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2018年07月11日

初盆法要

昨日は親父の初盆法要でしたしょんぼり

初盆法要

「お盆」と言えば、日本の伝統的な仏事と言われます(俗にお盆といいますが、正しくはウラボンといいます)
「仏説盂蘭盆経」から起こったものらしく、このお経にどんなことが説かれているのか、お盆の由来について聞いたことを、今日は簡単にご紹介します。

お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)という人がありました。目連尊者は神通力第一と言われ、特に孝心の深い人でした。その目連が神通自在力を得て三世を観ました時に、痛ましいことに亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることが分かりました。彼は深く悲しんで、直ちに鉢に飯を盛って母に捧げましたが、喜んで母がそれを食べようとすると、たちまちその飯は火炎と燃え上がり、どうしても食べることができません。鉢を投げ捨てて泣き崩れる母を目連は悲しみ「どうしたら、母を救うことができましょうか」とお釈迦様にお尋ねしました。

その時、お釈迦様は、「それは、そなた一人の力ではどうにもならぬ。この7月15日に、飯、百味、五果などの珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい。布施の功徳は大きいから母は餓鬼道の苦難から免れるであろう」と教導されました。 目連尊者が、お釈迦様の仰せに順ったところ、母はたちどころに餓鬼道から天上界に浮かぶことができ、喜びのあまり踊ったのが盆踊りの始まりだと言う人もあります。

盂蘭盆(うらぼん)は、この目連尊者の故事から先祖供養の日となって今日のお盆に続いているのですが、一体これは、私たちに何を教えているのでしょうかはてな

初盆法要

ウラボンという梵語(サンスクリット語)は、倒懸(とうけん)ということだそうです。倒懸とは「倒さに懸かれる者」ということらしく「盂蘭盆経」とは「倒さに懸かれる者を救う方法を教えた経」ということなのだそうです。

果たして、倒さまに懸かって苦しんでいるのは目連尊者の母だけでしょうかはてな死後にだけ餓鬼道があるのではありません。腹だけが馬鹿に大きく、皮骨連立の奇形動物だけを餓鬼だと思っていたら大間違いです。迷いを迷いとも知らず、真実を真実と信じられず、迷いを真実と誤解して苦しみ悩んでいる私たちは、仏の眼 からごらんになると皆倒さに懸かって苦しんでいる餓鬼なのです。

親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」 (歎異抄) “火宅のような不安なこの世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである” と仰っています。キリのある身命を持ちながら、キリのない欲を満たしてから仏法を聞こうと思っている人のいかに多いことでしょう。皆倒さに懸かっているものばかりです。

だから、金もあり、財産もあり、名誉、地位もあり、妻子ある者は、それらによって苦しみ、それらの無いものは、それらを求めて悩んでいるのです。有るも苦なら無いも苦です。無ければ欲しい、あっても欲しい、欲しい欲しいと飢え続け、渇き続け、ウラミ続け、満足ということを知らず、苦しんでいる餓鬼ばかりが充満しています。

すべての考えが顛倒していますから、四方八方ただ愁嘆の声のみが満ち満ちているのです。まさしくこれが餓鬼道の姿です。物を求め、物を惜しみ、闘争諍乱の世界、この深刻な現実の自己を凝視する時、餓鬼こそ自己の実相であることに驚きますびっくり亡き先祖のことばかりを案じて、わが身が餓鬼であることを忘れているのでは…!?

初盆法要

お盆は亡き先祖を救う日ではなく、今、現に倒さに懸かって飢え、渇き、苦しみ続けて、未来永劫、流転しようとしている私自身を救う、聞法精進の日であることを忘れてはならないのでしょうひみつ


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