2017年12月28日
正月にウンチクを…平安時代の饗応に用いられた高級保存食の蒲鉾
蒲鉾のネーミングの由来は、蒲(がま)の穂子(ほこ)に似ているから、と言われています。「がまのほこ」が「かまぼこ」に縮まったと…
これは「蒲焼き」の由来と同じですが、蒲鉾にしても蒲焼きにしても「一体どこが似ているの
」と疑問を持たれたことでしょう
実はどちらも、誕生当初は現在と形が違っていたのです。
蒲焼きは鰻をぶつ切りにし、中心に串を通して焼き、味噌や酢塩を塗って食べた非常に生臭い食べ物でしたし、蒲鉾も、魚のすり身を竹串に塗りつけて焼いた、ほぼ現在の竹輪に似た食べ物でした。

ではなぜ蒲鉾に「穂子」ではなくて「鉾」の字が使われたかというと、これは蒲鉾誕生の逸話に関係して参ります。
実は蒲鉾の起こりはその昔、第15代応神天皇の母親で、天皇を妊娠中に朝鮮半島に出兵し、新羅・高句麗・百済を征服したとされる女傑・神功皇后が、魚のすり身を鉾の先に塗りつけ、焼いて食べたことが始まり、という説があるからです
この神功皇后、勇ましい逸話により江戸時代の浮世絵などに度々描かれ、女性で初めて日本の紙幣に肖像画が描かれた人物としても知られています。ただしこれはあくまでも逸話で、神功皇后が実在したかどうかも、はっきりと解明されてはいません
実際に蒲鉾が食べられていたという記録は、平安時代後期に書かれた「類聚雑要抄(るいじゅざつようしゅう)」という故実書
に見ることができます。永久三年(115年)に行われた、関白右大臣新任の祝賀料理膳の図中に「蒲鉾」という文字が書かれているのです

蒲鉾業界ではこの年号にちなんで、11月15日を「かまぼこの日」としています。この当時はまだ竹輪型の蒲鉾で、現在のような板付きの蒲鉾が生まれたのは、桃山時代のこと。ただし、この時はまだ焼き蒲鉾でした。
「江戸料理集」という、延宝二年(1674年)に刊行された江戸時代初期の料理書刊に「萬(よろず)かまぼこの事」として、非常に詳細な蒲鉾の作り方が書かれています
この頃の蒲鉾作りは、魚のすり身にイカのすり身を混ぜて弾力を出したようで現在も魚のすり身で手作りで蒲鉾を作ろうと思えば、よほど新鮮な魚を使わないと弾力が出づらいです。
フードプロセッサーのない時代、魚やイカをすり身にして光沢が出るまで練ることが、どれだけ大変だったことか…
獲れすぎた魚を保存するためとはいえ、手間暇がかかる分、蒲鉾は高級食材でした。また当時は、現在の蒲鉾のサイズを「大板蒲鉾」と呼び、片木につけた1人分サイズの蒲鉾を「小板蒲鉾」として酒の肴に食べられていたようです。
蒲鉾の原材料として最高とされたのは、鱧・甘鯛・鰈・鯛の4つで、天明五年(1785年)刊行の「万宝料理秘密箱(まんぽうりょうりひみつばこ)」というレシピ本に、「この類に過ぎたるはなし」と書かれています
現在一般に販売されている蒲鉾のほとんどは、海外で獲れた魚をすり身にして、冷凍で日本に運ばれて来たものを加工しています。
万宝料理秘密箱に書かれた高級魚による蒲鉾とどう違うか、食べ比べてみたいものです
作られていた蒲鉾の種類も豊富で、紫蘇や胡麻、昆布など、現在のさつま揚げのような感じで、様々な具材入りの蒲鉾が作られていました。

今のような板付きの白い蒸し蒲鉾が作られるようになったのは、江戸時代の後期のことです。江戸ではこのシンプルな白い蒲鉾が好まれましたが、関西では元の名残か、蒸した後に表面を焼いて焦げ目をつけた焼き蒲鉾が好まれました。この好みの違いは現在も変わっていないように思うのですが、いかがでしょう
魚肉が原材料の蒲鉾は、高タンパク・低脂肪・低カロリーで、DHAやEPAを多く含みます
効果としては、活性酸素を除去し、血圧や血糖値の上昇を抑え、美肌、美髪、アンチエイジングが期待できます。また、9種類ある必須アミノ酸の全てをバランスよく含んでいるという点でも、心強い食材だと言えるでしょう
最後に、板蒲鉾を一回で使い切らない場合は、必要な分だけ庖丁を入れ、残りは板付きのままラップでくるんで冷蔵保存してください。板の素材のシラベやモミの木に防腐効果がある上、板が適度に湿気を吸い取るので、蒲鉾の保存力を高めます。また、蒲鉾を板から剥がす場合は、庖丁の背の方を使うと無駄なく身が剥がれます
蒲鉾についての雑学でした
お正月こんな話題をお酒のつまみにしてみてはいかがですか

これは「蒲焼き」の由来と同じですが、蒲鉾にしても蒲焼きにしても「一体どこが似ているの


蒲焼きは鰻をぶつ切りにし、中心に串を通して焼き、味噌や酢塩を塗って食べた非常に生臭い食べ物でしたし、蒲鉾も、魚のすり身を竹串に塗りつけて焼いた、ほぼ現在の竹輪に似た食べ物でした。

ではなぜ蒲鉾に「穂子」ではなくて「鉾」の字が使われたかというと、これは蒲鉾誕生の逸話に関係して参ります。
実は蒲鉾の起こりはその昔、第15代応神天皇の母親で、天皇を妊娠中に朝鮮半島に出兵し、新羅・高句麗・百済を征服したとされる女傑・神功皇后が、魚のすり身を鉾の先に塗りつけ、焼いて食べたことが始まり、という説があるからです

この神功皇后、勇ましい逸話により江戸時代の浮世絵などに度々描かれ、女性で初めて日本の紙幣に肖像画が描かれた人物としても知られています。ただしこれはあくまでも逸話で、神功皇后が実在したかどうかも、はっきりと解明されてはいません

実際に蒲鉾が食べられていたという記録は、平安時代後期に書かれた「類聚雑要抄(るいじゅざつようしゅう)」という故実書



蒲鉾業界ではこの年号にちなんで、11月15日を「かまぼこの日」としています。この当時はまだ竹輪型の蒲鉾で、現在のような板付きの蒲鉾が生まれたのは、桃山時代のこと。ただし、この時はまだ焼き蒲鉾でした。
「江戸料理集」という、延宝二年(1674年)に刊行された江戸時代初期の料理書刊に「萬(よろず)かまぼこの事」として、非常に詳細な蒲鉾の作り方が書かれています

この頃の蒲鉾作りは、魚のすり身にイカのすり身を混ぜて弾力を出したようで現在も魚のすり身で手作りで蒲鉾を作ろうと思えば、よほど新鮮な魚を使わないと弾力が出づらいです。
フードプロセッサーのない時代、魚やイカをすり身にして光沢が出るまで練ることが、どれだけ大変だったことか…

蒲鉾の原材料として最高とされたのは、鱧・甘鯛・鰈・鯛の4つで、天明五年(1785年)刊行の「万宝料理秘密箱(まんぽうりょうりひみつばこ)」というレシピ本に、「この類に過ぎたるはなし」と書かれています

現在一般に販売されている蒲鉾のほとんどは、海外で獲れた魚をすり身にして、冷凍で日本に運ばれて来たものを加工しています。
万宝料理秘密箱に書かれた高級魚による蒲鉾とどう違うか、食べ比べてみたいものです


今のような板付きの白い蒸し蒲鉾が作られるようになったのは、江戸時代の後期のことです。江戸ではこのシンプルな白い蒲鉾が好まれましたが、関西では元の名残か、蒸した後に表面を焼いて焦げ目をつけた焼き蒲鉾が好まれました。この好みの違いは現在も変わっていないように思うのですが、いかがでしょう


効果としては、活性酸素を除去し、血圧や血糖値の上昇を抑え、美肌、美髪、アンチエイジングが期待できます。また、9種類ある必須アミノ酸の全てをバランスよく含んでいるという点でも、心強い食材だと言えるでしょう

最後に、板蒲鉾を一回で使い切らない場合は、必要な分だけ庖丁を入れ、残りは板付きのままラップでくるんで冷蔵保存してください。板の素材のシラベやモミの木に防腐効果がある上、板が適度に湿気を吸い取るので、蒲鉾の保存力を高めます。また、蒲鉾を板から剥がす場合は、庖丁の背の方を使うと無駄なく身が剥がれます

蒲鉾についての雑学でした


Posted by きくいち at 16:14│Comments(0)
│お酒のつまみ
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