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2012年08月31日

お手頃な長月コースと更にお得な、お気軽3000円コース

明日からは9月…お手頃な長月(ながつき)コース4000円を紹介します。
〆は本格握り6貫で、稲取産サザエ・松茸・ずわい蟹などを使った、和の料理も充実。こちらのコースは、彩り綺麗な料理と握りが両方楽しめます。しかも価格は4000円とお手頃です。(品数:7品)

・サザエのつぼ焼きorお刺身 ※予約時にご希望をお伝えください。
(稲取産の新鮮なサザエをお客様のご希望に合わせて、つぼ焼き、又は、お刺身にてお愉しみ頂けます。)

・松茸と三河地鶏の土瓶蒸し(秋の味覚の代表!松茸と、肉質が良くジューシな三河地鶏・海老・ぎんなん・三つ葉の絶妙なバランス。すだちの果汁を猪口(ちょこ)にしぼってお楽しみ下さい)



・鴨と秋茄子のすき焼き(永遠のごちそう!すき焼き。鴨は高タンパク質で、ビタミン群、鉄分が豊富。クセがなくやわらかいお肉。そんな鴨と秋茄子は相性ピッタリ。すき焼きにする事で、一層美味しく召し上がれます)



・ずわい蟹と木の子の朴葉焼き(贅沢にずわい蟹の身と椎茸・しめじ・えのき・舞茸・エリンギなどのキノコを朴葉焼きに。お味噌の香ばしい香りが食欲をそそります)



・〆のご飯物 職人が握る旬の握り6貫 
・伊豆稲取産!伊勢海老のお味噌汁
・デザート 

更にお酒メイン、料理はシンプルに楽しみたい。
そんな方にピッタリなお気軽コース3000円(品数:6品)



・サザエのつぼ焼き
(稲取産の新鮮なサザエを豪快につぼ焼きにてご提供。)

・鰻と秋茄子の玉子とじ
(相性ピッタリの鰻と秋茄子を柳川風玉子とじにする事で、素材の旨みが凝縮され一層美味しく召し上がれます)

・土瓶蒸し

・木の子の天婦羅

・日替り寿司屋のまかない丼


・汁物

飲み放題は+1500円(90分)と+2000円(120分)とご用意。
「もっと握りが楽しみたいんだけど…?」など、 用途・内容・ご予算などご相談承ります。
予約時にお伝え下さい  

Posted by きくいち at 10:43Comments(0)コース料理

2012年08月30日

プラットホームから見える五層の復元天守

備後 福山城は広島県福山市丸之内1丁目にあった城で、国の史跡に指定されています。別名、久松城、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれ日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年に日本100名城に選定されました。現在、再建された天守閣は、福山城博物館として、歴代藩主の遺品や福山を中心とした備後地方の歴史と文化に関する貴重な資料を収蔵、展示をし、社会・生涯教育の場として公開されています。



◎所在地:広島県福山市 ◎城郭様式:平山城 ◎築城年:1622年(元和8年)
別称:久松城、葦陽城 ◎築城者:水野勝成 ◎遺構:伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓



徳川幕府から西国鎮護の拠点として、譜代大名の水野勝成が1619年(元和5年)に備後10万石の領主として、入府し築いた城です。歴代の藩主は、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心になっていました。1873年(明治6年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊されました。1945年(昭和20年)8月の空襲により、天守閣と御湯殿は焼失しましたが、1966年(昭和41年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原されました。
現存する伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)は、国の重要文化財に指定されています。福山城は、江戸時代建築の最後の最も完成された名城としてたたえられていました。

福山城公園



昭和20年8月、空襲により天守閣などは消滅しましたが、昔日の姿を留める伏見櫓・筋鉄御門は国の重要文化財に指定されています。また、その城跡は国の史跡として保存されており、春は花見(桜500本)、秋は菊花展覧会など、四季折々の行事が行われています。天守閣には「福山城博物館」があり、歴代藩主の遺品や資料を展示しています。

 


以前広島に行った時 山陽新幹線福山駅のプラットホームからお城を見ました。一二三段城に築かれた福山城の石垣の塁上に、白亜の櫓群と城壁、その後に五層の天守閣(復元)…絶対いつか来るんだとそんな思いを胸にしまったことがありました。



ホームから見ることができ、しかも目の高さに見ることが出来るお城鑑賞スッポット。



現存する伏見櫓は、1622年(元和8年)築城の際に、京都伏見城の「松の丸東やぐら」であった遺構を徳川秀忠が伏見御殿共々移建させたものです。大型で古風な造りの櫓で、風格とどっしりとした趣のある櫓で白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風が伺えます。
 
 

伏見櫓に虎口を守られているのが筋鉄門。 この櫓門(復元)も伏見城から移築されたものだったと言われています。


伏見城だけでなく、備後神辺城からも櫓などの建物が移築され、神辺一番~三番櫓が有名です。



本の丸塁上には、湯殿・月見櫓・鏡櫓が復元されています。  


伏見御殿跡

湯殿跡

月見櫓

鏡櫓…本の丸内には、昭和31年まで時鐘が打たれた鐘櫓があります。城内、しかも本の丸に鐘楼があるのも珍しいことです。

 

復元された白亜の五層天守、2層の付櫓を伴ったその姿は華麗で、それでいて安定感があります。


天守北側

天守に登るとよく分かりますが、北側には2つの小山が存在していて、南正面などの複雑な縄張りに比べ、いささか防備が手薄なように思えます。このために、戦災で焼失した天守の北面には鉄板が張られ(復元天守には張られていない)他の角度からみる姿とは趣の異なる武骨な天守でした。



歴史…元和5年、安芸・備後国主の広島城主福島正則が改易されると、幕府は、大和郡山城主の水野勝成を10万石で備後に封じました。(勝成は、三河刈谷城主水野忠重の嫡男に生まました…幕府は、安芸広島の浅野、長門萩の毛利と西国大大名への監視と牽制のため、徳川一門とも言える勝成を備後に配置した)
元和6年、水野勝成は、山陽道への押さえ神辺城、瀬戸内の海路の押さえ鞆城を廃し、両城の機能を併せ持った新城を築城し、福山城と名付けます。元禄11年、5代水野勝岑が継嗣無く水野氏は断絶します。その後には、松平(奥平)忠雅が出羽山形より入封しますが、宝永7年には伊勢桑名へ転封となりました。同年、下野宇都宮より阿部正邦が10万石で入封し、以後阿部氏が明治まで9代続いて明治に至ります。幕末の老中阿部正弘は、7代福山城主です。
 
プラットホームから見える五層の復元天守、伏見城から移築された櫓が現存しているお城…思い焦がれて行っただけの事はありました。
  

Posted by きくいち at 15:53Comments(0)趣味

2012年08月29日

望楼型複合式天守…備前岡山城

昨日は、はまぞうのシステム変更のメンテナンスがあり、長時間にわたり混乱もあってスッタフの皆さんは色々大変だったようです。今後はiPhone、Android アプリからの投稿も可能とかで、ますます便利になって行くようですが、私のようなアナログ人間は時代に対応して行くのが大変です…。システムが変わりまだ少し戸惑いもあるのですが、今日からまたブログを再開します。最初は大好きなお城の記事から…ニコニコ

岡山城は、後堅固な城です。本の丸背後を一級河川の旭川が流れ、さらに対岸には日本三名園の一つ後楽園が、岡山城の背後を防衛する目的で築かれています。 

 
別名に烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)
遺構(復元天守、現存櫓2基、復元渡り櫓門、曲輪、石垣、堀)
形式(平城)築城者(上神高直)築城年代(正平年間) 



復元された五層天守は、初期望楼式で黒壁の武骨な風情のある天守です。城内から見る天守も良いのですが、後楽園から旭川越しに見る天守は、勇壮な姿を魅せてくれます。



岡山城には、本の丸に月見櫓、今は岡山の官庁街になっている西の丸にある小学校に西手櫓が現存しています。(また、本の丸の表門である不明門が復元されています)



今は櫓台が残るだけですが、本の丸虎口を沼城天守を移築した大納戸櫓が守っていました。また、西の丸石山門は、富山城の大手門を移築したそうですが、これも今は存在していません。 


大納戸櫓跡

歴史…岡山城は、南北時代の正平年間に名和長年の一族、上神高直が築城し、その後金光宗高が居城としていた。



天正元年に備前を制圧した宇喜多直家は、金光宗高を謀殺して岡山城を奪い、沼城から居城移した。 直家は、岡山城に入城してから城の拡張を行い、息子秀家の代までの間に天守を含む大城郭へと変貌させた。
慶長5年、関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家は改易され、筑前名島城主小早川秀秋が入城するが、在城2年で死去して小早川家は断絶する。
慶長8年、池田忠継が入城する。忠継幼少のため長兄の姫路城主池田利隆が補佐し、この時に西の丸帯郭を増築された。 元和元年に忠継が没し、弟忠雄が跡を継ぎ、その子光仲と続く。
寛永9年、光仲幼少のため、鳥取城主池田光政と入れ替えになる。以後、光政系池田氏が、代々3万1500石を領して明治に至った。


 
後楽園から旭川に架かる橋辺りから見る天守は最高


天守閣から岡山市内を一望。

国宝であった天守閣は第二次世界大戦中に焼失し、現在は復元したものです。当時は二の丸、三の丸をめぐって三重の堀があり、周囲には武家屋敷、城下町が広がっていました。黒い外観から別名「鳥城」とも呼ばれ、天守閣から岡山市内を一望することが出来ます。


月見櫓

岡山城の建物で現存するのは月見櫓と西丸西手櫓(にしまるにしてやぐら)。月見櫓は城郭防御の目的だけではなく、月見をはじめ四季の風流を楽しむ場所として使われていました。


地中に埋もれていた石垣


現存していた石垣


天守閣の礎石


六十一雁木土門


廊下門


多聞櫓跡

天守閣(岡山城HPから)…   続きを読む

Posted by きくいち at 09:32Comments(0)趣味

2012年08月27日

素晴らしい自然、日本三名園の一つ(岡山後楽園)

先週夏休みをとり久しぶりで家族旅行に行ってきました。娘たちもそれぞれ仕事がありこうして皆で出かけたのは数年ぶりの事です。行き先は彼女たちに任せ私は荷物運び…?

歴史、城好きはどうやら私だけではなく今回は岡山、広島の史跡巡りの旅でした。
まずは岡山。目的地は、後楽園と岡山城です。

岡山後楽園は、言わずと知れた日本三名園の一つで金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園とともに優れた景勝を持つ日本庭園です(私はまだ兼六園しか行ったことがなく後楽園も初めての訪問でした)
日本三名園」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかは不明ですが、、文献上では明治37年に外国人向けに発行された写真集にこの言葉が使われていたようです。三園の選定理由として、いわゆる雪月花の雪に兼六園、月に後楽園、花に偕楽園を対応させたもらしく、三園ともに江戸時代に造営された池泉回遊式の大名庭園です。(この「日本三名園」には日本庭園における他の形式である枯山水や露地(茶庭)など、池泉回遊式以外の形式のものは含まれていないようです)

また「後楽園がフランス ミシュラン社の旅行ガイドブックで3つ星を獲得」した影響もあってか最近は、海外からの観光客も増えているそうです。


  
後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成しました。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置し、藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としています。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいたようですが、1871年(明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めたそうです。(現地ガイドさんの説明から…)総面積は133,000平方メートルで、なんと東京ドームの約3倍の広さだそうです。
 


また、江戸時代の絵図や池田家の記録や文物が多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。 



庭園は、主建物の延養亭を中心に烏城、操山を借景として取り入れ、園の諸所に祀堂園舎を配しそれらがおのおの景趣をもち、歩きながら移り変わる景色を楽しむようになっています。 


 
旭川の中洲に造られた庭園ですが、清らかな水を引き入れて曲・水・池・滝等に上手に水を利用した事は造園上注目に値するものです。



特徴は日本特有の茶趣味の手法が多く取り入れられるとともに広大な芝生と沢の池の広々とした水面の景趣が、瀬戸内の温暖な気候風土に似て明朗快活なことや、築山・池・芝生・曲水・園路・植込等が優雅に配置され、いかにものびのびとして上品に造られています。庭園を構成する庭石・樹木はほとんど郷土のもので風土に調和した景観構成しています。
                               

延養亭 能舞台
  
後楽園では、一年を通してさまざまな行事が行われているようで、それぞれの四季を楽しむことができます。また、観光ボランティアガイドの説明を無料で受けることもできます。     

庭園内の見所               
廉池軒(れんちけん)…現地案内板によればこの廉池軒は戦災をまぬかれた数少ない建物の一つとか…
慈眼堂…池田綱政が元禄10年に池田家と領民の繁栄を願って建立し観音像を祀った。(現地案内板参考) 
烏帽子岩…花崗岩を三十六個に割って組み上げている。(現地案内板を参考)
大立石…巨大な花崗岩を九十数個に割り、もとの形に組み上げたもの。
唯心山…岡山後楽園は操山を借景にし、そこに塔を建てた。それが安住院の多宝塔。延養亭から見ると唯心山の中腹にその塔が見える。 
井田(せいでん)…昔は後楽園内に広く田畑が作られていたが、今は井田だけがそのなごりを伝えている。



井田とは中国周時代の田粗法で、本園では幕末に田畑の一部を井田の形に作った。
毎年七月の第一日曜日には、お田植え祭を行っている。(現地案内板より)
 
 
 
岡山の周辺には多くの庭園が造られてきたようで、その代表は、ここ岡山の後楽園と私も2度ほど訪ねた香川高松の栗林公園があります。庭園は、自然の美しさ素晴らしさを人の手で一定の所に持ち込んだものですが、庭園を訪れることによって、自然の素晴らしさやその見方の再発見にもなります。
岡山、香川には共通の自然として瀬戸内海国立公園がありますが、この素晴らしい自然も、むやみに開発されることなく後楽園や栗林公園と共に何時までも後世に伝えて行って欲しいものですね。
   

Posted by きくいち at 09:23Comments(0)大将

2012年08月26日

旬の食材を楽しむ9月の贅沢コース

来月の贅沢コースの料理内容を詳しく紹介します。

伊豆稲取から取り寄せる新鮮なサザエや、松茸、秋鱧(ハモ)、鰻、秋茄子、無花果、栗など旬の食材を使用し、秋の訪れを存分に味わえる内容となっております。〆は本格握りを愉しんで下さい。コース内容(品数:8品…5000円)

・サザエのつぼ焼きorお刺身 ※予約時にご希望をお伝えください。
(新鮮なサザエをお客様のご希望に合わせて、つぼ焼き、又は、お刺身にてお愉しみ頂けます。)



・松茸と秋鱧(ハモ)の土瓶蒸し
(秋の味覚の代表と言ったら松茸です。相性抜群の脂ののった秋鱧(ハモ)に海老・銀杏・三つ葉などの食材で絶妙な味のバランスを作り出します。酢橘の果汁を猪口に搾って更に香りをお楽しみ下さい)



・鰻と秋茄子の玉子とじ(相性ピッタリの鰻と秋茄子を柳川風玉子とじにする事で、素材の旨みが凝縮され一層美味しく召し上がれます)



・無花果(イチジク)の天婦羅和牛のたたき
(無花果の天婦羅は衣サクサク、中身はトロトロで生と違う、天婦羅でしか味わえない甘味と香りをお楽しみ頂けます。それを贅沢に和牛と一緒にどうぞ)



・鯛の丹波蒸し
(栗に包まれた甘鯛に旨みたっぷりのとろーり餡。秋の贅沢な一品です)



・〆のご飯物
 職人が握る 旬の握り6貫


 
稲取産伊勢海老のお味噌汁、デザート

「もっと握りが楽しみたいんだけど…?」など、 用途・内容・ご予算などご相談承ります。
予約時にお伝え下さい。
  

Posted by きくいち at 10:20Comments(0)コース料理

2012年08月25日

地上に現れた誇り高き本格焼酎(蟻)

本物の酒造りを目指し、技術を高め、杜氏の目と手の届くだけの量しか造られない、そんな蔵から生まれた限定流通焼酎「」が入荷しました。

鹿児島県神川酒造から、待望の本格焼酎「蟻」が発売されました。厳選した大麦、大麦麹を高隈山系の伏流水で仕込んだ麦100%の本格焼酎で、華やかな香りとまろやかな味わいが特徴です。
 
スッキリと切れのある焼酎でありながら、ほんのりと鼻を抜ける麦の香りと舌にのる甘み。ラベルに印刷された蟻が象徴するように、まさに、地上に現れた誇り高き焼酎です。
 
口当たりはキリっとしてるので、味の濃い料理と一緒に飲んでも、とってもよく合います。  



創業当時から製造の第一線を走り続けてきた前社長兼杜氏の児玉正達氏が引退し、焼酎造り歴25年の日高裕二氏に社長を託し、31歳の若手の新鋭 柚木隆氏が杜氏に就任。
焼酎業界のカリスマ児玉正達氏の「心」と「技」を受け継いだ、神川酒造では、創業当時から温故知新を今でも蔵元の基本としています。

「自然のありがたさ、先人の知恵に今の知識をどれだけ上積みできるだろうか…」と絶えず思案しづける、これがこの蔵元の姿勢なのです。すべて手作業による仕込み「本当に造りたい焼酎、いい焼酎をつくってみたい。そんな思いから神川酒造は生まれました。」
日高裕二社長曰く「生産量は少ないが、しっかり丁寧に造っていくことがこの蔵らしさ。これからも地道に、お客様に喜ばれる焼酎を造り続けていきたい」と言います。ホンモノの酒造りを目指し、技術を高め、杜氏の目と手の届くだけの量しか造りません。
そんな本物の酒造りを目指した蔵から「蟻」は生まれたのです。

先に販売された本格芋焼酎「蟻」も絶品で、原料のさつまいもは、地元鹿児島県鹿屋市の農家と契約栽培した黄金千貫を使い麹は白麹、神川酒造独自のゆっくりとやわらかい蒸気を吹き込む常圧蒸留で仕上げられています。一般的な常圧蒸留だと、もろみの急激な過熱により焦げ臭等の不快成分が発生しますが、この蒸留方法により、焦げ臭等を抑え、もろみ発酵時のさつまいもの甘い香りをそのまま焼酎に移行できるようで酒質は、さつまいもの甘い香りとすっきりとしたのど越しで日常酒として飲み飽きない味わいになるのだそうです。

地上に現れた誇り高き本格焼酎、皆さんも見逃さないで下さい。
   

Posted by きくいち at 10:08Comments(0)

2012年08月24日

たこまんまの塩辛

たこまんまの塩辛を作りました。春から夏にかけて出てきますが、ヤナギダコの卵巣をたこまんまといいます。塩辛はウニやイクラに似た濃厚な味、甘さがあり北海道の料理店や回転すし店などでは人気の酒の肴になります。



北方系の蛸であるヤナギダコの卵巣を食品として呼ぶとき、北海道太平洋沿岸地域ではたこまんまと呼びます。真蛸の卵である海藤花に相当しますが、小卵型の蛸で幼生が長期間プランクトン生活を送る真蛸と違い、ヤナギダコはイイダコと同様の底生生活の幼体が直達発生する大卵型の蛸ですから、卵もずっと大粒です。

ヤナギダコの卵は長径5mm、短径3mm程度と、長径2.5mm、短径0.5mm程度の真蛸の卵の2倍以上の大きさの回転楕円体型で、色は白色がかっています。 生のままだと透き通っていますが、茹でると炊いた米状(まんま、まま)になるためこう呼ばれるそうです。

イクラと同様に酒と醤油に一日ほど漬け込んで食べるのが一般的で、美味しく、値段もイクラよりもはるかに安いのですが、なじみがなく見た目で敬遠する人もいます。蒲鉾や、塩辛、澄し汁などに加工することもできます。
 
①形の揃ったたこまんま(卵巣)をとりだします。
②中に米粒っぽい沢山の卵が入っています。
③どこでもいいので、切れ目を入れ、簡単に裏返します。
④一点で全ての卵がくっついていますので手て搾り取るようにバラバラにしてください。
⑤タッパーに移して、塩1、酒、醤油、タカの爪などを入れよく混ぜます。
⑥一晩漬け込んで完成です。塩を減らして醤油だけで漬けても美味しいです。 
 
●ヤナギタコの特徴はミズタコから比べると小ぶりですので卵巣もミズタコから比べると小さいです。太平洋側ですと3-6kgが中心ですが、日本海側ですと8-10kgのヤナギタコ多く見られます。
●新鮮な生卵は生刺身で食べても問題はありませんが、生身が嫌いな方は沸騰後3分‐5分湯を通す感じで茹でてから少々冷まして、山葵やポンズ酢などでお召し上がり下さい。(蛸の生卵をボイルしますと分かりますが、高タンパクですから鶏の卵の白身のような蛋白が沢山でます)

【食べ方】
お刺身、酢の物、酢味噌、天婦羅など
生やボイルの刺身ならワサビ醤油やポンズ酢が最適です
バラした「たこまんま」は土佐酢や、三杯酢で食べても美味しいです。

海藤花(かいとうげ)…タコの卵から製される食品で兵庫県明石市の名産品です。ケシ粒大の卵粒がつらなり、たれさがるのがフジの花房に似ることから、梁田蛻巌によって「海藤花」と命名されたと言われています。最初は蛸壺の中に産みつけられたのを「すぼし」にしたようで、のちに塩漬けにもされるようになって、胎卵もしぼりとられるようになりました。麹塩漬けにもしますが、長くもつのは立て塩漬けで、塩出しをして三杯酢にしたのが最も酒に合います。さっと茹でて吸い物に落したり、味醂醤油で甘露煮風に煮詰めたりもします。

夏の珍味として是非食べてみてくださいナイス
  

Posted by きくいち at 10:05Comments(0)お酒のつまみ

2012年08月23日

暑い時期ネバネバ野菜でスタミナを…

オクラといえばあのネバネバを思い起こしますよね。オクラのネバネバの正体は、ペクチンという水溶性の食物繊維と多糖類のひとつであるムチンだそうです。

ペクチンは、血糖値の上昇を抑え、整腸作用があり、糖尿病の予防や便秘の改善に効果があり、ムチンは、たんぱく質の吸収を助け、コレステロールの吸収を抑えてくれるのだそうです。他にもネバネバは胃壁を守ってくれるので、アルコールを飲む前などに摂るとよいでしょう。

他にもオクラはβカロチン、ビタミンB1、ビタミンC、ビタミンE、カルシウム、鉄などの栄養分をを含んでいます。(オクラの栄養成分であるβ-カロテンは、抗酸化作用があってコレステロールの酸化を防いで動脈硬化を予防します)これらの栄養素を無駄なく摂るには、生で食べるか、茹で時間を短めにするのがコツです。夏バテにもオススメなネバネバ料理で、残暑厳しいこれからの季節を乗り切りましょう。
 
効果的にオクラの栄養を摂るために…オクラに含まれるビタミンB群やビタミンCを栄養として摂るには生で食べるか、スープにして汁も飲める料理がベスト!水溶性の食物繊維であるペクチンも、生のほうが有効に摂取できるので、便秘や下痢の人は参考としてください。また、β-カロテンは油と一緒に摂ることで吸収率がアップするので、炒め物や揚げ物で食べるといいでしょう。 

オクラの利用法…オクラは、レタスと一緒に煎じると、便秘に効果があると言われています。また、ヨモギとしょうがと一緒に煎じると、下痢止めに効果があるとされています。

オクラの食べ方…生で食べるなら、薄く輪切りにして納豆などの薬味にします。夏場に食べて、暑さを吹き飛ばしましょう。ヌメヌメを生かすなら、さっと煮ます。取り除くなら、じっくりと煮ます。下湯でしてから、和え物、酢の物、炒め物、サラダなどに利用するといいですよ。


(今月のコースのお勧め、鰻と鱧とオクラの酢の物です)

オクラの調理…ヘタの部分には苦味があるため、切り落としてから調理するといいです。さらに、塩で表皮をこすってから水洗いすると、うぶ毛が取れて食べやすくなります。色も鮮やかになりますよ。種子が気になる人は、縦半分に切って種子を取り除いてから調理します。  

オクラの歴史…オクラの原産地はアフリカで、エジプトでは紀元前2世紀から栽培されていたといわれています。日本へは、幕末ごろに伝わりましたが、食用として普及し始めたのは1960年ごろからです。今では代表的なネバネバ野菜として人気ですが、当時はそのネバネバや青臭さのせいで敬遠されていたようです。
女性のスラリとした指先に似ていることから「レディースフィンガー」とも呼ばれます。切り口もおしゃれな星形で、いろいろな料理に大活躍しそうですね。

オクラはトロロアオイの一種とされ、オクラもトロロアオイとそっくりの黄色い美しい花を咲かせます。原産地はアフリカ東北部と言われ、古代よりエジプトで栽培されていたそうです。名前の「オクラ」はカタカナで書きますが、これは外来語に対して使われるのと同じで、「オクラ=Okra」は英語名なのです。

オクラは一般的にはまだ新しい野菜で、一般市場に流通するようになったのは昭和50年代の事です。日本に入ってきたのは明治時代の様ですが、沖縄や鹿児島など暖かい地方で作られて地元で消費される程度だったようです。寒さに弱い植物で、日本では一年草となっていますが、暑い熱帯気候のもとでは多年草となります。ネバネバ野菜として特に女性には人気がある野菜ですね。主な産地は鹿児島や高知県で、温かい地方で作られます。

オクラは若い果実や花を食用とします…オクラは花が咲いた後に実を付けますが、そのままにしておくと実は固くなり食べられなくなります。食用にするのは、実が出来始めた小さな物や、まだ若く、柔らかいうちに収穫した物です。また、花オクラというものもあり、これは花その物を食べます。蕾の状態の物から、咲いている状態の物まで食べられます。

オクラにはいくつか種類があります…一般的なオクラは長さが10cmくらいで、断面が星型をしています。これに対し、沖縄や八丈島などの「島オクラ」は長さが20cm以上もあり、断面もあまり角がありません。また、赤紫色のオクラもありまが、加熱すると緑色になってしまいます。

オクラの産地…平成20年の生産量を見ると、最も沢山生産しているのは鹿児島で、全国の3分の1を賄っています。次いで高知、沖縄となっています。九州や四国を中心に作られていますが、関東では群馬県が沢山作っています。

オクラは夏が旬の夏野菜(旬、美味しい時期)…施設栽培に加え晩秋から春先まではタイなどの南国からも輸入され、通年市場に流通しています。南国の野菜なので、日本での露地栽培物が収穫できるのは暑い夏の時期、6月から8月の夏季で、その頃が旬の時期と言えます。

オクラの品種とその特徴
普通のオクラ…一般的に出回っているものは、長さ5~10㎝です。大きくなりすぎると硬くなるので、小さめのほうが良いでしょう。 

島オクラ…沖縄や八丈島など南の地域で栽培されているもので、長さが20cm以上もあり、断面もあまり角がありません。


紅オクラ…非常に珍しい品種ですが、普通のオクラの花は白く、この品種は花も赤い花が咲きます。ただ、加熱すると緑になるので、生食向きです。家庭菜園向けなどで種が販売されていますが、野菜としての流通はほとんど見かけません。これもミニオクラ同様、入手経路を探さなくてはならないものです。


ミニオクラ …オクラを通常のものよりさらに未熟な状態で収穫したもの。長さが3㎝ほどで柔らかく生食向きです。ただ、一般にはあまり出回っていないため、取引のある業者に頼むか、直接農園に頼間なくてはなりません。


オクラの選び方… オクラは、うぶ毛が均一で、びっしりきれいにおおっているものやさやの角がハッキリしているものを選びます。緑色が濃く鮮やかなもの、切り口が新しく表面が産毛でびっしり覆われているものが新鮮です。オクラは育ちすぎると味が落ちるので、あまり大きすぎないものを選びましょう。角が茶色くなっているものは、鮮度がよくないか育ちすぎです。また、大きすぎるものは、苦くて味が落ちるので注意しましょう 

オクラの保存法…オクラは、乾燥と低温に弱いため、冷やしすぎないよう、ポリ袋などの保存袋や新聞紙に包んで、野菜室で保存します。一度に使い切れない場合は、ラップなどに小分けにして冷凍保存しておくと便利です。5度以下になると、低温障害を起こすので、気をつけましょう。茹でてから保存するほうが長持ちします。 水洗いした後、塩をふって表面をこすり、産毛を取り除いてから調理すると色鮮やかで食感もよくなります。細かく刻むほどネバネバが増すので、料理に合わせて切り方を変えてみましょう。

   

Posted by きくいち at 08:03Comments(0)季節の野菜と果実

2012年08月22日

短期間で廃城となった、黒野城

岐阜市内のもうひとつの城跡を探し訪れてみました。黒野城は、岐阜市に、戦国時代から江戸時代にかけて存在した城で美濃国黒野藩の城ですが、わずか10数年で廃城となった城です。



黒野城(岐阜県岐阜市黒野)は、加藤氏の居城で、面積17.523U+33A1、本丸築堤の高さ5.4m(城址案内板)その周囲の濠は水をたたえて昔の面影をよく残している。西南の入口付近には今でも城門の礎石があり、周辺には惣門口・木戸・二之丸・井之上・徳田屋敷などの地名が残っている(城址案内板)

 

加藤光泰は、はじめ斉藤龍興に仕えていたが、斉藤氏の滅亡後は織田・豊臣氏に仕え、甲斐国甲府城主として、24万石を領したが朝鮮の陣中で歿した。その子・左衛門尉貞泰は幼く領地を減され、文禄3年(1594)7月甲府城より黒野城に移って4万石を領した(城址案内板)

子供の貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡4万石に削封されてしまった。加藤貞泰は領地内の寺院を仮の住居とし、黒野城の築城に着手したといいます。

貞泰は黒野城の築城後、城下町の建設や、楽市制度の導入するなど基礎を固めていたが、慶長5年(1600)、石田三成と徳川家康が対立すると、西軍側の岐阜城城主織田秀信につき、竹中重門らと共に犬山城の警備を行う。しかし、岐阜城が落城すると東軍に和議を申し入れ、関ヶ原の戦いでは東軍に参戦する。貞泰は戦後、所領を安堵されたことにより、黒野城は黒野藩4万石の城となります。

関ヶ原合戦では東軍に属し、慶長15年(1610)まで15年間、居城としていましたが同年7月伯耆国米子6万石に加増移封され、黒野藩は廃藩となりこれにより黒野城も廃城となり、短期間で終わります。元和3年(1617)伊予国大洲城に移り、左近大夫と名を改め、同9年5月に歿した(城址案内板)

一説によれば、貞泰が長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納城が浸水したと、加納藩主奥平信昌の正室・亀姫が実父・徳川家康に訴えたため、黒野藩は廃藩となったと言われています。

城跡は本丸部分が城址公園として住宅地の中にある。近世の城跡であるが、土塁や堀が良好に残っている。(城跡石碑)
 


黒野城跡地は岐阜市史跡に指定されていて、公園として整備されていました。本丸跡地にはグラウンドとなっていて、水堀、高さ5mの土塁、城門の礎石などが残っていました。 



城跡公園として整備されていますが、曲輪内は野球場になっていました。周囲に、堀と土塁がよく残っていて、かなり見応えがあります。思わず土塁上をぐるりと一周して、堀と土塁を堪能しました♪また、公園から北へ約300mにある「多賀神社」の北側には、東西400m程の堀跡があります(多賀神社北西約200mにある熊野神社南付近から東へ約400m続く)。また、この堀跡の東端から水路になった付近の南側には土塁もあります(「超勝寺」から北西約100m)

県道77号「正木」信号を西へと県道78号に入り、伊自良川を「繰船橋」で渡り、1.5km程西進すると、右手に「KVK」工場があります。この工場を過ぎてすぐの路地を右折すると、右手に黒野城があります。城跡の西側から入ることになりますが、入ってすぐの城址碑付近に駐車可能です。あまり知られていない城を探し当てる…こんなに楽しい事はありません。   

Posted by きくいち at 12:47Comments(0)趣味

2012年08月21日

夏の行事、恒例のスッポン供養祭

「すっぽん」の特産地が浜松であることはあまり知られていないかもしれませんが実は、全国の約6割のすっぽんが、浜松産なんです。そんなすっぽんに、日頃の感謝の意を捧げようと、毎年8月に浜松中央料理組合の主催で「すっぽん供養祭」が行なわれます。
今年で36回目…昨日、佐鳴湖西岸にある供養碑前で恒例の供養祭が行なわれました。



供養碑の下のところにある2匹のすっぽんが、かわいいですよニコニコ

浜名湖のすっぽんは、明治33年、浜名湖畔の舞阪町で 日本最初に服部倉治郎氏がうなぎと共に養殖したのが始まりです。浜名湖の温暖な気候、そして美しい自然環境のもと、できるかぎり天然に近い状態で 2~4 年という長い年月をかけて育てたものです。

すっぽん一筋の長い経験と実績から、シェア日本一を誇る浜名湖のこだわりのすっぽんは、京都、東京の高級老舗料亭で、その上質な味で高い評価うけています。 



臨光寺住職による読経に続き焼香。
浜松料理協同組合組合員、調理師、すっぽん生産者などおよそ30名が参加し、焼香しました。



すっぽんの放流…参加者の掛け声と共に、元気なすっぽんが佐鳴湖へいっせいに放たれました。

すっぽんは、冬、冬眠をしますが、温水下で育てれば冬眠をせず、短期間に大きく育てることができるようですが、あえて自然環境に近い路地池で飼育すると、3年、4年と冬眠を重ねることによって、500g~1000gくらいに育った、よく締まって味のよいすっぽんに育つのだそうです。



地元、すっぽん生産者の社長による乾杯の発声で懇親会。

100年を超える歴史と技術…「良質な脂肪とすっきりした風味」を持った服部中村養鼈場のすっぽんは、長い歴史のなかで培われた技術で、本場の高級料理店で高い評価を受け、日本でトップシェアとトップブランドになっています。(すっぽんのエサも、上質なものを厳選…秘伝のエサを、特注しているほどのこだわりがあるそうです)

日頃、当たり前のように食べ物を口にしていますが、私たちは何時も、沢山の命を頂いているんです。そんな生物に感謝の気持ちを感じてみてはいかがでしょうか…?
  

Posted by きくいち at 05:42Comments(0)大将

2012年08月20日

2012年9月(長月)コース

旧暦の9月を長月と呼びますが、長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力で他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説や、「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説があるようです。また、寝覚月(ねざめつき)紅葉月(もみぢづき)菊月(きくづき)の別名もあるようです。 
 
台風襲来、秋の長雨と天候が変わりやすい頃。月はじめは残暑が残りますが、秋分を迎えると昼よりも夜が長くなり、秋が深まります。行事も多く、第3月曜日の「敬老の日」は、高齢者を敬愛し長寿をお祝いします。その他にも、重陽(旧暦9月9日の節句で、「菊の節句」とも呼ばれました)、十五夜(旧暦8月15日の月を「十五夜」、「中秋の名月」といいます。新暦では9月の半ばから10月の初め頃になります)、二百十日、秋分の日、彼岸なども…。
 
二百十日・二百二十日…立春から数えて210日目を「二百十日(にひゃくとおか)」、220日目を「二百二十日(にひゃくはつか)」といって、旧暦8月1日の「八朔(はっさく)」とともに、古くから台風に見舞われることが多い農業の厄日とされてきました。この頃は、ちょうど「八十八の手間をかけて」育ててきた稲の開花の時期に当たり、秋の実りを間近に控えての暴風雨は、稲をはじめ農作物の収穫の大敵でした。統計上も、大きな台風は二百十日から9月下旬に襲来することが多くなっています。古来、各地で二百十日、二百二十日の風を鎮め、五穀の豊穣を祈る「風鎮めの祭り」や「風の盆」が行われています。
 
食材も豊富に揃いだし魚介類では、秋刀魚、鮭、鯖、カマスなど、野菜、果実も、秋茄子、薩摩芋、里芋、無花果、葡萄、栗、そして菓子は月見団子、おはぎ(彼岸)と食欲の秋です。

そんな9月の献立はサザエ、松茸、秋鱧(ハモ)、鰻、秋茄子、無花果、鯛など旬の食材を楽しむコースに仕上げました。秋の訪れを存分に味わえる内容となっています、〆の本格握りと共にお愉しみ下さい。

【5000円コース】


・サザエのつぼ焼き、もしくはお刺身
・松茸と秋鱧(ハモ)の土瓶蒸し
・鰻と秋茄子の玉子とじ
・無花果(イチジク)の天ぷら和牛のたたき
・鯛の丹波蒸し
・職人が握る 選べる握り6貫 
・稲取産伊勢海老のお味噌汁
・デザート


【4000円コース】


・サザエのつぼ焼き、もしくはrお刺身 
・松茸と三河地鶏の土瓶蒸し
・鴨と秋茄子のすき焼き
・ずわい蟹と茸の朴葉焼き
・職人が握る 選べる握り6貫
・伊豆稲取産伊勢海老のお味噌汁
・デザート


【3000円コース】

 
・サザエのつぼ焼き
・鰻と秋茄子の玉子とじ 
・土瓶蒸し
・茸の天婦羅
・日替り寿司屋のまかない丼
・汁物


各種、ご宴会にご利用下さい。
(飲み放題は+1500円(90分)+2000円(120分)とご用意しています)

  

Posted by きくいち at 08:54Comments(0)コース料理

2012年08月19日

三大素麺の一つ…讃岐そうめん

夏になると食べたくなるのが「そうめん」と「ひやむぎ」です。
ただ両方とも同じような気がして…何が違うんでしょうか…?
料理方法の違いなのかな?と思いましたが…。

小麦粉を練って縒りを掛けながら引き延ばしたものが「索麺」と呼ばれる「素麺」の起源です。(古代中国の文献に度々出てくる「索餅」が日本に伝わったものとする説が有力らしくその他の説として、南北朝時代に元から禅僧の往来や貿易によって「索麺」が伝えられたものという説もあるそうです)
素麺(そうめん)は、索麺(さくめん)の音変化で、塩水でこねた小麦粉に植物油を塗り、細く引き伸ばして、日に干した麺です。茹でて冷水にさらし、つけ汁で食べます。煮たものは煮麺(にゆうめん)と言います。

これに対し冷麦(ひやむぎ)は、細打ちにしたうどんを水や氷で冷やし、汁をつけて食べるもので、冷し麦とも言います。「ソバ切り」に対して「切り麦」と呼ばれたのが、今で言う「うどん」で、それを熱くして食べるのが「熱麦)」、冷たくして食べるのが「冷麦」です。冷麦は油を使わない切り麺というのが通説ですが、「手延べ素麺」と同様に油を塗りながら縒りを掛けて引き延ばす方法で作る「手延べ冷麦」もあります。また、富山の「大門素麺」のように、油を使わない手延べ素麺もあり秋田の「稲庭うどん」や宮城の「白石温麺」も、基本的には同じ種類です。

このように、ルーツも歴史も全く違うのですが、油を使わないで素麺が作られたことから、現在は「太さの違い」だけになってしまったようです。JAS(日本農林規格)によると、素麺は丸棒状で太さ0.8ミリ~1.3ミリ、角棒状では0.7ミリ~1.2ミリ。冷麦のほうは、丸棒状で1.3ミリ~1.7ミリ、角棒状で1.2ミリ~1.7ミリと決められていて、これ以上太いのが「うどん」と総称されているようです。

素麺は日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされていて、奈良時代に唐から伝来した唐菓子の一つ、索餅(和名で「麦縄」とも書く事もある)に由来したと言われています。また室町時代は、茄でて洗ってから蒸して温める食べ方が主流で、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれていたようです。さらに、江戸時代には、七夕に素麺を供え物とする習俗が広まったようで、これは、細く長い素麺を糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものだと言われています。



日本国内では近世より西日本を中心に素麺生産が盛んだったようですが、これは原料となる小麦、水(軟水)、食塩(海水塩)の産地が近かったことが一つの理由ではないでしょうか…?

「日本三大そうめん」といえば、①播州素麺(兵庫県)、②三輪素麺(奈良県)、③小豆島(香川県)と言われていますが。三輪素麺は、最も「素麺つくり」の歴史が長く全国に分布する素麺産地の源流でもあり、全国の素麺の相場は、三輪で決められていたようです。(私的には奈良の三輪素麺、兵庫の揖保乃糸、小豆島の島の光が好きな順番です)

讃岐うどんと比べると陰が薄いですが、讃岐の素麺は、実は日本三大素麺のひとつなのです。
まるで絹糸のような のどごし。夏の涼味の代表格・讃岐そうめん

播州素麺…主産地は兵庫県たつの市、宍粟市、姫路市など。現在、日本国内1位の生産高を誇る。播磨地方の良質の小麦、揖保川の清流、赤穂の塩など原料に恵まれていたことから素麺作りが盛んになったと云わっています。(ブランドは揖保乃糸)

三輪素麺…奈良県桜井市三輪地区。最も素麺作りの歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流は殆どが三輪からであり、古く素麺の相場は三輪で決められていました。(かつては綿花の産地に近かったため、綿実油を使って延ばすのが特徴です)

小豆島手延べ素麺…香川県小豆島が産地。酸化しにくい胡麻油を使って延ばす。島の光、瀬戸の風などのブランドがあります。 

その他の素麺産地…   続きを読む

Posted by きくいち at 10:37Comments(0)大将

2012年08月18日

全国で20余店しかない特約店でのみ販売されている焼酎

50年位、前までの日本では一般の人が飲む酒は日本酒で、どちらかと言うと焼酎は労働者が飲む酒だったものです。ところが、健康に良いなどの理由から、鹿児島や宮崎から焼酎が北上し、今や日本酒より焼酎が好まれるようになり、ホテルのバーや高級クラブでも、注文すれば焼酎を出してくれます。

焼酎メーカーも高級化を目指し、「森伊蔵」「村尾」などネットで買えば1本数万円の、ブランド焼酎も販売されています。日本酒と違い後発であるだけに、ネーミングも一工夫されたものが多く、「百年の孤独」「明るい農村」など、ラベルも多様で見ていても楽しいものが多くあります。

ヘミングウェイの名作は、「日はまた昇る」。これは、「日は昇る」で「また」がありません。
一日にいろんなことがあっても、翌日はやってくる、ということが「日はまた昇る」ということのようですが、気持ちがゴタゴタしている時に飲んでホッとするの、そんなお酒が入荷しました。



日は昇るのネーミング由来は…緑豊かな里山の地にある祁答院蒸溜所。その美しい自然を照らす、大きな、大きな朝日。蔵人たちの情熱と、明るい未来を表現されています。

正統派黒麹の味でボディがしっかりしてます。黒麹もすべて機械に頼らない、蔵人さんの心のこもった焼酎だからこその手造り焼酎です。手造り焼酎の為、あまり数が作れず、全国で20余店しかない特約店でのみ販売されている焼酎なのです。

「日は昇る」は、同じラベルで、芋と麦があり小さく「芋」と「麦」とかは、書いてありますけど、私的には芋が特にお勧めです。

黒手造 日は昇る
原材料:さつまいも(鹿児島県産 黄金千貫)米麹(国産米)
  麹  :手造り黒麹
仕 込 :かめ壷仕込み
蒸 留 :常圧蒸留
度 数 :25度

手間ひまかけて作った焼酎だからこその「手造り焼酎」です。
焼酎造りの中でも重要な役割を担う麹。古くから行われている、もろ蓋(ぶた)による手造り麹づくり。機械に頼らない手作業で、非常に細かな調整が必要なため、たくさん造るのには向きませんが、少量高品質の焼酎造りには欠かせません。

飲み口も、飲んだ瞬間にフワッと来る良い香り。そしてついつい「もう一杯」となってします。後味も最高です。個人的に、まずはネーミングに引かれ!飲んでみて、またこの味の虜になりました。焼酎のイメージを覆すほどのこんな焼酎があるのかと…。

普段まったく焼酎を飲まなかった、お客さんも一緒に飲みましたが、まずは「これ美味しい」の一言でした。そして、グイグイと飲んじいました。(焼酎には飲む瞬間などにツンっとくるイメージがあったそうですが…)このように、普段は焼酎を飲まない方にも是非一度飲んで頂きたい焼酎ですし、勿論焼酎やお酒が大好きな方にも是非飲んで頂きたい焼酎です。

祁答院酒造さんの新製品、「日は昇る」です。ついつい飲んでしまうほど、飲み口もスッキリ、そして後味も最高…是非一度ご賞味下さい。

日は昇る(限定流通品)の特徴…    続きを読む

Posted by きくいち at 10:05Comments(0)

2012年08月17日

★チャイナドレス★

お客様から、神戸のお土産で、★チャイナドレス★、頂きました…。
それが、最初に頂いた時は、実はサイズ小さくて、入らなかったんです…
まぁ、すいません!
こんな私が、無謀だったかなぁ〜
と思いながら…

正直に、お客様に伝えました。
頂いたのに、申し訳ないと思って…

そしたら、嬉しい事に、交換してもらうから、大丈夫だよ…と…




お客様は、旅行で行ったにも関わらず、たぶん、お店にかけて、聞いてくれたんですよね〜
ありがとうございます(^^ゞ

実は、★チャイナドレス★着るの夢だったんです☆
もう少し、スレンダーな若い頃に一度、着とけばと思っていたんです!


この度、頂けて、私の宝物の1つに入りました!!


〈新米女将〉
  

Posted by きくいち at 13:02Comments(0)新米女将

2012年08月17日

戦国末期まで土岐氏の本城(美濃 川手城)

加納城から南東に徒歩で10分ほどの所に、土岐氏の本城川手城址があると聞き探してみました。済美女子高校の敷地一帯が川手城跡で校舎とグランドに挟まれた一角に、石碑と案内板がありました。

 

美濃の守護職土岐氏の居城は、今では何も残っていずこれも栄華盛衰の証拠でしょうか…?



室町時代に美濃の守護となった土岐頼康が築城し、以後戦国末期まで土岐氏の本城であっとようです。天文元年、土岐政頼は鷺山城主土岐頼芸に攻められ、政頼は越前へ退散します。替わって守護の座に着いた頼芸も斎藤道三によって追われてしまい、道三が美濃の国主とりました。道三が国主となると、美濃の本城は川手城から稲葉山城(岐阜城)へと移ったのです。
 


【革手城の由来】

美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族です。なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地土岐に土着し、土岐氏と名を改め、現瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祭ます。そして、美濃国守護(1189)となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となります。
光衡の子光行は、源実朝に仕え池田親九郎追討の軍功(1216)をあげ左衛門尉となり、土岐市浅野に住み東美濃を統一します。その子光定は、土岐惣領を継ぎ土岐市浅野に住み、執権北条貞時の娘を妻にして、隠岐守となり土岐氏隆盛の基となるのです。

土岐中興の祖となる土岐頼貞は、光定の子、母は北条貞時の女で執権北条高時の兄妹、土岐惣領を継いだ頼貞は、文武に秀で人物豊かで、その子頼清や頼遠と共に、元弘の変(1333)に後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げました。
その後、建武新政の不満に兵を挙げた足利尊氏に従い数多くの軍功「土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」と信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、現瑞浪市一日市場、現土岐市大富にその居館を構え、11代続く守護職の初代となるのです。

第2代守護土岐頼遠は、父頼貞と共に足利尊氏に従って数々の軍功、現土岐市大富に住みしが、辺地なればと現岐阜市南長森に長森城を築き居住しますが、頼遠は功に募りて驕慢、1342年持明院(後光厳上皇)に無礼を働き断罪されます。

第3代守護土岐頼康は、土岐頼遠の後を継いで土岐惣領となり、足利尊氏の命により信州(信濃)・予州(伊予)の平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の3カ国の守護職となります。長森城は狭く1353年6月、現岐阜市下川手に革手城を築きここに移るのです。

別名革手府…土岐源氏の名声と実力は最高に至った。
この城は、旧木曽川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推察される。以後、革手城は11代まで歴代の守護職となる。 

革手城が都風となって繁栄したのは、建武の新政の失敗と応仁の乱である。
都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を頼って寄宿したことにある。
これらの人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の土岐氏(革手)である。これらの人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など、都文化の花を咲かせた。
当時革手付近は「柳に桜をこきまぜて」錦を飾る京洛中の態に異ならざる盛んな有り様であった。
こうして築かれた革手府文化は、1494年の船田の乱によって3日3晩燃え続ける戦乱によって灰塵となった。
斎藤道三は岐阜城に本拠をもち革手城は廃城となる。

その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなった。
当地は、城域のほぼ北隅の地と推察している。
以後、約400年間、あちこちの集落に残された宮後は、鎮守の森として村の善男善女に守られ受け継がれてきた。明治時代以降、現神明神社に合社(9社)されている。(現地説明板より)
  

Posted by きくいち at 09:07Comments(0)趣味

2012年08月16日

もうひとつの岐阜城(美濃 加納城)

岐阜には二つの岐阜城があります。 一つは、斎藤道三や織田信長の居城として有名な金華山に築かれた岐阜城。もう一つの岐阜城が、市街地にある平城の加納城です。
加納城が江戸時代を通じて、岐阜の中心だったのです。 

 

現在は、本の丸周囲の堀跡も含めて公園として整備されていて、石垣も良く残されています。 二の丸には、岐阜城から移築された御三階櫓(天守)が建てられていたようですが、今では現在完全に市街地化していて、跡形もありません。 



岐阜公園(岐阜城)にある歴史博物館に、加納城の資料や城全域の復元模型などが展示されていますから、博物館を先に訪れてから、加納城へ行くことをお奨めします。 



徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌を加納城主として10万石を与え、また亀姫の粧田として2千石を給しました。築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築し、本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪うまやぐるわ、南曲輪(大薮曲輪おおやぶぐるわ)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭だったようです。
加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎え明治2年加納城第16代城主、永井肥前守尚服(なおこと)が版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至ります。岐阜市教育委員会(説明板より)

加納城跡本丸の石垣


岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。
石垣の角の部分は算木積(さんぎずみ)という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めています。これほど良好に近世初頭の石垣が現存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。岐阜市教育委員会(説明板より)



現在本丸跡を中心に加納公園となっています。
本丸内はとても広くて、芝生もあって市民の散策の場所となっています。
 
城下町は加納城の北から西にかけて造られました。町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11(1634)年には「加納宿」が設置され、城下町と宿場町が一つになり岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道、御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもありました。町の北西部と南西部に寺社が集中して置かれ、城の北と西側一帯、北の町外れにも武家屋敷があり美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、宝暦年代(1760年頃)、当時の藩主永井氏が財政の助けとするため奨励し、武士と町民の分業作業として発展しました。明治以後も加納の伝統産業として受け継がれてきています。(説明板より)  
 


今は埋め立てられた堀跡は駐車場やグラウンドになっています。
加納城の土塁の高さは4~5mはあるのでしょうか…?土塁上は登れるようになっていますが、相当の高さがありました。昭和58年に本丸が国の指定史跡になってから、発掘調査が行なわれ、江戸時代の加納城の地面の下に、戦国時代の加納城の土塁が埋もれているのが確認されたそうです。
本丸の堀の底には堀障子と呼ばれる畝状の仕切りがあったことも分りました。



加納城は徳川家康がの関ヶ原合戦の直後、築城を命じた城です。北から南へ5つの曲輪(三の丸・厩曲輪、二の丸、本丸、大藪曲輪)があり、堀と川に囲まれ、水に浮かぶ城と言う景観でした。
石垣などは関ヶ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。明治維新の後、建物はすべて取り壊され、堀も埋められて現在では本丸の石垣と土塁、二の丸や三の丸の北側石垣や、三の丸北東部分に当時を偲ぶ事が出来ます。

近世城郭の名残が石垣に今も残っているお城…加納城(国史跡、岐阜県岐阜市加納丸之内・加納公園…無料駐車場を利用)岐阜の城を愉しみました…ニコニコまた、加納城から徒歩10分ほどの所に、土岐氏の本城川手城址がありそちらも探訪しましたナイス

加納城の歴史…    続きを読む

Posted by きくいち at 08:49Comments(0)趣味

2012年08月15日

オリンピック、暑い夏が終わり、早くも正月商戦

暑い夜が続いたロンドンオリンピックも終わり、皆さんは盆休み、ゆっくり過ごしていますか…?
まだまだ、暑い毎日ですが連休が終ると、少しずつ日に日に秋を感じ出すのではないでしょうか…?



オリンピックでの日本の獲得メダルは金7、銀14、銅17の計38個で総数では史上最多となり盛り上がりました。(ただ金は北京五輪の9個より少なく物足りなかったけど、健闘と言える大会だったのでは…?)

序盤は期待された柔道などの競技が振るわず、開幕後しばらくはテレビを見ていてもストレスで…(ジュリーによる判定の賛否やバトミントン女子の不可解な無気力試合)体操の男子団体総合も、ミスが続いて中国と勝負できなかったのが残念でしたが、個人総合で日本勢28年ぶりの頂点に立った内村航平はさすがで、今大会で金メダルを本当に計算できた数少ない選手ではなかったのでは…。

競泳は若い選手の台頭に男女団体のメドレーとメダル11個は上々の結果でした。ただ個人的には北島康介が個人種目でメダルを取れなかったことが印象に残りましたが…。

日本勢が史上初めてメダルを取った競技、数十年ぶりで表彰台に立った競技も多くありました。日本中が注目したサッカー女子は言うまでもなく、重量挙げ女子、卓球女子、バドミントン女子、アーチェリー女子が初のメダルを獲得し女子バレーも28年ぶりのメダルに、そしてレスリングは3連覇を達成した女子の吉田沙保里、伊調馨ら金メダル4個(男子を含め)。後半戦を大いに盛り上げました。フェンシング、ボクシングなどマイナー競技が脚光を浴びたのも良かったと思います。

こうしてみると今回のオリンピックは女子力を感じた大会だった気がします。そして多くの選手が口にした家族の支えと絆…。スポーツを観戦し改めて身に沁みる思いがしました。

早いもので、夏が終われば、直に秋風が吹きそして冬…。もうそんな事をと、お思いでしょうが業界では(百貨店)早くも正月の準備…来年の迎春料理の企画です。

前回の「手巻きおせち」を少し分かりやすくリーズナブルにした新春手巻きファミリーセットを今回は販売しようと思います。まだ試作段階ですが一足先にご紹介します。(女性、家族を意識した商品内容です。絆を深めるには持って来いでは…)

 

商品の完成、広告の写真撮り等が終わりましたらまた改めて商品を紹介させて頂きます。価格も今回はお手頃な1万円前後で販売するつもりですので、その際は是非、多数のご注文を宜しくお願い致します。
    

Posted by きくいち at 09:16Comments(0)遠鉄きくいち

2012年08月14日

斉藤道三、織田信長ゆかりの城

あれだけ来ていた岐阜も10数年ぶり…当然岐阜城もそれ以来です。過去に何度となく登城しているのですが険しい山頂に築かれた岐阜城を仰ぎ見ると、当時信長が理想としていた城が、こうした峻険な山城ではなかったかという思いに駆られます。 


再建された岐阜城天守閣(模擬)

岐阜城(別名)稲葉山城。遺構等:模擬天守、石塁、天守台、櫓跡
現状:公園。 築城年:建仁元年(1201)
築城者:二階堂行政。 
歴代城主。二階堂、斉藤、織田、池田、織田
形式…山城岐阜城は美濃平野を一望する金華山(標高336m)の山頂に築かれています。この金華山、遠くからみるとなだらかな山容をしているが、麓に立つとそそり立つ壁のような山です。


 
領土拡大、天下統一への夢が進むにつれて、京に近い比高100mほどの安土山に居城を移した信長が、居城の比高が次々に低くなっていく現実との狭間で、安土城をなんとか岐阜城に近づけようとした結果が、総石垣の安土城ではなかったのか…?


古い時代の石積み
天守台、新しく積まれた石垣の下に当時の石垣が今も残っています。
(石垣の色が違うので直ぐに判ります)

金華山へはロープウェーを利用すれば簡単に上れますが、峻険な金華山を体感する意味で、時間があれば、是非とも歩いて登りたい…。



山頂へは馬の背道で登れば約20分程度、瞑想の小道からで30~40分分程度で登ることができます。その他、ルートとしては、百曲道,七曲道などがあります。 

見どころ…織田信長は、稲葉山城と呼ばれ斎藤道三の居城でもあったこの城を攻め落とし、岐阜城と改称して居城としました。この時から、信長の天下統一の夢に向けて、一歩踏み出したのです。



岐阜公園となっている岐阜城は、山麓部に築かれた信長の「居館」と金華山山頂の「城」と2つのエリアに別れています。
信長の居館は、現在冠木門と虎口の土塁が復元されていて、山麓の一段高くなった千畳敷には、かつてポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが紹介した楼閣(信長の住居)が建てられていました。


山麓にある信長の居館跡

ロープウェーでも登れる山頂の城には、三層の天守(復興)と模擬隅櫓が何れも観光用に建てられいて、よく見ると山頂部のいたるところで岐阜城の遺構を見ることができます。(石垣等…)  
岐阜公園内の歴史博物館には、加納城の模型や信長の居館が詳しくビデオなどで展示されています。 



岐阜城は、建仁元年(1201年)に二階堂行政が稲葉山の頂上に築いたことから、 当初は稲葉城と呼ばれていました。戦国時代には、斉藤道三が居城していましたが、 永禄10年(1567年)、織田信長が侵略したことで稲葉城は現在の岐阜城となりました。

  

現在の岐阜城は、昭和31年(1956年)に復興されたもので 城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれています。



下には長良川、北には乗鞍や日本アルプス、西には伊吹の山並、南には濃尾平野、東には恵那山と 壮大な自然が一望できます。 また、夏の夜間営業では、パノラマ夜景も楽しめます。



岐阜城のすぐ東にある「岐阜城資料館」は昔の武器庫、 食料庫を復元したもので、岐阜城に関連する資料を多数展示しています。
  
  

城郭の歴史
金華山(当時稲葉山)に城砦が築かれたのは、二階堂行政が建仁元年(1201)砦を築いたのがはじめです。15世紀中頃(室町時代)には川手城を居城とした美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏が居城しましが、大永5年(1525)斎藤氏の家臣・長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を支配しました。

天文2年(1533)、長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三山…城山崎の油売りから身を起こした)が城主となました。道三は、土岐頼芸を追放して、美濃一国を手に入れますが、息子の義龍と争い討ち死にしてしまうのです。その義龍も急死、道三の孫龍興が城主となりますが、永禄3年(1560)、桶狭間で今川義元を破った織田信長は西美濃に進出し、永禄10年(1567)美濃三人衆の内応もあって、稲葉山城を攻略。井ノ口と呼ばれていた地名を岐阜と改め、居城を小牧城から岐阜城に移します。

天正3年(1575)、信長は岐阜城を長男・信忠に譲り、自らは翌4年に安土城に移ります。
天正10年(1582)、信長、信忠父子が本能寺の変で自刃した後、岐阜城には信長の三男・信孝が入城しますが、天正11年(1583)信長の跡目争いの賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた信孝は野間・安養寺で自害させられ、その後岐阜城には、池田之助・輝政・羽柴秀勝・織田秀信が城主となります。

文禄元年(1592)、豊臣秀吉の計らいで、織田信忠の子で、信長の孫にあたる秀信(幼名を三法師丸)が岐阜城主となり、慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の際、秀信は西軍に属したが、東軍に攻められて岐阜城は落城。秀信は高野山に送られて同地で死去しました。

慶長6年(1601年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させ、その際、岐阜城の天守や櫓などは加納城に移されました。

明治43年になって模擬天守閣が建てられたが、昭和18年に火災で焼失。現在の天守閣は昭和31年に再建されたものです。
  

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2012年08月13日

長良川鵜飼…風雅1300年 今に伝える感動絵巻

先週、お客さんに誘われ長良川の鵜飼に行って来ました。ゴルフを始めた30代の頃は毎年のように、伊豆と岐阜の遠征ゴルフでよく訪れたのですが、その頃は観光はほとんどせず、旅館から長良川の鵜飼を見る程度でした。今回をゆっくり温泉に入り、観光(城廻)と鵜飼を愉しみました。


 
戦国のロマンを今も感じさせる金華山と山頂にそびえる岐阜城を背景に、名水100選に選定されている清流長良川で長良川鵜飼は行われています。漆黒の闇の中、赤々と燃える篝火を川面に映し、鵜匠と鵜が一体となって繰り広げる古典漁法鵜飼は、現在を忘れ千古の昔にタイムスリップしたような幽玄の世界へと誘います。



鵜飼は鵜匠が鵜をあやつり魚を捕える漁法で、およそ1300年の歴史があり、時の権力者たちに保護されてきました。織田信長は鵜匠という地位を与え鵜飼を保護したと言われており、徳川家康はたびたび岐阜を訪れ鵜飼を見物、保護し、岐阜でつくらせた鮎鮨を江戸まで運ばせました。
また、鵜飼は多くの文化人にも愛され、松尾芭蕉は岐阜を訪れた際、鵜飼を見物し「おもうしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という句を残したほか、名優チャールズ・チャップリンは2度鵜飼見物に訪れ、すばらしいと絶賛したと言われています。



長良川の鵜匠は6人で正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といい、代々世襲で親から子へとその技が受け継がれています。 長良川の鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財に、長良川鵜飼漁は岐阜県重要無形民俗文化財に指定されています。鵜匠が鵜をはげます「ホウホウ」という掛け声や舟べりをたたく音が日本の音風景百選に選ばれています。


  
長良川の鵜飼は、毎年5月11日に行われる鵜飼開きに始まり、10月15日まで、中秋の名月と増水時を除く毎夜行われる岐阜の夏の風物詩です。 その歴史は古く、1300年もの歴史をもち、日本書紀や古事記にも記されています。 鵜飼の始まりは、水鳥の魚を獲る本能を利用して魚を捕る「漁」として行われてきました。



夏の夜の長良川にたいまつの火を灯して浮かび上がる舟。
伝統衣装に身を包んだ鵜匠が舟と鵜を自在に操り鮎を捕る幻想的な姿は、まさに生きた芸術です。
その美しさは、あの織田信長や、徳川家康、松尾芭蕉などからも絶賛され、時の権力者からの保護を受けて、現代まで守り抜かれてきた伝統文化なのです。



スケジュール…1.受付。2.鵜飼説明 - 鵜飼観覧船のりばにて鵜匠による鵜飼の説明。3.乗船。4.出船。5.停泊 - 川岸に停泊し鵜飼が始まるまで食事、トイレ等。6.鵜飼 - 鵜飼を開始する合図の花火が上がり鵜飼開始。7.狩り下り - 観覧船と鵜舟が併走し川を下る。8.(総がらみ) - 6隻の鵜舟が横隊になり、浅瀬に鮎を追い込んで巻き狩りする漁法。(納涼鵜飼日のみ実施)9.下船



観覧船に乗船し、鵜飼観覧ポイントへ向かいます。その後、鵜飼が始まるまで食事などを楽しみます。



日が落ち、辺りが暗くなってきました。まもなく19:45頃から、4発の花火の合図とともに鵜飼が始まります。



夜の長良川に浮かび上がるたいまつの灯りと鵜匠の技で、幻想的な世界に包まれます。

 

…ウミウ・カワウ・ヒメウなど、ウ科の水鳥の総称で、色は黒く、体長は80cm~90cm、カモよりも大きいです。鵜飼には、海鵜が用いられます。鵜匠と生活を共にし、2、3年の訓練を経て、1人前の鵜に育てられます。



鵜舟…全長約13mある鵜舟には、先頭に10~12羽の鵜を同時に操る鵜匠、その後ろには助手としてサポートするなか乗りと、舟を操る責任者のとも乗りの計3人が乗っています。
 
鵜匠…長良川の鵜匠は、日本で唯一、宮内庁式部職鵜匠の地位を授けられています。みなさん国家公務員ということになるんですね。現在岐阜市には、6人の鵜匠がおり、世襲制でその技と伝統が受け継がれています。
①風折烏帽子(かざおりえぼし)…かがり火から頭髪を守ります。
②漁服…黒または紺色の木綿でできています。
③胸あて…火の粉や松ヤニの油をよけます。
④腰蓑(こしみの)…ワラ製で防水・防寒の役割をします。
⑤足半(あしなか)…普通のワラジの半分の長さ。魚の脂などで滑らないようになっています。

 

鵜鮎…鵜が捕った鮎は歯形の鮎といわれ、鵜のくちばしの痕が付いている。くちばしで鮎を瞬殺するため新鮮で美味しいといわれています。この鮎は通常市場では出回ることのない貴重で高価なものだが、観光旅館やホテルによっては鵜匠と契約し鵜鮎を賞味できる所もあります。

 
長良橋の上流付近で行われる観光のための鵜飼は、篝火を焚いた鵜舟がゆっくりと現れ、鵜が鮎を捕らえる様子を観覧船から眺める事が出来きます。御手洗船や花火や飲み物などを売る売店船もあり、岸に上がることなく鵜飼を楽しむ事ができました。(乗船前には乗船場にて鵜匠による鵜飼の説明が行われ、6隻の鵜舟が観覧舟の前を往復し総がらみも行われました)



鵜飼開き…毎年5月11日は鵜飼開きだそうです。シーズン中の鵜飼の安全と繁栄を祈願する神事である鵜飼安全祈願祭が行われた後、太鼓の演奏に見送られて次々と観覧船が川へと漕ぎ出して行くようで、市民参加の各種イベントが行われ、この日も芸妓による踊り船の運航や花火の打ち上げなどが行われました。

鵜飼は、中国、日本などで行われている漁業の方法で、日本では鵜飼いは様式化して残ったため、捕る魚はほぼ鮎のみですが、中国では一般漁法として存続しているため、鵜が捕れる大きさのありとあらゆる魚を捕るそうです。また、ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間、スポーツとして行われたようです。(ヨーロッパの鵜飼いはあくまで貴族のものだった)

このように鵜飼は長良川のほかに、木曽川(愛知、犬山)、宇治川(京都)、有田川(和歌山)や愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所で行われている漁法ですから、皆さんも機会があったら是非、伝統的な文化に触れ合ってみてはいかがでしょうか…?。  

御料鵜飼…   続きを読む

Posted by きくいち at 09:52Comments(0)大将

2012年08月12日

香草・薬草系の代表的なリキュール

カンパリは様々なハーブやスパイス(香草・薬草系)を使ったちょっとビター(苦味)なイタリア生まれの赤い宝石のように美しい色合いとほろ苦さに酔いしれる、大人のリキュールです。

イタリアのアペリチフ用ビタース(苦味剤の意で、苦みと芳香をもつリキュールの一種)のひとつで、ルビーのような赤色が美しく、快い苦みとさわやかな口当たりのため、カクテルなどに用いられます。(開発者のガスパーレ=カンパリの名にちなんでいる)
アペリチフ …食欲をそそるため食前に軽く飲む酒。シェリー・ベルモット・マデイラ酒などの食前酒。



カンパリはイタリア・ミラノ産で主原料は、ビター・オレンジ・ピール、これにキャラウェイ、コリアンダー、カルダモンなどを加え、カンパリ社で精溜したグレーンスピリッツに成分を抽出し、シロップで味を整えます。
グレーンスピリッツ…トウモロコシなどの穀類を原料に、酵素剤(麦芽や糖化酵素)を用いて糖化・発酵させ、連続式蒸溜機でアルコール濃度95%以上に蒸溜したもの。(グレーンウイスキーは95%未満)
  
イタリアのトリノでバーテンダーをしていたガスパーレ・カンパリが開発し、1860年、当時の流行に乗って「ビッテル・アルーソ・ドランディア」(オランダ風苦味酒)と名付けて売り出しそうです。その後息子のダヴィデ・カンパリが「カンパリ」と名前を変え現在の製造元はダヴィデ・カンパリ社です。(なお、カンパリ社は、ヴェルモットのチンザノ、ウオツカのSKYYなどを傘下におさめる、酒造業界の一大グループとなっています)

カンパリの製法は明らかではありませんが、ビター・オレンジ、キャラウェイ、コリアンダー、リンドウの根など、60種類にのぼる材料が使われていると言われリキュールの中ではビター系リキュールに入ります。鮮やかな赤い色と苦味を特徴としていて、通常何かで割って飲んだり、カクテルのベースとして使われることが多く、ストレートでも飲むことができます。(イタリアでは白ワインと1:1で割って飲むことが多いようです)液色は赤く、アルコール度数は24度、エキス分は19%。イタリアで生産されイタリア語で「苦い」を意味する語が「アマロ」なので、アマロ系のリキュールなどと言われることもあるようです。
 
カンパリを使ったカクテル(カクテルは、ベース(基酒)となる酒に、他の酒またはジュースなどを混ぜて作るアルコール飲料のことで混酒です)
カンパリは、カンパリ・ソーダ、カンパリ・オレンジのように、何かで単に割るだけでも特徴的な味になる。苦味が爽やかなので夏向きとされる。カンパリを使ったカクテルには、ロング・ドリンクとショート・ドリンクの両方が存在します。

ロング・ドリンク…カクテルの中でも比較的長い時間をかけてのんびりと飲むことに適したカクテル群の事を指します。(ロングドリンクにはホットドリンクと呼ばれる温かいカクテルも存在しています)
•カンパリ・オレンジ - カンパリをオレンジ・ジュースで割ったもの。
•カンパリ・グレープフルーツ - カンパリをグレープフルーツ・ジュースで割ったもの。
•カンパリ・ソーダ - カンパリを炭酸水で割ったもの。
•カンパリ・ビア - カンパリをビールで割ったもの。

ショート・ドリンク…カクテルの中でも短時間で飲み干すことに適したカクテル群のことを指します。一般にはアルコール度数が高く、量は少なめで大概はカクテル・グラスに注がれます。グラスは、カクテルの温度が上がってしまうのを防止するために、予め冷やしておくことが好ましいとされ短時間で飲むことを前提に作られている為、グラスに氷が入っていることはほとんど稀です。(入っていても非常に細かい氷(クラッシュド・アイスよりも細かい)がほとんどで冷たいうちに飲み切ってしまわないと、味が落ちてしまうとされています。特に氷が入っている場合は、どんどん水っぽくなってしまうため、冷たいうちに飲み干すことが薦められているようです)
•オールド・パル
•スカーレット・レディ
  

Posted by きくいち at 10:50Comments(0)