2019年05月02日
皇居東御苑から皇居一周…皇居(江戸城)の門 あれこれ
東京の中心にある江戸城は、現在皇居として威風堂々とその素晴らしい造形美を今に伝えています
先日皇居東御苑から皇居一周をしたときに
撮影した写真の中からから、今日は皇居の門と橋を紹介します


皇居の門は、一般人でも自由に通れる門、特別な日のみ通れる門、一般人は通れない門に分かれます。私が知る限りでは、下記で紹介した門の中で、半蔵門だけが一般人の通行が出来ない門となっています
皇居正門でも年2回、新年一般参賀と天皇誕生日一般参賀の時通行できます
「大手門」

旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどで完成 したそうです。

元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式(ますがた)の城門になったといわれています。

大手門の警備は、鉄砲30、弓10、長柄20、持筒2、譜代10万石以上の大名が これを勤めたそうです。
三百諸侯が威儀を正して登城した門になり、大手下乗門(大手三の門)、 大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至りました。
城によっては追手門(おうてもん)といい、防御のために厳重に築造され、大規模な櫓門を開いたり石垣等により枡形をしている事が多く、見た目も大きく、目立つように作られます。


1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていたシャチです。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。今の大手門渡櫓は、1968年(昭和43年)に再建されたものです。現在の皇居大手門渡櫓の鯱です。目の周りなど少しデザインが違うのがお分かりでしょう。

江戸城に入る時、幾つかの門をくぐりますが、江戸城には、時計廻りに北 から「乾門」「北桔橋門」「平川門」「大手門」「桔梗門」 「坂下門」「皇居正門」「桜田門」「半蔵門」「田安門」「清水門 」と様々な門があり、各々に由来などがあります。その由来もあわせてご紹介致します
「平川門」

平川門は江戸城の裏門、大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようです。

太田道灌のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあり、門の名前の由来になったそうです。

太田道灌公が長禄元年(1457年)に「江戸城」を築城してから、550年に当たる2007年に太田道灌公没後450年を記念して「追幕の碑」は建てられました。

高麗門(第一門)、渡櫓門(第二門)、木橋(城門形式一式)が、昔のまま残っているのはこの門 だけだそうです。
この門は別名、不浄門とも言われ、罪人や遺体はここから出されたそうです。当然殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は重罪人とされ、城内の座敷牢に留め置かれた後、一関藩主田村邸へお預けとなるために城外へ出されるときに、この平川門から出されました。

【太田道灌公について】
太田道灌(1432~1482)は室町中期の武将で歌人、名は資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、現在の千代田区の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔を今に伝えている。
「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき
「北桔橋門(きたはねばしもん)」

本丸へ北から入る門になります。天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてありました。 また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられていましたが、 有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。

現在は、皇居東御苑へは大手門、平川門と同様に、ここからも出入りができます。

皇居北桔橋門正面と北桔橋から見た、平川濠で、この先が「平川門」になります。
代官町通りを隔てて北の丸公園に面しているこの辺は、太田道灌時代には、城の正面になっていたようです。
江戸時代には高麗門(第一門)内を左折して渡櫓門(第二門)がある、桝形形式(ますがた)の城門を構成していました。

天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門であり、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてありました。
また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられていましたが、 有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。
「乾門」

この門は明治になってから建てられた京風の門になります。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついたそうです。

この門から入ると、乾濠、西桔橋、蓮池濠、道灌濠などの横を通り宮内庁に 至るそうですが、残念な事に一般の人はこの門からは入れないそうです。皇居の北西にある門で、坂下門の反対側にあたります。
「半蔵門」

城の西端に位置し、甲州街道(現国道20号)への入り口に当たります。大手門とは正反対の位置にあります。
この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされてました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがあります。
天皇や各皇族の、皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられています。

当然一般人の通行はできません(桜田門から桜田濠つたいに来ると、半蔵門になります)

半蔵門の名前の由来は、警備を担当した徳川家の家来・服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来します。伊賀忍者服部半蔵は、皆さんに親しまれていて有名ですね。昔、徳川将軍に外国から贈られた像を入れようとしたら、半分までしか入らなかったので、「半ゾウ門」と言う説はウソですね
立地条件や服部家の部下(伊賀同心)が門外に屋敷を与えられたことから、将軍が非常時に甲州街道から甲府へと脱出する緊急事態用の門だったともいわれています。
「桜田門」

桜田門は寛永13年(1636年)に徳川家康が入府際に修築されました。

桜田門は2つの門からなり、第一の門(高麗門)、を通ると枡形の空地があり、右折すると第ニの門(渡櫓門)になります。 江戸見附様式で枡形形式の城門を構成しています。桔梗門の内桜田門に対し、この桜田門は外桜田門と言ってます。

この桜田門の桝形は15間×21間あり、現存している城門の中では最も広い 規模になります。大正12年の関東大震災で破損し、その際に鉄網土蔵造りに改修されました。昭和36年、国の重要文化財に指定されました。

現在「警視庁」は「桜田門」の目前にあるので警視庁のことを「桜田門」と言う風に使われることがあります。

また、安政7年(1860)3月3日、勅許なく安政の仮条約に調印し、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼(いいなおすけ)が、水戸・薩摩(さつま)の浪士らに桜田門外で暗殺された事件がありました。「桜田門外の変」
「皇居正門」

皇居の真南にある門で二つのアーチが美しい「正門石橋」を通って正門に行き、その先が「正門鉄橋」になり、そこを通過すると、長和殿のある宮殿東庭になります。天皇誕生日や新年1月2日には長和殿で天皇皇后両陛下と皇族方の参賀があるところです。

皇居正門の元の名前は西の丸大手門でしたが、明治21年(1888年)の 明治宮殿造営のとき、この門のすぐ前にあった高麗門を撤去し、名称も 皇居正門と改めました。 建造は3代将軍徳川家光公の時代と推定されています。

「皇居正門石橋」は江戸時代のときは土で出来た「土橋」でしたが、明治20年12月に現在のようなめがね型をした美しいアーチを描いた石橋になっています。多くの方は、これを二重橋と呼ばれる方がいますが、この石橋は二重橋ではありません(石橋の奥に少し見えているのが鉄橋です)

「皇居正門石橋」の奥の伏見櫓の手前に見える橋が「皇居正門鉄橋」と言い、当初作られたときは、木の橋を二重に重ねて橋を作ったため、「二重橋」と言われています。ご覧のように、ここの堀が大変深いため、橋の上にもう一つの橋桁を乗せることにより、お堀の深さをカバーしていました。
「坂下門 」
現在は宮内庁の通用門で、この門内に宮内庁があります。

ここは西の丸の造営後、新たに造られたと伝えられています。 文久2年(1862)1月老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士の襲撃を受けました。いわゆる「坂下門外の変」になります。
安藤対馬守は磐城平藩5万石の領主,寺社奉行,若年寄を経て万治元年老中となりました。井伊大老没後,老中首座久世広周と組み、一ツ橋派諸侯の謹慎をとき、朝廷と幕府の間の調整融和のため公武合体政策を行い、 将軍家茂に皇妹和宮の降嫁を強行し実現させました。
このため尊皇攘夷派の憤激を買い、水戸浪士平山平介ら6人に襲撃を受け負傷し失脚しました。
「桔梗門」

桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれて
いますが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから桔梗門と
呼ばれるようになったとも伝えられています。

大田道灌時代(長禄元年(14577年)に江戸城を築城)の泊船亭はこの辺りだったそうです。
道灌は絶景の江戸城内に、広く広がる原野を望む静勝軒(南)、絶壁から海原を望む泊船軒(東)、はるかに雪を冠した秩父山系を望む含雪軒(西)という軒を設けておりました。
道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門と名前になったという説、帰郷、吉祥、吉慶から付いたなどと諸説があり由来ははっきりしていません。
「田安門」
田安門は江戸城の北部に位置し、建立以前のこの付近は田安台と言われた田園地帯でした。
桝形形式の門になり、その創立年代は明らかではないですが、慶長12年(1607年)には既に存在していたと言われています。

現在の門は寛永13年(1636年)に再建され、実際に門釣金具に 『寛永13年丙子暦9月吉日....』と彫られています。
現存する門の中では最も古いものです。
また、田安門前の常灯明台は、靖国神社の献灯兼東京湾に入港する船の目標だったそうです。
御三家(紀州・尾張・水戸)に次ぐ家柄格式を持っていた徳川家御三卿(清水・一橋・田安)の家名は、彼らの屋敷が江戸城の田安門・一橋門・清水門内に あった事から命名されたそうです。
「清水門」
寛永元年(1624)助役大名浅野長晟建立の典型的な枡形形式の門になります。

破風(屋根の切妻にある合掌形の装飾板)の中は銅板が張られ、青海波(せいかいは・雅楽、青海波の舞曲に用いる服の波形の染め模様)が刻まれています。
これは、かつての江戸城天守閣と同じ作りになります。鯱には葵の門があります。
門名については,昔この辺りに清水が湧き出たからだという言い伝えがあります。
清水門、田安門とも江戸城の遺構として責重なため昭和36年6月に国の重要文化財に指定されています。
皇居1周約2時間


千鳥ヶ淵緑道の桜も載せておきますね
ポストカードみたいに美しい 東京のお花見スポットでした



最後に通行できる門の案内をしておきます


自由に通れる門…桜田門
皇居東御苑の公開日は、自由に通れる門…大手門・平川門・北桔橋門
特別な日のみ通れる門
◯新年一般参賀・天皇誕生日一般参賀… 皇居正門・坂下門・桔梗門
◯乾通り一般公開… 坂下門・乾門
一般人は通れない門…半蔵門
やっと載せることが出来ました

長編ですいませんでした
でも時期的にはヒットかな






皇居の門は、一般人でも自由に通れる門、特別な日のみ通れる門、一般人は通れない門に分かれます。私が知る限りでは、下記で紹介した門の中で、半蔵門だけが一般人の通行が出来ない門となっています


「大手門」

旧江戸城の正門で、慶長12年(1607年)藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどで完成 したそうです。

元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、伊達政宗、相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式(ますがた)の城門になったといわれています。

大手門の警備は、鉄砲30、弓10、長柄20、持筒2、譜代10万石以上の大名が これを勤めたそうです。
三百諸侯が威儀を正して登城した門になり、大手下乗門(大手三の門)、 大手中の門、書院門(中雀門)を経て本丸玄関前に至りました。
城によっては追手門(おうてもん)といい、防御のために厳重に築造され、大規模な櫓門を開いたり石垣等により枡形をしている事が多く、見た目も大きく、目立つように作られます。


1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていたシャチです。頭部に「明暦三丁酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます。今の大手門渡櫓は、1968年(昭和43年)に再建されたものです。現在の皇居大手門渡櫓の鯱です。目の周りなど少しデザインが違うのがお分かりでしょう。

江戸城に入る時、幾つかの門をくぐりますが、江戸城には、時計廻りに北 から「乾門」「北桔橋門」「平川門」「大手門」「桔梗門」 「坂下門」「皇居正門」「桜田門」「半蔵門」「田安門」「清水門 」と様々な門があり、各々に由来などがあります。その由来もあわせてご紹介致します

「平川門」

平川門は江戸城の裏門、大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったようです。

太田道灌のころからここに門が作られていて、当時、門の前には上平川村や下平川村などがあり、門の名前の由来になったそうです。

太田道灌公が長禄元年(1457年)に「江戸城」を築城してから、550年に当たる2007年に太田道灌公没後450年を記念して「追幕の碑」は建てられました。

高麗門(第一門)、渡櫓門(第二門)、木橋(城門形式一式)が、昔のまま残っているのはこの門 だけだそうです。
この門は別名、不浄門とも言われ、罪人や遺体はここから出されたそうです。当然殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭は重罪人とされ、城内の座敷牢に留め置かれた後、一関藩主田村邸へお預けとなるために城外へ出されるときに、この平川門から出されました。

【太田道灌公について】
太田道灌(1432~1482)は室町中期の武将で歌人、名は資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、現在の千代田区の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔を今に伝えている。
「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき
「北桔橋門(きたはねばしもん)」

本丸へ北から入る門になります。天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてありました。 また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられていましたが、 有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。

現在は、皇居東御苑へは大手門、平川門と同様に、ここからも出入りができます。

皇居北桔橋門正面と北桔橋から見た、平川濠で、この先が「平川門」になります。
代官町通りを隔てて北の丸公園に面しているこの辺は、太田道灌時代には、城の正面になっていたようです。
江戸時代には高麗門(第一門)内を左折して渡櫓門(第二門)がある、桝形形式(ますがた)の城門を構成していました。

天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門であり、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてありました。
また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられていましたが、 有事の際には外部に逃げたり、交通を遮断出来る様になっていました。
「乾門」

この門は明治になってから建てられた京風の門になります。
宮殿がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついたそうです。

この門から入ると、乾濠、西桔橋、蓮池濠、道灌濠などの横を通り宮内庁に 至るそうですが、残念な事に一般の人はこの門からは入れないそうです。皇居の北西にある門で、坂下門の反対側にあたります。
「半蔵門」

城の西端に位置し、甲州街道(現国道20号)への入り口に当たります。大手門とは正反対の位置にあります。
この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされてました。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがあります。
天皇や各皇族の、皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられています。

当然一般人の通行はできません(桜田門から桜田濠つたいに来ると、半蔵門になります)

半蔵門の名前の由来は、警備を担当した徳川家の家来・服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来します。伊賀忍者服部半蔵は、皆さんに親しまれていて有名ですね。昔、徳川将軍に外国から贈られた像を入れようとしたら、半分までしか入らなかったので、「半ゾウ門」と言う説はウソですね

「桜田門」

桜田門は寛永13年(1636年)に徳川家康が入府際に修築されました。

桜田門は2つの門からなり、第一の門(高麗門)、を通ると枡形の空地があり、右折すると第ニの門(渡櫓門)になります。 江戸見附様式で枡形形式の城門を構成しています。桔梗門の内桜田門に対し、この桜田門は外桜田門と言ってます。

この桜田門の桝形は15間×21間あり、現存している城門の中では最も広い 規模になります。大正12年の関東大震災で破損し、その際に鉄網土蔵造りに改修されました。昭和36年、国の重要文化財に指定されました。

現在「警視庁」は「桜田門」の目前にあるので警視庁のことを「桜田門」と言う風に使われることがあります。

また、安政7年(1860)3月3日、勅許なく安政の仮条約に調印し、安政の大獄などで弾圧を行った大老井伊直弼(いいなおすけ)が、水戸・薩摩(さつま)の浪士らに桜田門外で暗殺された事件がありました。「桜田門外の変」
「皇居正門」

皇居の真南にある門で二つのアーチが美しい「正門石橋」を通って正門に行き、その先が「正門鉄橋」になり、そこを通過すると、長和殿のある宮殿東庭になります。天皇誕生日や新年1月2日には長和殿で天皇皇后両陛下と皇族方の参賀があるところです。

皇居正門の元の名前は西の丸大手門でしたが、明治21年(1888年)の 明治宮殿造営のとき、この門のすぐ前にあった高麗門を撤去し、名称も 皇居正門と改めました。 建造は3代将軍徳川家光公の時代と推定されています。

「皇居正門石橋」は江戸時代のときは土で出来た「土橋」でしたが、明治20年12月に現在のようなめがね型をした美しいアーチを描いた石橋になっています。多くの方は、これを二重橋と呼ばれる方がいますが、この石橋は二重橋ではありません(石橋の奥に少し見えているのが鉄橋です)

「皇居正門石橋」の奥の伏見櫓の手前に見える橋が「皇居正門鉄橋」と言い、当初作られたときは、木の橋を二重に重ねて橋を作ったため、「二重橋」と言われています。ご覧のように、ここの堀が大変深いため、橋の上にもう一つの橋桁を乗せることにより、お堀の深さをカバーしていました。
「坂下門 」
現在は宮内庁の通用門で、この門内に宮内庁があります。

ここは西の丸の造営後、新たに造られたと伝えられています。 文久2年(1862)1月老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士の襲撃を受けました。いわゆる「坂下門外の変」になります。
安藤対馬守は磐城平藩5万石の領主,寺社奉行,若年寄を経て万治元年老中となりました。井伊大老没後,老中首座久世広周と組み、一ツ橋派諸侯の謹慎をとき、朝廷と幕府の間の調整融和のため公武合体政策を行い、 将軍家茂に皇妹和宮の降嫁を強行し実現させました。
このため尊皇攘夷派の憤激を買い、水戸浪士平山平介ら6人に襲撃を受け負傷し失脚しました。
「桔梗門」

桔梗門は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門で、「内桜田門」と呼ばれて
いますが、昔この門の瓦に太田道灌の家紋が(桔梗)ついていたことから桔梗門と
呼ばれるようになったとも伝えられています。

大田道灌時代(長禄元年(14577年)に江戸城を築城)の泊船亭はこの辺りだったそうです。
道灌は絶景の江戸城内に、広く広がる原野を望む静勝軒(南)、絶壁から海原を望む泊船軒(東)、はるかに雪を冠した秩父山系を望む含雪軒(西)という軒を設けておりました。
道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門と名前になったという説、帰郷、吉祥、吉慶から付いたなどと諸説があり由来ははっきりしていません。
「田安門」
田安門は江戸城の北部に位置し、建立以前のこの付近は田安台と言われた田園地帯でした。
桝形形式の門になり、その創立年代は明らかではないですが、慶長12年(1607年)には既に存在していたと言われています。

現在の門は寛永13年(1636年)に再建され、実際に門釣金具に 『寛永13年丙子暦9月吉日....』と彫られています。
現存する門の中では最も古いものです。
また、田安門前の常灯明台は、靖国神社の献灯兼東京湾に入港する船の目標だったそうです。
御三家(紀州・尾張・水戸)に次ぐ家柄格式を持っていた徳川家御三卿(清水・一橋・田安)の家名は、彼らの屋敷が江戸城の田安門・一橋門・清水門内に あった事から命名されたそうです。
「清水門」
寛永元年(1624)助役大名浅野長晟建立の典型的な枡形形式の門になります。

破風(屋根の切妻にある合掌形の装飾板)の中は銅板が張られ、青海波(せいかいは・雅楽、青海波の舞曲に用いる服の波形の染め模様)が刻まれています。
これは、かつての江戸城天守閣と同じ作りになります。鯱には葵の門があります。
門名については,昔この辺りに清水が湧き出たからだという言い伝えがあります。
清水門、田安門とも江戸城の遺構として責重なため昭和36年6月に国の重要文化財に指定されています。
皇居1周約2時間



千鳥ヶ淵緑道の桜も載せておきますね

ポストカードみたいに美しい 東京のお花見スポットでした




最後に通行できる門の案内をしておきます



自由に通れる門…桜田門
皇居東御苑の公開日は、自由に通れる門…大手門・平川門・北桔橋門
特別な日のみ通れる門
◯新年一般参賀・天皇誕生日一般参賀… 皇居正門・坂下門・桔梗門
◯乾通り一般公開… 坂下門・乾門
一般人は通れない門…半蔵門
やっと載せることが出来ました


長編ですいませんでした


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