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2015年11月23日

昭和の大横綱、そして相撲協会のトップの理事長

昭和末期の2大横綱といえば、北の湖と千代の富士。
その一角の北の湖理事長(北の湖親方)が先日(11月20日)亡くなりました。

直腸がんと多臓器不全が原因ですが、一言で言ってしまえばガンがあちこちに転移したのでしょう。 現役時代はバッタバッタとライバルを投げ飛ばした北の湖理事長も、重病は投げ飛ばす事ができなかったのです。以前は熱烈な相撲ファンだった私…今日は北の湖関を忍んで当時の思い出を書きますえーん

昭和の大横綱、そして相撲協会のトップの理事長

強すぎて「憎らしい」と言われた北の湖…強い横綱でした。強すぎたために、「憎らしい」とまで言われた北の湖は、新十両、新入幕、新小結と、次々と最年少記録をつくり、1974年(昭49)7月、21歳2カ月で史上最年少横綱となりました。無口でいちずな北の湖よりも、人気は華やかな貴ノ花、輪島らに集中しがちでしたが、そんなことはおかまいなし、ひたすらに勝ち続け、横綱在位数63場所、横綱勝数670、連続勝ち越し50場所はいずれも歴代1位の不滅の大記録を打ち立てます。

圧倒的な強さを誇った大鵬が引退した後、相撲人気を支えたのは、初の「外国人力士」高見山、初代若乃花の弟でハンサムな貴ノ花、初の学士横綱輪島だった。勝負以上に、背景のサクセスストーリーや雰囲気に、ファンはひかれた。そこに割って入った本格派が、アンコ型の北の湖でした。

当時はSFアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト」が大ヒットし、ピンクレディー旋風、カラオケも大流行の兆しを見せていた時代で、学園紛争期の反動もあり、遊ぶ大学生が文化の中心を占め始めていました。米車リンカーンを乗り回し有名人との交際を好んだ輪島は、時代が生んだ「現代っ子横綱」で、その対照的存在が北の湖でした。

二人が千秋楽結びの一番で当たった回数22は、大鵬・柏戸の21回を抜く最多記録で、昭和50年5月場所から15場所連続の対戦は未だ破られることない記録です。そして、北の湖自身が語る「最も印象に残る相撲」も昭和53年7月場所14日目の輪島戦だと言っています。輪島の「黄金の左」を封じ寄り切った相撲は何度となくビデオで放映されました。

昭和の大横綱、そして相撲協会のトップの理事長

北の湖が横綱に昇進した昭和49年は、同じ昭和28年生まれの麒麟児と栃光(後の金城)が入幕し、後に横綱2代目若乃花となった若三杉、大錦とともに「花のニッパチ5人衆」と呼ばれました。(角界では前例のない呼び方だった)

このころ、「新御三家」や「花の中三トリオ」など、同世代のライバルをグループで扱うのが、芸能界でも流行していて、この軽いノリを相撲界も受け入れたのだと思いますが、現実には北の湖一人が抜きんでていました。

玄人ファンは別にして、美男力士の貴ノ花や若乃花を倒す北の湖は、茶の間からは悪役に見え、肩を揺すって花道を歩く姿がふてぶてしいといわれ、負かした相手に手を貸さなかったことが批判されました。そして輪島が衰えてからは優勝を独占し始め、強すぎて憎らしいと言われたのです。

この頃に5連覇を達成、大鵬の81勝を破る年間最多勝82を記録した、北の湖の「横綱は負けてはいけない、優勝は横綱から出なくてはいけない」という信念は、みじんも揺るがなかったと思います。しかし、自分の天下が長ければそれでいいという功績主義とは、微妙かつ絶対的な差異があったのでは…?北の湖は、「横綱はたくさんいた方がいい」と言っていました。「自分の優勝回数は減るかもしれないが、自分がだめなときでもだれかが優勝してくれるから」と…。

他の力士は、北の湖を破ることで、光ることができたのです。貴ノ花の2度の優勝や2代目若乃花の誕生は、祭りのような騒ぎになりましたし、千代の富士が大関、横綱の昇進を決めた時も、北の湖を千秋楽で破ってドラマをつくったのですから…。

強味を増してからは「憎らしい程に強い」と言われ、子供が好きな物を並べた「巨人、大鵬、卵焼き」とは逆の「江川、ピーマン、北の湖」の言葉が生まれたほどでした…。(強いだけでなく休みも無く、横綱昇進以来、約7年間も連続出場した)

昭和の大横綱、そして相撲協会のトップの理事長

引退後は、相撲協会から一代年寄を贈られました。大鵬に次いで2人目の栄誉で、成績的にも人間的にも、最高の横綱だった評され、故春日野理事長が、一度は養子にと考えたほどで、協会内部には、当時すでに、将来の理事長候補という空気があったようです。

その昭和の大横綱が現役引退後になるべくし てなった相撲協会のトップの座。一時期、相撲の八百長疑惑で大きく揺れて大 相撲自体の存続が危ぶまれたこともありまし た。このころ、北の湖理事長は相撲の信頼回復の ために尽力されたとの話を聞き伝えられてい ます。 体調を崩されたのは、この頃…。 検査によって大腸がんが見つかり、内視鏡で の手術を受けたとの報道がありました。相撲協会ののトップですから、一般企業の社長が病気の時、あまり大ぴらにしないのと同様にあまり北の湖理事長の病状については詳細は協会側からは発表されていませんでした。

数年前にも大腸ポリープの摘出手術をされた り、その後腸閉塞などもわずらわれていたよ うです。一時期は人工肛門もされていたと…?こ の人工肛門って大変なんですよね。大相撲の現役時代にトップの横綱になって、引退後相撲協会のトップの理事長になられた方が、人工肛門は…かなり辛い出来事だったので はないかと想像されます。

昭和の大横綱、そして相撲協会のトップの理事長

そういえば、数日前に横綱白鳳が、横綱と ては前代未聞の「猫だまし」を使ったことに、 北の湖理事長がコメント出されていたようで すが、これもしっかり理事長としての職務を はたしているぞとの協会側の狙いがあったの かもしれません。

しかし、62歳はあまりに早いですね。あれだけ岩のように動かず、すこぶる腰が重かった横綱北の湖がこれほどまでにあっさり と亡くなるとは…。

記者から取材を受けた時の対応も、はぐらかしたりおちゃらかしたりせず、誠実な人柄がにじみでていたようで、インタビューをした記者が、「この親方がいる限り、大相撲は大丈夫だ」と語っています。メディアの前ではこわもての北の湖理事長でしたが、普段は優しい人柄で近所の人たちから愛されていて、気配り細やかな優しい人だったと多くの人が故人の人柄を忍んでいます。

「相撲人生を全うするのが自分の仕事」と語っていたと言う北の湖理事長…本当に残念でならない。





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