2014年03月04日
一国一城制による但馬唯一の城、出石城
出石城は慶長9年(1604)に小出吉秀によって山頂の城を廃して築かれたもので一国一城制による但馬唯一の城です。平山城に分類され梯郭式といわれるように有子山の麓に上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の櫓、三の丸と梯子を立てかけたように城を築いています。


出石城は有子山(ありこやま)の麓に築かれたお城ですので、出石城とセットで有子山城も確認できました。出石城には観光客が大勢集まるのですが、有子山城へと続く登山道には誰も行こうとしません。行こうとしないというよりかは、傾斜もひどく、かなり険しい道ですので、明確な目的を持っていない人は途中で引き返すという感じでした。有子山城へ向かう登山口の稲荷曲輪までは出石城から10分もあれば到着できます。
多くの人は、出石城の本丸・二の丸・三の丸と確認し、城下町へと流れます。
定番の出石皿そばを食べ笑顔に包まれる人達ばかりです。城郭マニアとしてはそんな人達を横目に有子山城へ向かいたかったのですが…


有子山…この険しい城山山頂に築かれた石垣造りのお城が有子山城です。ここからは眼下に此隅山城や豊岡城まで一望することがでるとか…?
有子山城へ登るには出石城の赤い鳥居の下を通る階段を上り詰め、稲荷曲輪の横からら登って行くのですが、(本丸までは1時間位かかると聞き)今回は時間が無く断念…。本丸手前には「シノギ積み」の石垣もあるそうで、本丸からの出石町全体を一望できるパノラマは体験できませんでした。
そこで、出石城からの街並みを…

出石城西櫓からの街並み

出石城本丸稲荷郭から
有子山城(有子城・高城)…此隅山落城後山名氏が本拠を移した天険の城

城史この城は天正2年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城にかわって、山名祐豊により築城されました。その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って、子供に恵まれる意味をこめて「有子」と命名したといいます。しかしわずか6年後の天正8年(1580)天下統一を狙う織田軍によって城は陥落します。
地元のガイドに聞いたところ、城の縄張りは、山頂部に本丸を置き、西の尾根筋へ6段の曲輪が並べられ、本丸と三段目の曲輪には見事な石垣が積まれて、三段目の曲輪の石垣にはシノギ積みの石垣があるそうで、本丸背後には大堀切があり、堀切を隔てて千畳敷と呼ばれる広い曲輪があり、ここが城内で居館スペースだったのではないと言っていました。
主郭から南東・北西に伸びる尾根筋には竪堀を伴う堀切がそれぞれ設けられているとも…?
【歴史】
有子山城は、天正2年に山名祐豊によって築かれました。室町時代の但馬守護山名氏の居城は此隅山城でしたが、永禄12年に羽柴秀吉によって落城します。その後、但馬に復帰した山名祐豊は有子山に築城して再起を図ります。天正8年、竹田城を拠点とする羽柴秀長に攻められ落城、但馬守護山名氏は滅びます。天正13年、前野長康が播磨三木より有子山へ移され105,000石を領し、関白秀次の側近となった長康は、文禄4年に秀次謀反の罪に連座して改易となってしまいます。
変わって小出吉政が播磨龍野から入り53,000石を領します。慶長9年、2代吉英は領国経営に不便な山城を廃し、山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いたのです。
出石城に話を戻します。

出石城への登城橋と登城門

出石城へは・かつて七つの登城門が有ったといわれますが、一国一城制で但馬に唯一残された城の門も明治維新に取り壊されたものが 復元されています。方位に拠る固有名称も有ったのでしょうが単に登城橋・登城門です。

出石城二の丸から



出石城は有子山山頂部(山城有子山城/高城)と山麓部(平城・出石城)を持ち両者が一体となって機能する戦国期の形態の城で但馬守護・山名氏の本拠地でした。
出石家老屋敷

江戸時代後期の家老級上級武士の屋敷…江戸時代の日本三大お家騒動の一つに挙げられる仙台騒動の中心人物で、徳川幕府によて断罪された仙石左京の屋敷跡があったことから「左京屋敷」とも呼ばれる出石家老屋敷。
仙台騒動は天保 6年(1835)財政や後継者争いが絡んだ藩政改革に、二人の家老:改革派の仙石左京と保守派の仙石造酒が覇権を争ったのが発端で、お家乗っ取りの疑いで幕府の裁きを受けた出石藩は58,000石から3万石に減封された。一見して外観は平屋造りの様に見えますが、内部には隠し階段の二階が有って、刀を振り回せないように天井を低くし、不意の襲撃に備えて設計されたものと思われています。建物の一部は失なわれていますが往時の造りを偲ばせてくれます。
(現地:家老屋敷の案内板を参照)

出石城・稲荷曲輪の高石垣

三の丸跡 (三の丸大手門脇の櫓台には、辰鼓櫓が建ち出石のシンボルとなっている)


御対面所跡

西の郭跡

下の郭跡

西櫓
【歴史】
古城(有子山城)は、天正2年に山名祐豊が築城します。文禄4年、播磨龍野より小出吉政が入り53,000石を領します。慶長9年に吉政は、和泉岸和田へと移り、子の吉英が城主となります。有子山城へ入った吉英は、領国経営に不便な山城を廃し、山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いたのですが、小出氏は、元禄9年に6代英及が3歳で夭折し断絶してしまいます。小出氏断絶後、武蔵岩槻より松平忠徳が入り9年在城し、宝永3年には信濃上田から仙石政明が58,000石で入封して、仙石氏が明治まで代々居城しました。


出石城は有子山(ありこやま)の麓に築かれたお城ですので、出石城とセットで有子山城も確認できました。出石城には観光客が大勢集まるのですが、有子山城へと続く登山道には誰も行こうとしません。行こうとしないというよりかは、傾斜もひどく、かなり険しい道ですので、明確な目的を持っていない人は途中で引き返すという感じでした。有子山城へ向かう登山口の稲荷曲輪までは出石城から10分もあれば到着できます。
多くの人は、出石城の本丸・二の丸・三の丸と確認し、城下町へと流れます。
定番の出石皿そばを食べ笑顔に包まれる人達ばかりです。城郭マニアとしてはそんな人達を横目に有子山城へ向かいたかったのですが…



有子山…この険しい城山山頂に築かれた石垣造りのお城が有子山城です。ここからは眼下に此隅山城や豊岡城まで一望することがでるとか…?
有子山城へ登るには出石城の赤い鳥居の下を通る階段を上り詰め、稲荷曲輪の横からら登って行くのですが、(本丸までは1時間位かかると聞き)今回は時間が無く断念…。本丸手前には「シノギ積み」の石垣もあるそうで、本丸からの出石町全体を一望できるパノラマは体験できませんでした。
そこで、出石城からの街並みを…

出石城西櫓からの街並み

出石城本丸稲荷郭から
有子山城(有子城・高城)…此隅山落城後山名氏が本拠を移した天険の城

城史この城は天正2年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城にかわって、山名祐豊により築城されました。その名は落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って、子供に恵まれる意味をこめて「有子」と命名したといいます。しかしわずか6年後の天正8年(1580)天下統一を狙う織田軍によって城は陥落します。
地元のガイドに聞いたところ、城の縄張りは、山頂部に本丸を置き、西の尾根筋へ6段の曲輪が並べられ、本丸と三段目の曲輪には見事な石垣が積まれて、三段目の曲輪の石垣にはシノギ積みの石垣があるそうで、本丸背後には大堀切があり、堀切を隔てて千畳敷と呼ばれる広い曲輪があり、ここが城内で居館スペースだったのではないと言っていました。
主郭から南東・北西に伸びる尾根筋には竪堀を伴う堀切がそれぞれ設けられているとも…?
【歴史】
有子山城は、天正2年に山名祐豊によって築かれました。室町時代の但馬守護山名氏の居城は此隅山城でしたが、永禄12年に羽柴秀吉によって落城します。その後、但馬に復帰した山名祐豊は有子山に築城して再起を図ります。天正8年、竹田城を拠点とする羽柴秀長に攻められ落城、但馬守護山名氏は滅びます。天正13年、前野長康が播磨三木より有子山へ移され105,000石を領し、関白秀次の側近となった長康は、文禄4年に秀次謀反の罪に連座して改易となってしまいます。
変わって小出吉政が播磨龍野から入り53,000石を領します。慶長9年、2代吉英は領国経営に不便な山城を廃し、山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いたのです。
出石城に話を戻します。

出石城への登城橋と登城門

出石城へは・かつて七つの登城門が有ったといわれますが、一国一城制で但馬に唯一残された城の門も明治維新に取り壊されたものが 復元されています。方位に拠る固有名称も有ったのでしょうが単に登城橋・登城門です。

出石城二の丸から



出石城は有子山山頂部(山城有子山城/高城)と山麓部(平城・出石城)を持ち両者が一体となって機能する戦国期の形態の城で但馬守護・山名氏の本拠地でした。
出石家老屋敷

江戸時代後期の家老級上級武士の屋敷…江戸時代の日本三大お家騒動の一つに挙げられる仙台騒動の中心人物で、徳川幕府によて断罪された仙石左京の屋敷跡があったことから「左京屋敷」とも呼ばれる出石家老屋敷。
仙台騒動は天保 6年(1835)財政や後継者争いが絡んだ藩政改革に、二人の家老:改革派の仙石左京と保守派の仙石造酒が覇権を争ったのが発端で、お家乗っ取りの疑いで幕府の裁きを受けた出石藩は58,000石から3万石に減封された。一見して外観は平屋造りの様に見えますが、内部には隠し階段の二階が有って、刀を振り回せないように天井を低くし、不意の襲撃に備えて設計されたものと思われています。建物の一部は失なわれていますが往時の造りを偲ばせてくれます。
(現地:家老屋敷の案内板を参照)

出石城・稲荷曲輪の高石垣

三の丸跡 (三の丸大手門脇の櫓台には、辰鼓櫓が建ち出石のシンボルとなっている)


御対面所跡

西の郭跡

下の郭跡

西櫓
【歴史】
古城(有子山城)は、天正2年に山名祐豊が築城します。文禄4年、播磨龍野より小出吉政が入り53,000石を領します。慶長9年に吉政は、和泉岸和田へと移り、子の吉英が城主となります。有子山城へ入った吉英は、領国経営に不便な山城を廃し、山麓の居館部を大修築して近世城郭出石城を築いたのですが、小出氏は、元禄9年に6代英及が3歳で夭折し断絶してしまいます。小出氏断絶後、武蔵岩槻より松平忠徳が入り9年在城し、宝永3年には信濃上田から仙石政明が58,000石で入封して、仙石氏が明治まで代々居城しました。
Posted by きくいち at 10:54│Comments(0)
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