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2011年09月25日

東海の名城(掛川城)

先日竜洋に用事があり、そのついでに少し時間があったので掛川まで足を伸ばしお城に寄ってきました。掛川には時々行くのですが、近場のお城は何時で行ける気がして中々立ち寄る事ががなく
なんと10年ぶりでした。

ご存知の通り日本初の本格木造によって、東海の名城と讃えられた掛川城天守閣が復元されたのは平成6年で、外観三層・内部四階で威風堂々としたその雄姿は約140年ぶりに市民の熱い思いで甦りました。静岡県下、これだけの城郭建造物が整備されているのは他にはなく徳川家康居城の浜松城・駿府城も掛川城には及びません。

東海の名城(掛川城)
 
また「掛川城二の丸御殿」御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。

東海の名城(掛川城)

掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の書院造り様式による建物で、現存する城郭御殿としては、他は京都二条城・川越城・高知城だけに残る貴重な建築物です。昭和55年に国の重要文化財に指定されています。 

掛川城は、山内一豊築城当時の天守を正保城絵図に基づいて、木造で復元されていて、天守に続いて大手門(一の大手門)も復元されています。 二の大手門は、袋井市の油山寺山門として移築され現存しているようです。
  
東海の名城(掛川城) 
大手門 …天守閣から東南250mの場所に復元された櫓門形式の鯱瓦をあげた豪壮な門 。
 
東海の名城(掛川城)
大手門 番所… 門奥に見えるのが大手門番所です。区画整理により本来の位置から北約50mに復元され大手門に合わせて配置されたようです。天然の要害・逆川に架かる緑橋越しに天守・太鼓櫓が見えます。

東海の名城(掛川城)
三光伏見稲荷…山内一豊が秀吉の伏見桃山城築城に加わった御縁で、大手郭と大手厩の鎮守として勧請されたもの。
 
東海の名城(掛川城)
三日月堀

東海の名城(掛川城)
四足門
 
東海の名城(掛川城) 
天守下石段から見た 太鼓櫓
太鼓櫓は本来他の場所にあったもので、この場所には荒和布(あらふ)櫓と呼ばれた見張りの櫓があったようです。
  
東海の名城(掛川城)
三の丸跡…イベント等に使われる広場となっています。

東海の名城(掛川城)
天守閣&冠木門(天守曲輪)

東海の名城(掛川城)
霧吹き井戸…本丸より一段高く、天守閣を配置する独立した曲輪(天守丸)にあり城郭の井戸としては日本第3位の45mです。

東海の名城(掛川城) 
天守閣の天守台の高さは海抜56mです。 

東海の名城(掛川城)
天守閣より見た二の丸御殿

東海の名城(掛川城)
天守閣内に陳列してある鯱鉾瓦 

東海の名城(掛川城) 
急な階段(城ならではの斜度58の急な階段、全国で一番急な階段は彦根城の62度) 

東海の名城(掛川城)
二の丸御殿からの天守閣
御殿の縁側に立ち、本の丸に建つ天守を眺めると、城主になったような気分になれます。 
  
東海の名城(掛川城)
二の丸御殿の内部

東海の名城(掛川城) 
竹の丸跡…江戸時代の侍屋敷跡で、城を守る竹の大藪があったようです。建物は明治年間に建てられた個人邸宅で、現在は柔道・弓道の練習場などになっていました。

室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまりです。 戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設すると共に、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。

「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元された掛川城は、10年前と変わらず城周辺が城下町風街並みとして綺麗に整備され、人力車が走り、風情一杯のゆったりした時間が流れていました。

掛川城の歴史…

別名、雲霧城(くもきりじょう)と呼ばれる掛川城は戦国時代の文明年間(1469~86)、駿河守護大名今川義忠(よしただ)が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰熈(やすひろ)に築かせたといわれています。

桶狭間の戦(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1568)義元の子氏真(うじざね)は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠もりました。翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成(いえなり)が入城し、甲斐からの武田氏侵攻の防御の拠点となりました。

天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は多くの戦乱により傷んだ城の改築や城下の整備を行なうとともに、この時初めて天守閣をつくりました。
関ヶ原の役後、山内氏は土佐高知に移り、あとには徳川譜代の松平・安藤・青山・本多・北条・井伊・小笠原氏と目まぐるしく城主は替わりました。

江戸時代には、掛川城は徳川親藩の松平氏や、江戸城を築いた太田道灌の子孫太田氏など11家26代の居城として栄えました。貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳われました。しかし、嘉永7年(1854)大地震により天守閣など大半が損壊。御殿、太鼓櫓、蕗(ふき)の門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869)廃城となりました。
その後、御殿は様々に使用されながら残りましたが、天守台や本丸の跡など一帯は公園とされてきました。掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は平成6年140年ぶりに木造により再建され、ふたたび美しい姿を現わしました。

(文は現地パンフより転載)
 


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