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2011年05月08日

吉田城

吉田城は豊橋市役所の横に見える小さな城で、日曜日の決まった時間しか一般公開されていず、中々立ち寄る機会がなく、何時も横を通り抜けるだけでしたが先日、豊川の帰りに立ち寄ってみました。豊橋公園にある吉田城跡は石垣や空堀、土塁などが思ったより残されていてびっくりしました。
 
吉田城
(吉田城略史)
吉田城の歴史は、今川方の牧野古白によって、その前身の今橋城が築かれたことに始まります。
牧野氏は一色城を本拠として今川氏の幕下にあった豪族でした。
戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋城は、戦国武将が激しい攻防を操り返す中で
名も今橋から吉田と改められたようです。 
吉田城
(二の丸口門跡)
その後、近隣の豪族との抗争を繰り返し、今川義元が城代を置きました。
義元が桶狭間で戦死すると、徳川家康は今川氏の東三河最大拠点であった吉田城を攻略し
ここに酒井忠次をおきました。  
吉田城
(本丸)
そして家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で入城し、豊川を背にして本丸を
中心に二の丸・三の丸を配置し、掘を同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張して
城下町の整備を行いました。
吉田城
(鉄櫓)
しかし関ヶ原合戦の後に、池田輝政が播州姫路に姫路に移封となったため、工事は未完に終り、
代わって入った竹谷松平氏は3万石の石高であったため大城郭の計画は実現しなかったようです。
吉田城
(本丸復元模型…一般公開は毎週日曜10時~15時。外部見学は無料)  
幕藩期には東海道の要衝として、大河内松平など9家22代の譜代大名が在城しましたが
その石高はいずれも3~8万石ほどで城地を確保しているだけが限度でした。
吉田城
池田輝政によって拡張されたこの城も、財政的要因のため完全に整備されず天守閣の
建立を見ないまま明治に至り維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれる
ようになったのです。  
吉田城
(刻印)
各地の城の多くの刻印は幕命による天下普請の城に見られるものですが、吉田城に
見られるのは名古屋城築城用の残石を転用した物らしいのです。
吉田城
(石垣)
吉田城の石垣は本丸とそのほか数ヵ所で他は土塁だったようです。
吉田城
(刻印の位置図)
石垣の石のうち花崗岩に印刻が彫られていてこれが石垣刻印で、数ヶ所に確認できるようですが残念ながら雨がひどくなり見てくることが出来ませんでした。

吉田城には天守閣はなく、四隅の石垣には櫓があったようですが現在は、入道櫓(本丸鉄くろがね櫓跡)・石塁・堀・本丸城郭が残っているだけで、この日は運良く、吉田城隅櫓(本丸鉄くろがね櫓の跡のところに建てられている鉄筋コンクリート造三層三重櫓式です)に入れたのがよかったです。
 


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Posted by きくいち at 13:47│Comments(0)趣味

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