› きくいち日記 › 2015年04月

  

2015年04月30日

朝廷への貢ぎ物だった「なれすし」

「なれずし」は古代には朝廷への貢ぎ物として利用されていたようで、奈良時代には近江や若狭の国からアワビやイガイ、タイのすしが貢納された記録が残っています。

平安時代に入ると、この地以外にも西日本や東海の各地からアユ、フナ、サケ、アワビ、イガイなどいろいろの種類のなれずしを、それぞれ租税として納めるよう命じました。都に集められたすしは朝廷の貴人たちに分配されましたが、とても庶民の口に入るようなものではなかったのです。

しかし、なれずしを作る という行為のなかに、日本人が酸味を愛着する嗜好が横たわっていたことは見逃せません。


(写真はネット抜粋)

もともと東南アジアのメコンの平野部の稲作地帯で発明されたなれず しは淡水魚を使っていましたが、日本に伝わり海の魚や貝類も漬けられるようになりました。ここに握りずしのネタが豊富になる伏線があるのです。


  

Posted by きくいち at 14:22Comments(0)大将

2015年04月30日

★祭ワッペン(女将FBから)

【4月30日】
ワッペン10枚☆、5/2までに縫いつけます。



意外と大仕事です!いっぺんになんか、出来ないから、今から、コツコツ内職、始めます(*≧∀≦*)
でも、もっと、付けてる人、いますよね( ☆∀☆)
頑張るっ(/▽\)♪きゃない
  

Posted by きくいち at 13:30Comments(0)女将FB

2015年04月29日

★応援弁当(女将FBから)

【4月29日】
おはよ指輪キラキラ今日は、遠いグランドだから、
お弁当で応援☆☆☆
少し、お弁当箱☆、可愛い過ぎたかなぁ⁉



ちなみに息子は中3♪
まっ❗開けて、息子たちに笑ってもらおうかなぁ⤴っと、思って(;゜∇゜)
リラックス☆リラックス☆
眠くなってきたぁ《*≧∀≦》
少し、おやすみなさいzzz  

Posted by きくいち at 14:42Comments(0)女将FB

2015年04月29日

すしの原型

今日から少し、すしの歴史について紹介します。

すしの原型は、紀元前の東南アジア、東北タイやミャンマーあたりの平野部、水田地帯で、稲作とともに成立した魚の保存食であろう というのが、いまの定説になっています。それが中国に伝わり、稲作文化とともに、日本に伝来したのではないかと言われています。

日本のもっとも古い文献に現れた例では「養老令」(718年)などに、すしの記述があるようで、それよりも以前にすしは伝来していたと考えられるのです。稲の渡来と同じころというと、遅くとも弥生時代ですから、あるいは日本へのすしの伝来は、いまから1200年以上前に、さかのぼることができるかもしれません。

ここでいうすしとは、いったいどんなものだったのでしょう。すしは、主に川魚などの動物性たんぱく質を保存するための知恵として生まれました。コイやフナなどに米飯と塩を混ぜて、重石を置き、数ヶ月から数年かけて、熟成させる。するとたんぱく質の乳酸発酵により酸っぱくなり、独特の旨味がでました。またこうして発酵させたものは、長期間の保存が効いたのです。この場合、ご飯はどろどろになってしまうので、魚のみを食べます。いわば魚の漬物と言えますねおすまし


(写真はネット抜粋)

これがすしの原型で、古い形の「なれずし」です。
  

Posted by きくいち at 14:28Comments(0)大将

2015年04月28日

菊一本店のお弁当

いよいよGW突入ですねにっこり
行楽に菊一本店のお弁当はいかがですか…?
昭和30年創業。伝統の味と技術を元に職人の心意気をお届けします。



旬菜御膳…1620円
句の味を大切にする菊一から大人気の会席弁当を職人自慢の逸品に仕上げました。
【揚物・焼物・煮物・八寸・玉子焼・ご飯】



照り焼き帆立の彩り御膳…1944円
帆立がたっぷりの贅沢なご飯に季節の天ぷらをお楽しみください。
【天ぷら・煮物・八寸・デザート・帆立の照り焼きご飯】



季節の炊き込み御飯と焼き魚御膳…1944円
味わい深いお料理に季節のご飯もたっぷりと。香ばしく焼いた焼魚は絶品です。
【焼肴・煮物・八寸・デザート・季節の炊き込みご飯】



菊一てまり御膳…2160円
華やかに彩られた手毬ご飯に揚物やデザートが入った贅沢なお弁当です。
【揚物各種・サラダ・焼魚・煮物・デザート・手毬ご飯】



ふくさ寿司御膳…2160円
静岡育ちの牛タタキとふくさ寿司を贅沢に盛り合わせた当店一押しのお弁当です。
【牛タタキ・サラダ・焼魚・煮物・デザート・ふくさ寿司】



バラちらし御膳…2700円
味は勿論、彩と食感にこだわった贅沢な菊一の宝石箱です。
【天ぷら・焼魚・八寸・デザート・バラちらし】



特上にぎりステーキ御膳…2916円
全国各地から厳選して集めた新鮮なネタを職人が心をこめて握ります。上質な旨みのステーキも絶品です。
【サーロインステーキ・焼魚・八寸・煮物・デザート・にぎり寿司】



  

Posted by きくいち at 14:44Comments(0)菊一本店

2015年04月28日

★豊橋YEG入会(女将FBから)

【4月27日】
第1回目です。

モンスタードリンク飲んで、行ってきます。



緊張してます。
顔、乾張ってます。多分…


  

Posted by きくいち at 11:22Comments(0)女将FB

2015年04月27日

★楽市…御礼(女将FBから)

こんち(^^)昨日の、『家康楽市 春の陣』のお礼♪
お客様、YEGの皆さん、倫友、先輩、同級生、後輩、隣方の方などなど、皆さん、お越し下さり、ありがとーございました。
せっかく、来てくれたのに、途中から、完売になってしまい、ほんとに、ご迷惑をかけました《*≧∀≦》








皆さんの笑顔が、私の二日間のエネルギー源になりました。感謝☆感謝☆
  

Posted by きくいち at 14:08Comments(0)女将FB

2015年04月27日

★100名モーニングセミナー(女将FBから)

おはよ朝活、100名モーニングセミナーに出席(^^)
なんと、116社、127名様の出席☆
久々の出席でしたが、とにかく、 人のオーラに驚きました(;゜∇゜)





影山氏の講話も、自分年表というものがあり、楽しく、わかりやすかったぁ(^^)v朝は気持ちいい~



楽市で寝不足の後、今日も早朝から受付、ご苦労様でした。夜は豊橋YEGの入会式ですね汗
頑張ってきてくださいね ちょき

  

Posted by きくいち at 09:27Comments(0)女将FB

2015年04月26日

★家康楽市2日目(女将FB)

おはよう
『家康楽市 春の陣』二日目☆
今日は、顔もパンパン、足もパンパンになってしまいました。
普段、立ちっぱなしだから、自信があったのに(^^)
『浜松城』も、スッキリ清々しく、朝から、搬入入口警備員のおじさんの笑顔もバッチリ♪





そして、YEG☆sweetチームも、準備万端♪
仕事が、早いっ♪♪♪
豊田くんだけいました(*^▽^)/★*☆♪  

Posted by きくいち at 17:14Comments(0)女将FB

2015年04月25日

★2015年春・家康楽市(女将FB)

あと、もうすこしびっくりびっくりびっくり





お馬さんも、リハーサル( ☆∀☆)
ゾクゾクしてきたぁ( ☆∀☆)







  

Posted by きくいち at 16:40Comments(0)女将FB

2015年04月24日

豊公園(長浜城跡公園)桜の海

江戸時代前期に廃城となった長浜城。



その城跡に明治42年作られたのが豊公園です。長浜城主だった豊太閤・豊臣秀吉にちなんで「豊公園」と名付けられました。



豊公園の石垣は、公園化をするにあたって、散乱していた石材を集めて明治42年に積み直しされたものです。
公園内には長浜城歴史博物館をはじめ、音楽が流れる洋風庭園や噴水、児童公園、プールやテニスコートもあります。



長浜城歴史博物館を囲むように桜の木が植えられており、春にはソメイヨシノを中心に約800 本の桜が一斉に咲き誇ります。
「日本さくら名所100選」に選ばていて、長浜城の天守閣(展望台)から見る眺めは、さながら桜の海の様で壮観です。
また、期間中開花にあわせ数日間夜間ライトアップされます。


  

Posted by きくいち at 14:38Comments(0)趣味

2015年04月24日

★楽市商品シール貼(女将FBから)

こんち(*^▽^)/★*☆♪
今日は、朝から、トマトを食べて内職中。



でも、内職は、10時に終了予定なのに
まきますまきます



家康くんに、うなされそぉー❗
『明日、明後日、晴れますように☆☆☆☆☆』



OK  

Posted by きくいち at 14:08Comments(0)女将FB

2015年04月23日

★2015年春、家康楽市(女将EBから)

第7回、『パワーフードの祭典☆家康楽市、春の陣』in 浜松城公園 4/25(土)、26(日)開催!!!



私もきくいちブースで、9時から、1人売り子女子で、がんばるねp(^^)q 皆さん、来てね~♪
(金)からの通常仕事明けの、朝、7時の浜松城入りで、私の顔も超MAXパンパンです。お楽しみに…☆☆☆
  

Posted by きくいち at 16:51Comments(0)女将FB

2015年04月22日

10年ぶりの登城…長浜城

前日は日曜日の晴天で、豊公園大駐車場も花見客でいっぱい…予定を変更し2日目に長浜城にに向かったのですがあいにくの雨傘



娘が関西の大学に行っていた時に来て以来10年ぶりの長浜城ですが、今回は城の北側の駐車場に車を停めたのが幸いして(前日の豊公園の混みようが頭にありあえてほかの駐車場に)、前回見落とした秀吉の銅像や、石碑には「太閤井址」の石碑も見ることが出来ました。



模擬天守の裏側、小高い坂を上ると平坦な場所に出と正面には、「豊臣秀吉公」の銅像と「長浜城天守閣跡」石碑がありました。



天守閣跡 石碑の横にある、長浜城の構造 説明板。天守台の大きさは東西12間x南北10間。1間=6尺=1.8mなので、東西22mx南北18mか。城跡周辺に説明板や石柱を建てるプロジェクトをやったようだ。街中散策の際に注意して見てみよう。



戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。



2階展示室は「ひらけゆく湖北・長浜」をテーマに、宗教、文化や秀吉と長浜に関する資料を展示しており、3階では小堀遠州の美の世界、国友鉄砲、織物などの長浜の文化を紹介しています。スライド、トライビジョン、ビデオ、イラストを用いて、テーマ別に親切に説明されています。湖北を一望する5階の展望台では、ナレーションや効果音によって、戦国時代における長浜の重要性を実感することができます。



天守は模擬とはいえ天正期の望楼型で、あの国宝現存4天守の1つ犬山城を参考にした設計(というかほぼソックリな姿)となっていてぱっと見は実に本物っぽい。



天守前の広場には発掘調査で出てきたと考えられる石垣の根石が2つ鎮座?していた。どのへんにあったか等の説明は一切なし。ちなみに根石とは石垣の一番下に積む(というか埋める)、いわゆる石垣の礎石。



もう1つ 旧長浜領 境界碑 が立っている。傍らの説明板によると、これは秀吉が特別に長浜の町に年貢を免じた政策を行った際、どこからどこまでが長浜の町(=年貢免除地)かを示す石碑を町のあちこちに立てたというもので(石碑自体は秀吉の政策を引き継いだ徳川幕府により建てられたもの)、立てられた30数本の石碑のうち14本が今も長浜に残るという。「從是南長浜領(これより南 長浜領)」と読める。旧街道沿いなどに今も見られる国境石のようなもの。「從」は従の旧字。



模擬天守に登ってみる。1Fはお土産売場、2Fと3Fは展示室、4Fは機械室(階段で通りすぎるだけ)、で最上階の5Fが展望台になっている。5Fのみ撮影可。5Fの階段の前に戦国合戦パノラマの世界と称した長浜城から見える有名な戦国時代の史蹟が方角・距離とともに載っているという一風変わった巨大パネルがあった。「ナレーションによってたどってみましょう」とあるが、どうやったらナレーションが聞けるのか分からなかった。



展望台から東方面を眺む。正面奥の高い山は伊吹山(1377m)。右(南)の方には関ヶ原古戦場、左(北)の方には姉川古戦場があるという。(現地説明板より)


続いて北側へ。正面左の小山は「山本山」。そのすぐ右あたりは賤ヶ岳古戦場。



見えにくいが中央マンション右側の山は小谷城址とのこと。



こちらは南側。中央の白い大きなホテル(長浜ロイヤルホテル)の右に小さく見える山が佐和山、その右端には彦根城。が見えるはず。



天守を出て琵琶湖畔の方へ歩いて行くと、小高い丘の上に「長浜城 天守閣跡」石碑と秀吉の石像が建つ場所がある。琵琶湖畔ぎりぎりのここが天守台のようです(当時の野面積みのようにも見えるが、恐らく復興天守と同時に積まれた石垣と思われます)



天守台跡から更に琵琶湖畔へ行くと、秀吉が築城時に掘らせたという井戸跡「太閤井跡」があります。今は砂浜だが、当時はここも城内だったというから長浜城は琵琶湖に建物がせり出した、いわゆる水城だったということだろう。なお石碑と周囲の石だけで井戸跡らしきものは見えなかったが、琵琶湖の渇水が進むと何かが出てくるのかもしれない。



太閤井跡から少し南へ進むと「長浜城 石垣出土地」という石碑が現れた。あたりは草むらで石垣らしきものは見えないが?と思い、隣の説明板を読んでみると…昭和44年の湖岸埋立工事の際に水底調査を行ったところ、石垣の根石と思われる30数個の巨石が約30mに渡り整然と列をなしていたという。しかしどうやらまたもそのまま埋めてしまったようだ下降下降残念史蹟。



天守を天守台の下から眺める。この石垣自体も復興による模擬石垣で、角度が鈍角すぎるので、足をものすごく開いて立っている人のような印象を受けた。ちなみに別の場所に「天守閣跡」の石碑もあることから、そもそも天守台の位置もここではない模様。



城の向かい側には、大きな松の木とともに「長浜城 本丸跡」の石碑が立つ。



長浜城は羽柴秀吉が最初に築いた居城です。浅井攻めの功により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した秀吉は、当時「今浜」と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し「長浜」に改名し、小谷城の資材を流用して築城しました。山内一豊が城主を務めたこともあります。江戸時代に入ると長浜城は廃城となり、資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。



賤ヶ岳合戦後、天正13年(1585)から天正18年まで、山内一豊が城主となるが、山内一豊が小田原の陣の戦功で掛川城城主となった後は、内藤信成,信正が城主となるが、やがて廃城となる



なお豊公園の石垣は、公園化をするにあたって、散乱していた石材を集めて明治42年に積み直しされたものである。

1983年に復元された当時、市会議員をされていて復元に尽力された方から伺ったお話では、現在の長浜城の復元するための費用は、なんと10億8千万円を要したとか。
天守閣だけでこれだけの資金が必要なことを考えると、戦国時代の大名はとてつもなく大きな権力を持っていたことが窺い知れる。
  

Posted by きくいち at 11:16Comments(0)趣味

2015年04月21日

離れ風の部屋でゆったりと過ごす北近江観音路の宿

宿泊先は、琵琶湖の北「湖北」に佇む、料理自慢の隠れ宿「己高庵」。JR木ノ下駅から車で10分くらいの場所で 、こじんまりとしたお宿です。周辺には、のどかな風景が広がっていました。



宿としては、温泉でないのが残念でしたが、薬草風呂・露天風呂あり、深い自然に囲まれ、非日常的な静けさに心から解放され、ゆったりとした離れの個室でゆっくりくつろいできました温泉



離れ風和室に宿泊しましたが、部屋はこじんまりと適度な広さで清潔感があり窓からは四季折々の風景が楽しめました。隣の部屋を気にすることなく過ごせたのもよかったですニコニコホテル内のこじんまりとした売店も風情あり、観光というよりは「癒し」目的の旅館という感じでした。

当日の献立…地酒や手作り醤油等、郷土色のあふれた地元の物を使用してありましたナイフ&フォーク
【食前酒】…桑酒

【先附】…うぐいす豆腐・クコの実
【焼八寸】…鰆若狭焼き・牛八幡巻・赤貝・蕨烏賊・小肌南蛮漬け・五目白和え
【造り】…鰹・勘八・帆立・添物一式

【蒸し物】…穴子の桜蒸し

【煮物】…鯛真子・南京・子芋・桜麩・竹の子

【台の物】…近江牛ステーキ…やわらかくとてもおいしかったです。

【油物】…烏賊白子の磯辺揚げ
【酢の物】…千枚蛸・酢味噌・蛇腹胡瓜・菊花大根
【御食事】…白御飯・ちりめん山椒
【止め椀】…赤出汁
【香の物】…三種盛り
【水物】…季節の果物


翌日の朝食




山郷の落ち着いた隠れ家的宿と言った感じで、のんびりしたい時にオススメです。紅葉の名所鶏足寺にも近く山郷の風景を楽しみながら散策が出来き、そのほか湖北の仏像めぐり・長浜・琵琶湖を訪ねるのにはもってこいの宿ですナイス

ただ、公共の宿なので接客は少々義務的で人手も少ないようでしたが、飲み物等は良心的な値段でした。 もみじ紅葉の時期にまた訪れてみたいものです ウィンク





  

Posted by きくいち at 11:16Comments(0)大将

2015年04月20日

賤ヶ岳の古戦場

北近江の旅、初日最後に向かったのが、賤ヶ岳の古戦場車



本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。



賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられていて、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。



賤ヶ岳砦(山頂)まではリフト(一人乗り)と登山道がありますが、登山道はリフトの下を七曲りで上がっていく感じで、途中には特に遺構などもないので登山自体が好きでないとつまらないかも…?と言うことでリフトを選択しました。





リフトを降り登山道を登って行きます。登山道から時折見える琵琶湖の北端。賤ヶ岳は琵琶湖北の余呉湖の湖畔にありますが、余呉湖は北側なので、山頂の向こう側にあたりでは…?



登山道はゆるやかに奥へ向かうと、途中右側に祠のようなものが見えてきます。賤ヶ嶽合戦戦歿者霊地…賤ヶ嶽合戦の戦没者を弔う石佛が野山に点在していたが、昭和57年にここに合祀して移転したそうで、4月の山開き祭の際に供養をしているそうです。



いよいよ山頂です。色々石碑などが建てられていました。かつての激戦地も、今はリフトで楽々ハイキングコースとなっていて、お城ではなく戦に備えた山頂の砦の1つでしたが、土塁や虎口や堀切など砦の基礎工事の跡がしっかり残っていました。



入口付近にあった「史蹟 賤ヶ嶽」石碑。戦前に建てられたものです。
東側は展望台のようになっていて、木之本の平野部が一望。史蹟(史跡)だけでなく、琵琶湖八景の1つ「新雪賤ヶ岳の大観」としても登録されているようです。他には彦根城、竹生島、瀬田など。



今までは道の左側、琵琶湖側しか見えなかったが、ここにきて右側、木之本市街地(本日の宿泊先)への眺望がひらけてきました。中央奥にうっすら見える山が小谷城跡、少し離れて右側にある独立丘陵が虎御前山(信長が小谷城を攻めた際に陣を敷いた場所)。たぶん…?



主郭を少し北へ進むと、史蹟 賤ヶ嶽 の標柱とともに、うなだれたサムライ?の銅像と、百科事典の形をした説明板がありました。

百科事典型の説明板。内容は前半が小説風、後半がエッセイ風で、要はこの銅像の製作者がどういう想いでこの銅像を作ったかを記したもののようです。タイトルは「戦のあと」。場面は秀吉軍が賤ヶ岳近辺での戦に勝ち、柴田軍が撤退したところからスタート。必死の戦が終わると、ひとかどの武将であっても、厳しくて哀しい戦の現実に直面し、戦に赴き続けねばならない己の宿命を想い、勝利方であっても手放しで喜んでいたのではないだろうという考えのもと、このような姿の銅像を造ったとのことしょんぼり



賤ヶ岳 三等三角点。標高421m。



主郭の西側(余呉湖側)にある巨大な賤ヶ岳周辺地図。賤ヶ岳は中央の余呉湖のすぐ下。赤凸が秀吉軍陣地、白凸が柴田軍陣地。互いが木之本に対峙し陣地を築き始めたのは3月頭だが、実際に大規模な戦闘が起きたのはその1ヶ月半後の4月20日。秀吉が岐阜城の織田信孝を攻めるべく木之本を発った直後、柴田軍の佐久間盛政が大岩山砦(余呉湖の右側)に居た秀吉軍の中川清秀を攻め、これを撃破。そこから盛政の怒濤の侵攻が始まる。深入りする盛政に対し、勝家は再三退却して立て直すよう命令するがこれを無視。そして賤ヶ岳砦まで侵攻したとき、岐阜に向かったはずの秀吉軍本隊が戻ってきて激戦となり、連戦で疲れていた盛政軍は敗走。前田利家の撤退もあり、勝家軍は総崩れとなって居城 北之庄城へと戻っていった。これが4月21日。有名な賤ヶ岳の合戦は実質わずか2日間の出来事だった。



巨大な周辺地図の下に、佐久間盛政の説明板がありました。佐久間盛政は柴田軍の勇将で、賤ヶ岳の戦いで深追いしすぎて総崩れとなり柴田軍の敗戦のキッカケを作ったとされていますが、その説は江戸時代の作であり、実際はどうだったか信ぴょう性には疑問が残るところ、とのこと。また秀吉はその佐久間盛政の勇猛さに惚れ込んで、敗戦後に捕らえた際、味方になるように説得するも忠誠厚く寝返らなかったので、なくなく処刑したという話も残っているようです。



地面に設置されていた、古い木の説明板。
木の説明板の向こうには、余呉湖。最初に攻められた中川清秀は、余呉湖の東側、この写真の右前ぐらいに陣を敷いていた。そこからこの賤ヶ岳まで、佐久間盛政は一気に攻め立てた。



賤ヶ岳砦跡 縄張図も設置されていた。勝家vs秀吉の賤ヶ岳合戦の前にもここに既に城(砦)はあったようで、天正元年(1573年) の浅井朝倉vs織田軍の合戦の際にもここに城があった記録があると言います。遺構としては、山頂の3つの曲輪のほか、堀切、土橋、枡形虎口などがありますが、公園化かつ430年前の土の城なのでそれほど期待はしない方が良いかもしれません。

もう1つの標柱を発見。七本槍古戦場賤ヶ嶽と書かれていて、その向こうには、虎口の跡のような土塁の盛り上がりも見られました。



七本槍古戦場賤ヶ嶽の標柱の右側は、琵琶湖の北端を見下ろす眺望スペースになっている。



山頂からの琵琶湖の眺望。左の1本高い木の奥にうっすら見える小さな島は、竹生島か。

秀吉がその最大のライバルだった柴田勝家一派を滅ぼした賤ヶ岳古戦場。かつての激戦地はロープウェイに展望台にと公園化されていますが、それでも堀切や土橋、虎口、曲輪といった当時の砦の跡がはっきり分かる遺構も残っていました。少し肩透かしの感じはしましたが、アクセスも簡単でしたし短時間で見て回れてたので良かったです。できれば、玄蕃尾城跡や小谷城跡など近隣の巨大山城も登山したかったのですが…しょんぼり

  

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2015年04月19日

小谷城戦国歴史資料館

北近江史跡巡り、次に向かったのは湖北町にある「小谷城戦国歴史資料館」です。



小谷城といえば、戦国に咲いた悲劇のヒロイン「お市の方」のゆかりの地。浅井長政とお市の方、茶々・初・江の三姉妹が暮らし、兄織田信長によって攻め滅ぼされた戦国の悲話を今に伝えています。またこの城は戦国時代でも五指に入るといわれた堅固な山城です。



戦国歴史資料館は小谷山登山道の入り口に隣接しています。つまり、資料館の背景に見えるのがお城のあった小谷山ということ…小谷城跡は国の史跡に指定されていて、 資料館の周辺一帯は、清水谷武家屋敷群のあった場所です。



清水谷から、物見である「出丸」跡裏を経て山頂近くの「番所」跡まで通じる道を「追手道」と呼びます。
清水谷に復元された「大手門」。



資料館は平成19年にオープンした施設で、もとは児童館だった建物ですが その立地から小谷城の歴史を語る施設へと再活用・リニューアルされたそうです。

館内の常設展では「戦国大名浅井市と小谷城」をテーマに浅井家の略系図や、長政・お市、長政の父・久政、信長、浅井家の盟友・朝倉義景の肖像画の複製のほか、城跡からの出土品などが展示されていました。

また「小谷城」をテーマにした第二展示室では、 小谷城の絵図(見取り図)などが展示され、往時の城のようすを復元した模型もあり、急峻な山に造営された堅固な山城だったようすがうかがえました。

館内に見られるのぼり旗は「三盛亀甲花菱」で浅井家の家紋です。



  

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2015年04月19日

★豊橋YEG来店(女将FBから)

【4月18日」
昨夜は、豊橋YEGゆりこ会長、文子専務理事、友直委員長、御来店、ありがとーございました( ☆∀☆)



そして、豊橋YEG片山副会長、片山name入りの、ワイン★嬉しく、味わいながら、噛みしめて頂きまぁす。ありがとーございます( ☆∀☆)



なんか、バタバタしてあんまり、お喋りできませんでしたけど、途中から、浜松YEGイケメントリオ☆が、合流して、ワイワイ楽しかったぁ♪♪♪
  

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2015年04月18日

浅井3姉妹ゆかりの堅固な山城…小谷城

日本五大山城のひとつに数えられる堅固な山城として知られている、小谷城は、戦国大名浅井氏の居城であり、茶々・初・江のふるさとでもあります。



巨大な小谷城跡絵図が出迎えてくれましたおすまし曲輪が尾根に沿ってまっすぐと連なる連郭式と言われる構造です。山頂からは谷を通ってまた山麓まで戻ってこれるようです。



小谷山には石垣や曲輪などの遺構が当時のまま保存されていると言われていて、歴史的に大変価値の高いものですが、今回は限られた時間の中で、小谷山の麓にある戦国ガイドステーション傍にある登山口までで、登山は次回の楽しみという事に…うわっ



小谷山は、春は桜、秋は紅葉とハイキングにも最適ですから秋にまた再チャレンジします。



小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井家が3代にわたって居城としていました。築城は1524年ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政と織田信長の妹で戦国一の美女といわれたお市の方、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができるはずですが…わーん



織田信長との戦いで浅井家が滅んだ後、羽柴秀吉に与えられましたが、秀吉は今浜(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。その際、資材の大半は長浜城築城のために使われたと言われています。現在は国の史跡に指定されていて、土塁や石垣などの遺構を見ることができるのですが…(自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土し、最頂部の大獄(おおずく)(495m)にも土塁が残っているとも…しょんぼり

小谷山麓から当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘達の生涯に思いをはせます。



2011年の大河ドラマ「江」放映記念で作られたという巨大な兜。
前立ての家紋はもちろん浅井家の「三つ盛亀甲に花菱」



大河ドラマゆかりの地ノボリがあちこちに立っていました。2011年の江だけでなく、2014年の軍師官兵衛も…官兵衛は小谷城とは関係はありませんが(小谷城落城時はまだ官兵衛は小寺氏家臣)、黒田氏のルーツが北近江の木之本付近だと言われる一説に基いているからではないでしょうか…?。



残念ながら番所跡の手前までで引き換えし、次は戦国資料館に向かいます車


  

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2015年04月17日

姉川古戦場

先週の日曜日、北近江に行ってきました。目的は長浜城他、北近江の史跡巡り…。まずは長浜城を目指したのですが、日曜日で、花見客が殺到していて駐車場も満車。城見学と市内散策を翌日にして、2日目の予定のだった、姉川古戦場と小谷城、賤ヶ岳古戦場を廻る事にしました。



長浜市野村町の南端を流れる姉川の野村橋付近一帯が、有名な「姉川の戦い」の舞台となった場所です。



「姉川の戦い」は1570年(元亀元年)に起きた、浅井・朝倉軍約1万8千人と織田・徳川軍約2万8千人によって行われた合戦です。
なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏による呼び方で、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼ばれていました。

案内板から…姉川を挟んで、南に織田徳川、北に浅井朝倉。東が浅井vs織田、西が朝倉vs徳川、という布陣だった模様。周囲にも関連する史跡がいくつかあるようで、恐らくオリジナルと思われる合戦絵図がユニークなタッチで面白かったです。ちなみに合戦当時(1570年)、大将である織田信長は37歳、浅井長政は25歳という若さです。

この戦いにより、姉川は血で真っ赤に染まったといわれています。
また付近の「血原(ちはら)」や「血川橋(ちかわばし)」という地名が、当時の惨状を伝えています。



現在の姉川の様子。橋の全長は結構あり、当時の火縄銃(射程距離50mほど)では全く届かないので、恐らく土手の上ではなく河原に降りて対峙していたものと思われます。今は水も少なく簡単に歩いて渡れそうですが、以前はもう少し水量も深さもあったそうです。





「姉川の戦い」での戦死者を供養する石碑などがあり、その前には割と新しい花が備えられていて、地元に大事にされている史跡だと感じました。



また川沿いではなく、姉川に架かる橋に続く道沿いに、姉川古戦場という1文字ずつの古い看板が立っていました。


  

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