真価を一般の方々へ浸透させ、老若男女の別なく十二分に愛食していただき、また、一年間のご愛食への謝恩に報いるためにとのことです。
その理由… 義経千本桜(歌舞伎18番狂言)の中に「鮓屋の段」と言うのがあります。ここに出てくる鮓屋の弥助がすし屋の先祖とされてます。この話は、江戸中期の戯作者・竹田出雲の作ですが、登場人物の鮓屋の弥助、つまり平維盛は 歴史上の人物です。
「鮓屋の段」のあらすじ
維盛は平清盛の孫に当たり 平家の総大将でしたが 壇ノ浦の戦いで破れ源氏に追われ 義経の追討を逃れて、旧臣宅田弥左衛門の家にかくまわれます。宅田弥左衛門は、郷里の大和国(奈良県)吉野郡下市村で、付近を流れる吉野川の鮎を材料にして鮓屋をしていました。そこに維盛が現れかくまわれているうちに弥左衛門の娘(お里)との間に 恋心が芽生え 養子となり維盛改め鮓屋の弥助となります。
平維盛が鮓屋の弥助に改名した日が11月1日である為、この日を(すしの日)と意味づけています。 奈良県の下市村にある「釣瓶鮨屋」は代々、宅田弥助を850年にわたって48代連綿と襲名してるそうです。 又この吉野地方で作られる鮎の寿司は、「延喜式」にも出ている、古来からのものであり、釣瓶鮨や弥助鮨が挙げられています

釣瓶鮨の始まりは、弥左衛門が郷里大和市に帰り、近くを流れる吉野川の鮎をとり、塩お聞かせ、おにぎりの上に乗せ、釣瓶の形をした桶に何個か並べて重ね石の重石をかけて2~3日してご飯が自然発酵した、いわゆるなれ寿司を作ったが これが桶の形から釣瓶鮨と名づけられたのが始まりとなっています


「土用の丑の日」にあやかって寿司を売りたい誰かが適当に決めた「寿司の日」だと思っていましたが、なんと平家や歌舞伎まで出て来てしまう大そうな由来があるんです



ヨロシクお願い致します



皆さんに知っておいてほしいのは由来だけではありません。
重要なのは、11月1日がすしの日だと知った上で何をするべきなのか、です

でももう皆さんお分かりかと思いますが、この日にやるべきなのは、存分にお寿司を食べることです

秋も深まり、食欲がわいてくる時期なので、改めてお寿司のありがたみや価値の高さを知っていただくことが大事なようです。
ちなみにこの寿司の日というのは、本来土用の丑の日くらいに有名であってもいいくらいの記念日です



いずれにしろ11月の初めは、美味しいお寿司をみんなで食べましょう


Posted by きくいち at 10:16│Comments(0)
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