2020年02月09日
徳川家康の死因は…?
今日は久しぶり気分を変えて歴史の話題を
徳川家康といえば、日本人であれば知らない人はいないといってもいいほどの、歴史上の重要人物です
私たちがよく知っている徳川家康は、戦国の混乱期を乗り切り天下統一を果たし、江戸幕府を開いた名将です
今も昔もそうですが、有名であればあるほどなぞが多かったり、ちょっとした出来事に尾ひれはひれがついてまさに伝説となってしまったりします。そこで今日は、そんな徳川家康についてのエピソードを紹介したいと思います

元和二年(1616年)の4月17日は徳川家康の命日です。家康の死因というと、一昔前までは「鯛の天麩羅の食いすぎだって、食い意地張りすぎ」みたい感じでしたが、最近では違う説の方が有力になってきています
というのも、家康が鯛の天麩羅を食べたのは、この年の1月のこと。それが原因であれば、4月に亡くなるというのはいくらなんでも遅すぎますよね
では一体、死因はなんだったのでしょう
晩年の頃のお話と合わせて振り返ってみましょう
家康というと”鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”という歌にあるように、とても慎重で用心深い人物だと思われています。そんな性格であれば、当然ながら日頃から健康にもかなり気をつかっていたはずであり、当時としては非常に珍しかった天麩羅を食べすぎて死んだというのはにわかには信じがたいことです。
しかし、実際の家康という人物は、そのような一般に知られているイメージとは違った部分もあったようです
慎重であったことは事実でしょうが、一方で彼はとても好奇心旺盛で活動的な人物だったようです

関ヶ原の戦いには南蛮胴具足を着用したり、南蛮時計や砂時計を愛用したりと当時としては、かなりの新しいもの好きでした。70代を越え隠居してからも、南蛮世界図屏風を見ながら異国の国々の話をしていたという記録も残っています
ある時、鷹狩りに出かけた場所で、初めて知った天麩羅を、好奇心旺盛な家康はさっそく作らせて食べたようです
天麩羅といっても現代の天麩羅とは少し違っていて、鯛のすり身を油で揚げたさつま揚げのようなものだったようです。その時に食べた天麩羅がもとで腹痛が始まり、一晩経っても腹痛はおさまらず、駿府に帰って療養しますが一向に良くならず、75歳で亡くなったとのことです
油は当時大変貴重な物でしたから、将軍職にあった家康といえども普段食べなれていなかったのと、高齢でもあったので消化不良を起こし、それが死因につながったと考えられています。好奇心旺盛な性格が、逆に仇になってしまったのでしょうか

徳川家康が天麩羅を食べて体調をおかしくしてしまったのは事実のようですが、どうもそれが直接の死因ではないという説が最近は有力です。本当の死因はガンであった可能性が高いようです
家康が天麩羅を食べてから、亡くなるまでに三か月ほどの月日が流れています。食あたりが直接の原因だとすると、亡くなるまでの期間があまりにも長すぎです。家康のそばにはいつも医者が従えていたようですが、この時の医者の診察によると家康の腹の中にしこりがあったようです
医者は家康にいろいろと治療にあたっての進言をしましたが、家康は主治医の言う事に耳を貸さず、自己流の治療を試みていたようです。家康はもともと健康オタクでした。若い時から身体を鍛え、医薬にも強い関心があり自分自身で薬も調合していました
そのような家康ですから、主治医の判断よりも自分の判断を優先させてしまったのかも知れません。
当時、家康が使ったと考えられている薬はトリカブトの根が主剤だったようです。トリカブトは猛毒で知られています
毒と薬は紙一重と言いますが、もちろん多量に使えば死に至りますが、適量を用いれば妙薬になると考え用いていたようです。結局家康は、亡くなるまで主治医のいうことには耳をかさず自分で調合した薬を飲み続けたました
症状が悪化するにつれて痩せて顔色が悪くなり、つねに吐き気を催していたことや、主治医が触診したときに腹部にしこりがあったことなどから考えると、症状的には消化器系のがんで、もうその時には末期だった可能性があります
秀忠や水戸光圀も消化器がんで亡くなっているとの説が有力なので、徳川家はある意味がん家系であり、家康もがんで亡くなってしまったのかも知れません
家康の死因はおそらく胃がんであろうという説が有力ですが、家康はすでに殺されていたという説が多々あるようです
その説の中の一つに、なんと関が原ですでに暗殺されていたという説があります。

家康が影武者を使っていたという話は有名です
関ヶ原の戦いでは、家康ととても良く似ていた世良田次郎三郎という人物を影武者として使ってたようです(敵方の混乱を誘うために、いつも二人並んで座っていたようです)
武田の忍びである忍者六郎という人物が野々村四朗右衛門という人物を刺殺し、その野々村に成りすまして家康を暗殺したということです。仮にそれが事実だとした場合、忍者六郎は本物の家康をどのようにして見分けたのでしょうか
家康はもともといらいらすると爪を噛む癖があり、その癖を見抜き見事暗殺に成功したとのことです。
徳川の代々将軍に関する日記のような書物に「徳川実紀」というものがあります。そこには「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」という記述があるそうです。もちろん家康が死んだとは記述されていませんが、野々村四朗右衛門は使番という立場でした。使番は当時伝令や観察、敵軍への使者なども務めていましたから、日頃から家康の近くにおり、信頼も厚かったということでしょう。

しかし、そんな家康の腹心ともいうべき人物が、突然謀反を起こして家康に切りかかるとうのは考えにくいことです
やはり武田の忍びが野々村に入れ替わって、家康に切りかかったと考えるのが自然です。いずれにしても「徳川実紀」に書かれたようなそのような事件が実際にあったのでしょう
それに尾ひれがついて、家康は関が原ですでに暗殺されていたという話が広まったのかも知れません
もし家康が関ヶ原の戦いで暗殺されていたとしたら、江戸幕府を開いた人物はだれなのでしょうか
ちなみに今日は義父の49日法要でした


無事納骨も終わりました
合唱

徳川家康といえば、日本人であれば知らない人はいないといってもいいほどの、歴史上の重要人物です


今も昔もそうですが、有名であればあるほどなぞが多かったり、ちょっとした出来事に尾ひれはひれがついてまさに伝説となってしまったりします。そこで今日は、そんな徳川家康についてのエピソードを紹介したいと思います


元和二年(1616年)の4月17日は徳川家康の命日です。家康の死因というと、一昔前までは「鯛の天麩羅の食いすぎだって、食い意地張りすぎ」みたい感じでしたが、最近では違う説の方が有力になってきています



晩年の頃のお話と合わせて振り返ってみましょう

家康というと”鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”という歌にあるように、とても慎重で用心深い人物だと思われています。そんな性格であれば、当然ながら日頃から健康にもかなり気をつかっていたはずであり、当時としては非常に珍しかった天麩羅を食べすぎて死んだというのはにわかには信じがたいことです。
しかし、実際の家康という人物は、そのような一般に知られているイメージとは違った部分もあったようです



関ヶ原の戦いには南蛮胴具足を着用したり、南蛮時計や砂時計を愛用したりと当時としては、かなりの新しいもの好きでした。70代を越え隠居してからも、南蛮世界図屏風を見ながら異国の国々の話をしていたという記録も残っています

ある時、鷹狩りに出かけた場所で、初めて知った天麩羅を、好奇心旺盛な家康はさっそく作らせて食べたようです


油は当時大変貴重な物でしたから、将軍職にあった家康といえども普段食べなれていなかったのと、高齢でもあったので消化不良を起こし、それが死因につながったと考えられています。好奇心旺盛な性格が、逆に仇になってしまったのでしょうか


徳川家康が天麩羅を食べて体調をおかしくしてしまったのは事実のようですが、どうもそれが直接の死因ではないという説が最近は有力です。本当の死因はガンであった可能性が高いようです

家康が天麩羅を食べてから、亡くなるまでに三か月ほどの月日が流れています。食あたりが直接の原因だとすると、亡くなるまでの期間があまりにも長すぎです。家康のそばにはいつも医者が従えていたようですが、この時の医者の診察によると家康の腹の中にしこりがあったようです



当時、家康が使ったと考えられている薬はトリカブトの根が主剤だったようです。トリカブトは猛毒で知られています


症状が悪化するにつれて痩せて顔色が悪くなり、つねに吐き気を催していたことや、主治医が触診したときに腹部にしこりがあったことなどから考えると、症状的には消化器系のがんで、もうその時には末期だった可能性があります


家康の死因はおそらく胃がんであろうという説が有力ですが、家康はすでに殺されていたという説が多々あるようです

その説の中の一つに、なんと関が原ですでに暗殺されていたという説があります。

家康が影武者を使っていたという話は有名です

関ヶ原の戦いでは、家康ととても良く似ていた世良田次郎三郎という人物を影武者として使ってたようです(敵方の混乱を誘うために、いつも二人並んで座っていたようです)
武田の忍びである忍者六郎という人物が野々村四朗右衛門という人物を刺殺し、その野々村に成りすまして家康を暗殺したということです。仮にそれが事実だとした場合、忍者六郎は本物の家康をどのようにして見分けたのでしょうか

徳川の代々将軍に関する日記のような書物に「徳川実紀」というものがあります。そこには「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」という記述があるそうです。もちろん家康が死んだとは記述されていませんが、野々村四朗右衛門は使番という立場でした。使番は当時伝令や観察、敵軍への使者なども務めていましたから、日頃から家康の近くにおり、信頼も厚かったということでしょう。

しかし、そんな家康の腹心ともいうべき人物が、突然謀反を起こして家康に切りかかるとうのは考えにくいことです




ちなみに今日は義父の49日法要でした



無事納骨も終わりました
