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2015年04月22日

10年ぶりの登城…長浜城

前日は日曜日の晴天で、豊公園大駐車場も花見客でいっぱい…予定を変更し2日目に長浜城にに向かったのですがあいにくの雨傘

10年ぶりの登城…長浜城

娘が関西の大学に行っていた時に来て以来10年ぶりの長浜城ですが、今回は城の北側の駐車場に車を停めたのが幸いして(前日の豊公園の混みようが頭にありあえてほかの駐車場に)、前回見落とした秀吉の銅像や、石碑には「太閤井址」の石碑も見ることが出来ました。

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模擬天守の裏側、小高い坂を上ると平坦な場所に出と正面には、「豊臣秀吉公」の銅像と「長浜城天守閣跡」石碑がありました。

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天守閣跡 石碑の横にある、長浜城の構造 説明板。天守台の大きさは東西12間x南北10間。1間=6尺=1.8mなので、東西22mx南北18mか。城跡周辺に説明板や石柱を建てるプロジェクトをやったようだ。街中散策の際に注意して見てみよう。

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戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。

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2階展示室は「ひらけゆく湖北・長浜」をテーマに、宗教、文化や秀吉と長浜に関する資料を展示しており、3階では小堀遠州の美の世界、国友鉄砲、織物などの長浜の文化を紹介しています。スライド、トライビジョン、ビデオ、イラストを用いて、テーマ別に親切に説明されています。湖北を一望する5階の展望台では、ナレーションや効果音によって、戦国時代における長浜の重要性を実感することができます。

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天守は模擬とはいえ天正期の望楼型で、あの国宝現存4天守の1つ犬山城を参考にした設計(というかほぼソックリな姿)となっていてぱっと見は実に本物っぽい。

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天守前の広場には発掘調査で出てきたと考えられる石垣の根石が2つ鎮座?していた。どのへんにあったか等の説明は一切なし。ちなみに根石とは石垣の一番下に積む(というか埋める)、いわゆる石垣の礎石。

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もう1つ 旧長浜領 境界碑 が立っている。傍らの説明板によると、これは秀吉が特別に長浜の町に年貢を免じた政策を行った際、どこからどこまでが長浜の町(=年貢免除地)かを示す石碑を町のあちこちに立てたというもので(石碑自体は秀吉の政策を引き継いだ徳川幕府により建てられたもの)、立てられた30数本の石碑のうち14本が今も長浜に残るという。「從是南長浜領(これより南 長浜領)」と読める。旧街道沿いなどに今も見られる国境石のようなもの。「從」は従の旧字。

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模擬天守に登ってみる。1Fはお土産売場、2Fと3Fは展示室、4Fは機械室(階段で通りすぎるだけ)、で最上階の5Fが展望台になっている。5Fのみ撮影可。5Fの階段の前に戦国合戦パノラマの世界と称した長浜城から見える有名な戦国時代の史蹟が方角・距離とともに載っているという一風変わった巨大パネルがあった。「ナレーションによってたどってみましょう」とあるが、どうやったらナレーションが聞けるのか分からなかった。

10年ぶりの登城…長浜城

展望台から東方面を眺む。正面奥の高い山は伊吹山(1377m)。右(南)の方には関ヶ原古戦場、左(北)の方には姉川古戦場があるという。(現地説明板より)

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続いて北側へ。正面左の小山は「山本山」。そのすぐ右あたりは賤ヶ岳古戦場。

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見えにくいが中央マンション右側の山は小谷城址とのこと。

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こちらは南側。中央の白い大きなホテル(長浜ロイヤルホテル)の右に小さく見える山が佐和山、その右端には彦根城。が見えるはず。

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天守を出て琵琶湖畔の方へ歩いて行くと、小高い丘の上に「長浜城 天守閣跡」石碑と秀吉の石像が建つ場所がある。琵琶湖畔ぎりぎりのここが天守台のようです(当時の野面積みのようにも見えるが、恐らく復興天守と同時に積まれた石垣と思われます)

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天守台跡から更に琵琶湖畔へ行くと、秀吉が築城時に掘らせたという井戸跡「太閤井跡」があります。今は砂浜だが、当時はここも城内だったというから長浜城は琵琶湖に建物がせり出した、いわゆる水城だったということだろう。なお石碑と周囲の石だけで井戸跡らしきものは見えなかったが、琵琶湖の渇水が進むと何かが出てくるのかもしれない。

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太閤井跡から少し南へ進むと「長浜城 石垣出土地」という石碑が現れた。あたりは草むらで石垣らしきものは見えないが?と思い、隣の説明板を読んでみると…昭和44年の湖岸埋立工事の際に水底調査を行ったところ、石垣の根石と思われる30数個の巨石が約30mに渡り整然と列をなしていたという。しかしどうやらまたもそのまま埋めてしまったようだ下降下降残念史蹟。

10年ぶりの登城…長浜城

天守を天守台の下から眺める。この石垣自体も復興による模擬石垣で、角度が鈍角すぎるので、足をものすごく開いて立っている人のような印象を受けた。ちなみに別の場所に「天守閣跡」の石碑もあることから、そもそも天守台の位置もここではない模様。

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城の向かい側には、大きな松の木とともに「長浜城 本丸跡」の石碑が立つ。

10年ぶりの登城…長浜城

長浜城は羽柴秀吉が最初に築いた居城です。浅井攻めの功により織田信長から浅井氏の旧領を拝領した秀吉は、当時「今浜」と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し「長浜」に改名し、小谷城の資材を流用して築城しました。山内一豊が城主を務めたこともあります。江戸時代に入ると長浜城は廃城となり、資材の大半は彦根城の築城に流用されました。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。

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賤ヶ岳合戦後、天正13年(1585)から天正18年まで、山内一豊が城主となるが、山内一豊が小田原の陣の戦功で掛川城城主となった後は、内藤信成,信正が城主となるが、やがて廃城となる

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なお豊公園の石垣は、公園化をするにあたって、散乱していた石材を集めて明治42年に積み直しされたものである。

1983年に復元された当時、市会議員をされていて復元に尽力された方から伺ったお話では、現在の長浜城の復元するための費用は、なんと10億8千万円を要したとか。
天守閣だけでこれだけの資金が必要なことを考えると、戦国時代の大名はとてつもなく大きな権力を持っていたことが窺い知れる。


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