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2014年11月24日

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城

能登七尾城は、室町幕府管領家畠山氏の分家である、能登畠山氏の居城です。12代まで続いた畠山氏の治世の元で城下町は発展し、その繁栄ぶりは越前朝倉氏の居城一乗谷に匹敵するものだったと言われています。そのような七尾城も、天正5年(1577年)9月に米沢藩祖上杉謙信公の攻撃を受け落城し、ここに畠山氏の能登支配は終わり、能登と七尾城は上杉家の支配となりました。しかし戦上手と言われる謙信公の采配をもってしても、軍事的に七尾城を攻略する事は出来ず、結局は畠山氏の重臣の遊佐氏等を内応させた事による、調略による落城でした。謙信公でさえ攻めあぐねたと言われる七尾城が、どれ程の堅城なのか…?と言うのを実際に訪れたいと昔から思っていたのが、やっと実現しました。

金沢市内より「のと里山道」、「能登自動車道」、七尾田鶴浜バイパスを通り抜け、七尾城史資料館に…。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
史料館内の七尾城絵図

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
山麓の古屋敷町に建つ七尾城史資料館   懐古館 飯田屋<登録有形文化財>
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
180年前の庄屋の住宅。七尾城史資料館に隣接し、500坪の庭園が杉木立の深い緑に囲まれ、静寂に包まれています。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
建物は太い梁が家格の高さを表すかやぶき屋根の旧家で、現在は、市民の茶会や句会の場として利用されているそうです。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城

城資料館の脇に当時の大手道が残っています。こちから登る方が七尾城の堅城ぶりを実感出来るかと思いましたが時間もなく、資料館見学後、そのまま林道に入り、さらに山道を登ると本丸下の駐車場まで車で行けます。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
駐車場から本の丸迄20分程度ですが、重臣屋敷跡(曲輪)から本の丸に至る登城道を進むと生い茂る木々の間に野面積みの石垣が累々と姿を表します。あの上杉謙信をしても、この城を力攻めに出来なかったことがよく分かりました。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七尾城は、尾根を削平して曲輪を連ねる典型的な山城の縄張りで、長屋敷・本の丸・二の丸・三の丸と尾根筋に並んでいて、曲輪の間には大堀切がある。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
調度丸跡… 弓矢などの武具(調度)をととのえた場所。多数の出土品が、ここで発見されている。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
桜馬場跡石垣 …北側の石垣は五段に組まれ、七尾城跡でも最大規模を誇る。 この曲輪は、東西の長さが45m、南北の長さが25mあり軍馬の調教を行なった馬場などと言われる。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
遊佐屋敷跡…この曲輪は、本丸のすぐ西側に接し、七尾城の中心部にあることから城主に次ぐ守護代の地位にあった遊佐氏の屋敷跡と伝えられている。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七尾城の石垣は、戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用い、背の低い石垣を何段にも築く技法が使われている。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
本丸の石垣~階段を上がったところが本丸跡。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
三段に築かれている本丸石垣。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
本丸北側の三段に組まれた石垣。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
本丸内側よりみた階段の登りきったところ。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
本丸跡…山の頂を削平した所が本丸跡。七尾城跡の中心となる曲輪。東西の長さが50m、南北の長さが40mあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成する。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
本丸に建つ城址碑…七尾城趾の石碑が建つ本の丸からの眺めはすばらしい。
遙か眼下に七尾市街にある小丸山城や能登島まで手に取るように見ることができる。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七尾城本丸跡から望む七尾の街並み。 

本丸の石垣は雄大で、北陸の戦国期の城としてはもっとも壮大であるのは間違いありません。本丸からは日本海も見え、大変気持ちのいいお城です。本丸~二の丸~三の丸が尾根上に連なり、その下には調度丸・屋敷群あるいは大手道沿いの郭と石垣が点在します。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
二の丸跡
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
二の丸
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
温井屋敷跡…城主畠山氏を補佐する八臣(四臣四家)の一人温井氏の屋敷跡。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
九尺石…看板には「城の鎮護のかなめ石。石の大きさにちなんでこの名がある。」と書かれている。 中央にある苔むした石が九尺石だが相当大きい
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
三の丸跡
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
三の丸
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
安寧寺跡…畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で戦死した武士たちの慰霊碑などがある。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
三の丸方面から本丸に向かうところの石垣。

七尾城はJR七尾駅から南へ5km。石動山系の北端に位置する標高300mの松尾山(通称「城山」)の尾根に築かれた山城で、日本五大山城の一つ。

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城

縄張…七尾城図(現地案内板より)
山上には本丸・桜の馬場・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配した。また、菊、松、竹、梅、亀、龍、虎と七つの郭名があったので、七尾城と称したという。城は尾根を切り開いて、いくつもの曲輪を並べた典型的な連郭式山城。
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
(城山展望台にて)

◆築城年・築城者・城主  
築城の時期については定かでなく諸説ありますが、室町時代足利幕府の管領畠山氏が能登ノ国守護に任じられ、応永13年(1406)畠山満則が能登に入国したとき七尾の地に居館を構えたといわれ、また一説に応永16年畠山満慶のころ、ともいわれる。畠山氏は戦乱に備えて、松尾山に詰めの城を構えた。これが七尾城である。その後、畠山氏数代にわたって改築を行い、天正5年(1577)、上杉謙信に滅ぼされるまで、9代170年間畠山氏の居城となった。
 
謙信の死後、能登ノ国は織田信長の支配下となり、その武将前田利家が七尾城に入ったが、山があまりにも高いため、天正10年(1582)、七尾湾に近い小丘に小丸山城を新しく築いて移った。七尾城は、前田利家が小丸山城を築いたとき、すでに廃城となっていた。建物は壊されたが、城の郭跡はそのままの状態で残された。現在もその郭跡をよく残している。

◆概略  
この城は、室町時代能登国の守護であった畠山氏が、歴代城主とした所である。石動山脈の北端、七尾湾が一望できる標高約300メートルの山頂部を削平して本丸を置き、これを中心として急峻複雑な地形を巧みに利用し、東方に長屋敷、西方及び北方にかけて西の丸、二の丸、三の丸等を構えた規模雄大な山城である。
 
その後、幸いにも自然災害や開発等の厄にもあわず、各尾根上の郭跡や石垣は良く保存され、わが国中世における山岳城郭史上優れた遺跡として昭和9年12月28日国の史跡に指定された。
<城跡説明板より転載・加筆>

◆関連施設…能登国定公園城山展望台  
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城
展望台から望む七尾湾

能登最大の規模と堅固さを誇った守護大名畠山氏の居城 …訪れてみてその堅城さを身に染みて感じましたびっくり


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Posted by きくいち at 16:06│Comments(0)趣味

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