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2014年11月30日

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城

石川県の城廻り、最後は私が一番立ち寄りたかった鳥越城です。
国内に復元されたお城はいくつもありますが、ここ鳥越城は中世城郭として復元された貴重なお城の1 つです。ニコニコ


2009 年に公開された映画「BALLAD(バラッド)~ 名もなき恋の歌」のロケ地でもあり、鳥越城を知らない人でも現地に訪れられたらああここかと思いださす人もあるのでは…?。



二曲(ふとうげ)城(白山市)と一緒に国史跡に指定されている鳥越城は、大日川と手取川の合流点にある鳥越山の丘陵の先端部(標高312m、比高130m)に築かれた、東西約400m、南北約1200mの城域をもった城です。この城域に本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸の5つの郭と、3つの腰郭を配した輪連郭式の縄張りを持っていました。車で山頂の鳥越城址まで登ることができます。 この林道途中の出丸跡に鳥越城の石碑が建てられていました。


【あやめが池】
後三の丸の北方を巡る空堀は、東向きの谷地で一段深く掘り下げられていて、掘には、水を通す砂の地層と埋め立てられた谷地からの湧き水が常に流れ込んできます。水の得難い山城にあっては、深い堀に溜められた水は城内を支えたのでしょう。


【枡形門】
本丸を守る枡形門は、城内で唯一石垣で三方を固めています。石垣は水平軸を通した布目積みで、形と大きさを揃えた石材の中に大振りの鏡石を置いて魔除けとし、角部には算木積み技法を取り入れていました。斜面地形を生かして石垣の高さを変え、東方の空堀を区切る枡形は、礎石建ちの高麗門を南方に開けます。


【本丸の枡形虎口 高低差を活かした縄張り】


【本丸門】


【本丸】
本丸内の建物群…本丸跡は標高312mで、城山の頂上部にあたります。区画は南北に延びる長方形で、西側縁を除いて三方に土塁を築き、内部の建物群は6時期の建て替えを示す礎石と柱穴が数多く配置され、南西側では火災による焼土層が広がっていました。

出土品には石臼・茶臼、鉄釘、銅銭、越前焼の甕・擂鉢、漆塗碗などがあり、碗・皿・盃などで中国製磁器が目立ちます。武器類には鉄砲玉、小刀、鎧断片があり、食料の米・粟は炭化した状態で多量に出土したようです。また、井戸跡北側から金板片を発見した。


【中の丸門】
尾根筋の本丸へ登るために腰部の南端から取り付く坂道があり、大振りの岩を組んだ石垣で固めていました。坂上にある中の丸門は見通しがきかないように土塁などで遮り、礎石建ちの門は南方に向いて開き、大日川を越えて二曲城跡を眼下に臨みます。


【二の丸】
郭には全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰郭側に備えた櫓です。内側には建て替えを表す堀立柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土坑1基が発見されたようですが、礎石が抜き取られていました。土坑内からは炭・焼土に混じって、陶磁器類と刀、鉄砲玉、鏡、漆器碗・皿、賽子が出土したそうです。


【本丸から臨む二の丸、中の丸門】
二の丸跡は腰郭から登る路と中の丸門に隣接する郭で、南側は堀切を配して三の丸を見下ろします。


【本丸西側】
本丸西側は枡形門前から一段下がり、北方に緩傾斜し幅を広げて長方形となりますが、もとは大日川向きに下がる斜面でありました。盛土と削平で階段状の三区画が造成され、それぞれの建物が棟を東西に向けて建てられます。本丸建物と本郭の立ちならぶ建物群は、平地からは威圧的な景観として見上げられたと思われます。
主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷き道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰曲輪を囲み、本丸を防衛していた郭と想定されます。


【後三の丸】
鳥越城跡の北端を占める本郭は城跡の中で面積が最も広く、屈折する空堀によって本丸側から離されて独立的性格をもちます。西方の裾部には幅の広い腰曲輪が造成され、北東方から東方には空堀が掘られ、水場のあやめが池に落ち込みます。
郭へは腰曲輪の南西隅から入り、階段状の区画を登ります。南西端の狭い区画には堀立柱建物跡や排水溝、玉石敷きの施設が発見されています。城内の中枢部から空堀で隔てられた本郭は、前線基地的な役割を果たすものと思われます。【 城跡案内板より】


土塁がめぐらされた本丸内には建物跡が復元されています。


土塁の上に登れば周囲を一望できますので、地形の高低差や復元された様子がよく分ります。
鳥越城本の丸からの眺めは極めて良く、越前・美濃から加賀への交通の要所に築かれたことが、ここからの眺めが物語っている。

又振り返った先に見える柵列と中の丸門の雰囲気が素晴らしいです!ここはうまく復元されたというだけじゃなく、何というかまさに中世城郭にいるんだという錯覚を抱かせてくれるいい雰囲気を持っている気がします。映画のロケの様子やパネル展示などがないのもいいですねニコニコ


後三の丸は、二段に分かれ鳥越城の曲輪の中で一番広い面積がある。 後三の丸の周囲には空堀が掘られ防備を固めている。

雑誌などで鳥越城跡が見応えのある城跡であることは知っていましたが、「所詮は一揆の城」と高をくくっていたのですがが、とんでもない大間違いでした。びっくり 規模も大きく、まるで垂直に切り立つような切岸や深くて迫力のある堀切・空堀等々の遺構が良好に残る上、丁寧な復元整備がされ見応え満点…中でも、本丸と後二の丸間の堀切、本丸南側の堀切は迫力満点です。 他にも、本丸虎口の復元された石垣・枡形・城門、そして建物跡が平面表示された本丸、周囲の土塁や櫓台などが良好に残る二の丸等々、見どころ満載でした。兎に角、「素晴らしい」の一言です。びっくり

歴史【現地説明板から】…   続きを読む

Posted by きくいち at 22:52Comments(0)趣味

2014年11月29日

能登ごっつぉ会席(いろは)

旅先での思い出、今日は写真で…

七尾湾を真下に…能登国定公園城山展望台から


金沢城本丸にて


能州いろは


趣ある掘りごたつ式料理茶屋「あぶりや」で、北陸能登の旬の山海の幸を用いた「ごっつぉ」を堪能しました。
「ごっつぉ」とは能登の方言で「ごちそう」という意味合いで使われている言葉です。







夜明け前の和倉温泉


朝食



皆さんお疲れ様…1泊2日の短い旅行でしたが、実りある秋でした。
次回は来年春、楽しみしています。






  

Posted by きくいち at 15:16Comments(0)大将

2014年11月28日

浜松出世丼

徳川家康公顕彰400年記念事業の一環として「浜松料理おもてなし店舗」の仲間達が各店で考案した「浜松出世丼」、当店がご提供する商品が完成しましたので紹介します。

当店では、あの家康公も段階を踏んで出世していったように、三度の味が楽しめる出世丼を作りました。
その名は…「舞阪産フグと伊勢海老のまぶし丼、スッポンのスープで炊いたご飯で…」



スッポンスープで炊いたご飯に盛り込まれたフグと伊勢海老…まずは生(お刺身)でご飯と共に、次に浜名湖産青海苔と生ウニ、イクラをまぶしてふた味目…最後は伊勢海老で作ったスープをかけて茶漬け風に…3度の味が楽しめる、地元食材にこだわった究極の丼です。



詳しくは「出世の街 浜松さんぽ」のホームページにて近日公開されるようです。

  

Posted by きくいち at 14:22Comments(0)寿司ネタ

2014年11月27日

石垣の博物館…加賀百万石の城

加賀前田家百万石のお城、金沢城。




私が以前、訪問した当時はまだ内部が大学で石川門辺りを見るだけで、どちらかというと兼六園を見物がてら一寸寄って見たという感じでした。20年ぶりに登城しましたが、すっかり変わっていました。城内を全て隈なく見て回れ、現存遺構もかなり残っており最高でした…ナイスと言う訳で、満足度も一気に100点満点に変更しましたにっこり



石川門とその隣に続く太鼓塀は城には珍しく海鼠塀で、非常に印象に深い。



現存建造物は石川門・五十間長屋・鶴丸倉庫の3つだけですが、石垣が実に素晴らしく、まさに、石垣の宝庫です。特に、菱櫓から土橋門近くにまで続く二の丸北面石垣は少し苔むして鄙びた情緒を醸し出して最高です。



そして、五十間長屋の土台の石垣も青戸室石と赤戸室石がじつに旨く調和しており、芸術的な美を感じます。また、その海鼠壁が年月を経て何ともいえない味わいがあります…と言う訳で、城内を廻るのに2時間半もかかりました。再登城して本当に良かった。




百間堀跡から望む本丸石垣


【百間堀 】
金沢御堂陥落後、佐久間盛政の時代(天正8年~11年、1580~1583)に造られ、前田利家の入城後、その子・前田利長により改修されたといわれる。小立野台と金沢城を分断する防衛上重要な水堀で、長さ約270m・幅68.4m・水深約2.4mあり、その大きさから百間堀と呼ばれたようである。明治43~44年(1910~1911)の道路工事により、現在のような姿になった。別名・蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われている。


【石川門(現存)】
金沢城の搦め手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門・橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門に造られている。宝暦の大火(1759)の後、天明8年(1788)に再建され現在に伝わっている。昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定された。


石川門一ノ門(高麗門)


石川門ニノ門(櫓門)


石川門枡形


菱櫓から見た二の門続櫓


【河北門跡 】
佐久間盛政の頃、大手門は西丁口にあったが、前田実質上の大手門に当り、石川門・橋爪門とともに金沢城の「三御門」と呼ばれた。大きな櫓門を備えた枡形門で、両脇に四十間長屋・九十間長屋を備えていた。



河北門二の門





菱櫓と内堀

二の丸北側の石垣

裏口門跡



五十間長屋(復元)
菱櫓(右)と橋爪門続櫓(左)を結ぶ二層の多聞櫓。普段は倉庫として用いられるが、非常時は戦闘のための砦となる。石落しを各所に備え、格子窓は鉄砲狭間となる。


菱櫓(復元)
二の丸で一番高い三層の物見櫓。尾坂門・河北門・石川門を一望できる。石落しを多く持ち、実戦的で、なおかつ華やかな櫓。


二の丸東面の水堀(菱櫓から橋詰門続櫓まで続く水堀)
実に美しい切込みハギの石垣である。また、苔むした石垣と堀の水の青い色との調和が素晴らしい!


橋爪橋(復元)と橋爪一の門(復元)
橋と一の門(高麗門)は、二の丸大手である橋爪門枡形の入口を構成する。橋爪門続櫓は二の丸大手の橋爪門枡形に付随する三層の物見櫓。三の丸で戦闘が起きた時の指揮所。


極楽橋と三十間長屋
二の丸と本丸の間の空堀に架かる極楽橋の名前は金沢御堂の時代から伝わったものとする伝承があるが、確かな裏付けはない。橋の向こうの石段は、わざと歩きにくく、段の高さなどが不揃いにしてあるとのこと。




三十間長屋(現存)
宝暦の大火(1759)の後、長く再建されなかったが、安政5年(1858)に再建された長屋。本来は食器類を納めた倉庫であったが、江戸時代後期には武器・弾薬を納めたといわれている。昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定された。
土台の石は、青戸室と赤戸室の石の色の調和がとれ、また、海鼠壁が時を経て薄くなり実に情緒を感じさせてくれる。


鉄門跡
創建は明らかではないが、寛永の大火(1631)以降、二の丸から本丸に入る正門となった。鉄板を貼った扉が付けられていたことから名付けられた。渡し櫓が乗った重厚な門で本丸の防御にあたっていた。


二の丸と本丸間の空堀


戌亥櫓跡
本丸の北西角、戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。西と北に「出し」という出窓が付いた二層の櫓だった。宝暦の大火(1759)の後、再建されなかった。


本丸跡
古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後、前田利家が入城し、天正14年(1586)頃に天守閣を設けたといわれる。天守閣は慶長7年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた・寛永の大火(1631)頃までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。


東の丸跡
利長の死後、利常の母・福寿院が芳春院に代わり、人質として江戸に行く。金沢城に戻った芳春院が居住したのが、この東の丸であるとのこと。尚、福寿院もそれまで、この東の丸に居住していたようである。


丑寅櫓跡
本丸が東北角、丑寅の方角に当たることから「丑寅櫓」と呼ばれた。櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年(1592)の築造と推定され、金沢城の最古の石垣である。宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。


鶴丸倉庫(現存)
江戸時代末期に建てられた土蔵で、石川門・三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。腰の石貼りや窓周りの意匠など文久3年(1863)に建造された成巽閣土蔵(兼六園内)と類似している。明治以降は軍隊の被服倉庫として利用され、修理もされているが、基本的構造は創建当時のままである。


橋爪門続櫓から望む本丸石垣

本丸石垣

金沢城の歴史…  続きを読む

Posted by きくいち at 16:02Comments(0)趣味

2014年11月26日

冬季限定メニュー…温寿司復活

心温まる、きくいち特製冬季限定メニューです。

波の花飛ぶ風音、きくいち特製、浜名湖温寿司。
浜松蕪と春野町産地鶏のスッポンスープと共に…



地元浜名湖産、鰻の蒲焼、車海老、金目鯛を棒寿司にして蒸籠で温寿司に仕上げます。特製スッポンスープとの相性は抜群…寒い時期に、楽しんでいただける寿司屋ならではのお手軽メニューです。(2500円)



温寿司(ぬくずし)は蒸しずしと呼ばれる関西以西、中国、四国地方に伝わる温かいバラ寿司の事です。同地方共通の方言ぬくいは温かいの意味でこの方言が通用する地方の冬季限定メニューとなっているのです。
バラ寿司の酢飯に焼き穴子、海老、白身魚、錦糸卵、絹さや、銀杏、桜でんぶ等を色鮮やかに盛り付け、蒸籠で蒸して食べます。(発祥は大阪とされ明治時代からありますが、最近では一部の地域の寿司屋で郷土料理として販売している程度です。

当店でも、以前、遠鉄店で「五目蒸し寿司」というメニューで、販売していましたが、百貨店の厨房に限界があり渋々メニューから外しました。ところが、このメニューを気に入って下さっていたお客様の要望がずっと多く、今回期間限定で復活させることになりました。今回はバラ寿司でなく地元食材を使った棒寿司で、更なる進化を…ナイス



本店は「浜名湖温寿司と蕪と地鶏の煮物」のセットメニュー(2160円)で、遠鉄店では年明け早々の北海道物産展で北海蒸し寿司(こちらは依然のバラ寿司を考えています)として再デビューさせるつもりです。

各店にて菊一の「温寿司」を是非お楽しみください。


  

Posted by きくいち at 16:49Comments(0)寿司ネタ

2014年11月26日

じわもん料理

地元で取れた食材のことを石川県では「じわもん」と言います。その「じわもん」の代表格が加賀野菜。様々な郷土料理の食材として金沢の人に広く愛されています。今回、食べてきた「じわもん料理」を少し紹介します。

【加賀蓮根のハス蒸し】
蓮蒸し(はすむし)の蓮とは、蓮根の事です。蓮根を使った料理といえば、一般的に蓮根の形を利用して歯ざわりを楽しむ料理が多いのですが、この場合は、蓮根を卸し金ですり卸し、蒸して粘りのある触感を楽しみます。これが本当においしいんです。



蓮根の生地がもちっとしてますから中に入れる具は、歯触りのあるものを加えた方が良いです。季節を感じさせる具を入れると尚良いですね。お客様のおもてなし料理にピッタリだと思います.

【治部煮】
治部煮(じぶに)は、古都金沢を代表する郷土料理です。 本来、加賀藩前田家と親交のあったキリシタン大名「高山右近」が藩滞在の折に伝えた欧風料理だとか…? 鴨肉(古くは、小鳥)をそぎ切りして小麦粉をまぶし、だし汁に醤油、みりん、砂糖、酒を合わせた中に名物生麩(すだれ麩等)、しいたけ、セリなどの季節料理を入れ、煮る。それに水とき小麦粉でとろみをつけ山葵をそえて出来上がり。体の芯からあたたまる加賀料理です。



「治部煮」名前の由来」…豊臣秀吉の兵糧奉行だった「岡部治部右衛門」が、朝鮮からこの料理を持ち込んだことから…。
煮る時に「じぶじぶ」と音がする。鴨肉と小麦粉を使うことから、フランス料理の「ジビエ」が変化した…と、いろいろな説がありますが、本当の事は分かりません。

【ゴリの佃煮】
江戸、佃島ではじまった佃煮は、小魚を美味しく、栄養豊かに保存する知恵として生まれました。佃煮は参勤交代の江戸土産として全国へ伝えられました。
加賀藩では発祥の地・佃島のような小魚佃煮はもとより、地元の特産品を使ったくるみ煮、ごり佃煮、二つの独自の味が生まれ、金沢の食文化が花開きました。



佃煮にするごり(鮴)はハゼ科の小魚で清流に住み、以前は市内を流れる犀川、浅野川、近隣の河北潟で豊富にとれたようです。白山の鬼ぐるみを米飴で炊いたくるみ煮は、ほんのりと香ばしく、滋味豊かなごり佃煮とともに口取りや祭料理に欠かせない味です。

石川県以外の人にごり(鮴)はあまりなじみがないかもしれませんが、無理矢理押し通す「ごり押し」という言葉の由来はこの小魚です。水中の石の下に隠れている鮴を、砂石を動かし追い出すように獲ったことから「ごり押し」というようになったそうです。佃煮、からあげ、鮴汁などで親しまれてきた鮴には、ハゼ科やカジカ科など多くの種類があり、地域ごとにさまざまな名前があります。
  

Posted by きくいち at 10:51Comments(0)大将

2014年11月25日

★女将の休日

【11月24日】
昨日は、次男の19回目の誕生日。
大人の仲間入りまで、あと1年。がんばってほしい。



次男の帰りまで待てんかったぁ(≧▽≦)体調悪く、寝込んじゃいました。
ごめんね~
思春期三男が控えているから、も少し、
子育て踏ん張ります( ☆∀☆)
自分の為に使える時間ができるまで、も少しだぁ~
ムフフ♯♭♪

【11月25日】
おはよ(^^)昨日は、YEG★ゴルフ、 練習、行ってきました~



先生とコーチのもとで、途中みる厳しい目が、とても、忘れられません。ありがとーございます♪
なかなか、練習に行けないから、私も、参加できる日は、集中いたします。(≧▽≦)
今日は、あいにくの雨だから、足下、気をつけて…!
  

Posted by きくいち at 10:02Comments(0)女将FB

2014年11月24日

七つの尾根に郭が築かれた難攻不落の山岳城

能登七尾城は、室町幕府管領家畠山氏の分家である、能登畠山氏の居城です。12代まで続いた畠山氏の治世の元で城下町は発展し、その繁栄ぶりは越前朝倉氏の居城一乗谷に匹敵するものだったと言われています。そのような七尾城も、天正5年(1577年)9月に米沢藩祖上杉謙信公の攻撃を受け落城し、ここに畠山氏の能登支配は終わり、能登と七尾城は上杉家の支配となりました。しかし戦上手と言われる謙信公の采配をもってしても、軍事的に七尾城を攻略する事は出来ず、結局は畠山氏の重臣の遊佐氏等を内応させた事による、調略による落城でした。謙信公でさえ攻めあぐねたと言われる七尾城が、どれ程の堅城なのか…?と言うのを実際に訪れたいと昔から思っていたのが、やっと実現しました。

金沢市内より「のと里山道」、「能登自動車道」、七尾田鶴浜バイパスを通り抜け、七尾城史資料館に…。


史料館内の七尾城絵図


山麓の古屋敷町に建つ七尾城史資料館   懐古館 飯田屋<登録有形文化財>

180年前の庄屋の住宅。七尾城史資料館に隣接し、500坪の庭園が杉木立の深い緑に囲まれ、静寂に包まれています。

建物は太い梁が家格の高さを表すかやぶき屋根の旧家で、現在は、市民の茶会や句会の場として利用されているそうです。


城資料館の脇に当時の大手道が残っています。こちから登る方が七尾城の堅城ぶりを実感出来るかと思いましたが時間もなく、資料館見学後、そのまま林道に入り、さらに山道を登ると本丸下の駐車場まで車で行けます。

駐車場から本の丸迄20分程度ですが、重臣屋敷跡(曲輪)から本の丸に至る登城道を進むと生い茂る木々の間に野面積みの石垣が累々と姿を表します。あの上杉謙信をしても、この城を力攻めに出来なかったことがよく分かりました。



七尾城は、尾根を削平して曲輪を連ねる典型的な山城の縄張りで、長屋敷・本の丸・二の丸・三の丸と尾根筋に並んでいて、曲輪の間には大堀切がある。


調度丸跡… 弓矢などの武具(調度)をととのえた場所。多数の出土品が、ここで発見されている。


桜馬場跡石垣 …北側の石垣は五段に組まれ、七尾城跡でも最大規模を誇る。 この曲輪は、東西の長さが45m、南北の長さが25mあり軍馬の調教を行なった馬場などと言われる。


遊佐屋敷跡…この曲輪は、本丸のすぐ西側に接し、七尾城の中心部にあることから城主に次ぐ守護代の地位にあった遊佐氏の屋敷跡と伝えられている。


七尾城の石垣は、戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用い、背の低い石垣を何段にも築く技法が使われている。


本丸の石垣~階段を上がったところが本丸跡。


三段に築かれている本丸石垣。


本丸北側の三段に組まれた石垣。


本丸内側よりみた階段の登りきったところ。


本丸跡…山の頂を削平した所が本丸跡。七尾城跡の中心となる曲輪。東西の長さが50m、南北の長さが40mあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成する。



本丸に建つ城址碑…七尾城趾の石碑が建つ本の丸からの眺めはすばらしい。
遙か眼下に七尾市街にある小丸山城や能登島まで手に取るように見ることができる。

七尾城本丸跡から望む七尾の街並み。 

本丸の石垣は雄大で、北陸の戦国期の城としてはもっとも壮大であるのは間違いありません。本丸からは日本海も見え、大変気持ちのいいお城です。本丸~二の丸~三の丸が尾根上に連なり、その下には調度丸・屋敷群あるいは大手道沿いの郭と石垣が点在します。


二の丸跡

二の丸

温井屋敷跡…城主畠山氏を補佐する八臣(四臣四家)の一人温井氏の屋敷跡。

九尺石…看板には「城の鎮護のかなめ石。石の大きさにちなんでこの名がある。」と書かれている。 中央にある苔むした石が九尺石だが相当大きい

三の丸跡

三の丸

安寧寺跡…畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で戦死した武士たちの慰霊碑などがある。

三の丸方面から本丸に向かうところの石垣。

七尾城はJR七尾駅から南へ5km。石動山系の北端に位置する標高300mの松尾山(通称「城山」)の尾根に築かれた山城で、日本五大山城の一つ。



縄張…七尾城図(現地案内板より)
山上には本丸・桜の馬場・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配した。また、菊、松、竹、梅、亀、龍、虎と七つの郭名があったので、七尾城と称したという。城は尾根を切り開いて、いくつもの曲輪を並べた典型的な連郭式山城。

(城山展望台にて)

◆築城年・築城者・城主  
築城の時期については定かでなく諸説ありますが、室町時代足利幕府の管領畠山氏が能登ノ国守護に任じられ、応永13年(1406)畠山満則が能登に入国したとき七尾の地に居館を構えたといわれ、また一説に応永16年畠山満慶のころ、ともいわれる。畠山氏は戦乱に備えて、松尾山に詰めの城を構えた。これが七尾城である。その後、畠山氏数代にわたって改築を行い、天正5年(1577)、上杉謙信に滅ぼされるまで、9代170年間畠山氏の居城となった。
 
謙信の死後、能登ノ国は織田信長の支配下となり、その武将前田利家が七尾城に入ったが、山があまりにも高いため、天正10年(1582)、七尾湾に近い小丘に小丸山城を新しく築いて移った。七尾城は、前田利家が小丸山城を築いたとき、すでに廃城となっていた。建物は壊されたが、城の郭跡はそのままの状態で残された。現在もその郭跡をよく残している。

◆概略  
この城は、室町時代能登国の守護であった畠山氏が、歴代城主とした所である。石動山脈の北端、七尾湾が一望できる標高約300メートルの山頂部を削平して本丸を置き、これを中心として急峻複雑な地形を巧みに利用し、東方に長屋敷、西方及び北方にかけて西の丸、二の丸、三の丸等を構えた規模雄大な山城である。
 
その後、幸いにも自然災害や開発等の厄にもあわず、各尾根上の郭跡や石垣は良く保存され、わが国中世における山岳城郭史上優れた遺跡として昭和9年12月28日国の史跡に指定された。
<城跡説明板より転載・加筆>

◆関連施設…能登国定公園城山展望台  




展望台から望む七尾湾

能登最大の規模と堅固さを誇った守護大名畠山氏の居城 …訪れてみてその堅城さを身に染みて感じましたびっくり
  

Posted by きくいち at 16:06Comments(0)趣味

2014年11月23日

★酉の市…先輩との再会

【11月22日】
肴町☆酉の市、懐かしい先輩との再会!
FBみて、ご家族で来てくださったお客様!
仕事中だけど、顔出してくださったYEG仲間!




ありがとーございます(*^^*)まだ、屋台は引き続き、販売しております。是非是非★
今から、お店に戻ります。取り急ぎ、お礼を言いたくなりました!☆★☆

【11月22日】
今日は、☆肴町 酉の市 『大安寺 例大祭』☆
今日も浜松ブランドフードフェスの屋台が出ます(^^)




浜松の料理屋さんの自慢の味を、★ワンコイン★で
販売しております。私は、17時~19時まで、
スタンバイしています。
皆さん、時間の許す限り、来てくださぁい。
待ってまぁす( ☆∀☆)

【11月21日】
大切なお客様から、一押しの白ホルモン頂きましたぁ(^^)ありがとっ★
鉄板にホルモンを…
余分な脂…
もやしを…ぐるっと回して~
焼き方まで、伝授してもらい、今度のお休みは、ホルモンちゃんちゃんしよっ( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆



大好物キムチは、すぐ食べちゃった~♪我慢できんかったぁ!
今日も、一日、がんばって☆☆☆

  

Posted by きくいち at 09:56Comments(0)女将FB

2014年11月22日

前田利家が能登一国の本城として築いたお城

小丸山城は、七尾市街と七尾湾を見下ろす小高い丘に築かれている丘城で、現在は、本の丸・天称丸・宮丸が小松山公園として整備されていました。



城址は1920年(大正9年)に小丸山公園として整備され、春にはソメイヨシノ、シダレザクラなどが見られる桜の名所となっています。



また、NHK大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の放映を記念して、2001年(平成13年)に利家と妻・芳春院(まつ)の銅像「前田利家松子之像」が設置されています。



城の遺構は、公園化と西側が道路整備のため削り取られ、本来の姿からは随分と変わっていると思えます。(大念寺山と呼ばれる砦は鉄道建設市街地化によって消滅していました。)それでも本の丸と天称丸との間にある空堀、本の丸に櫓台が2ヶ所残っていて、本の丸北側にある宮丸は、多気本宮があった場所で築城に移転されたことを物語っています。



小丸山城は前田利家が能登一国の国持大名として七尾入りしてから、加賀に領土を加増され尾山城(のちの金沢城)に拠点を移すまでの間の居城です。利家が尾山城へ本拠を移した後も、兄の前田安勝が七尾城代として居住しました。

【歴史】 現地説明版より
小丸山城は、天正10年に前田利家によって築かれた。 天正9年に織田信長から能登一国を与えられた利家は、越前府中から七尾城へ入ったが、政治・経済上の利点に主眼を置いた城を港に近い小丸山に築城して居城を移した。

天正11年に秀吉から加賀2郡を加増された利家は金沢城へと移り、兄安勝・子利政が小丸山城主となるが、元和の一国一城令によって廃城となった。


  

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2014年11月21日

松尾芭蕉も食したと言われる、小松のうどん

加賀藩お墨付きの名物。芭蕉も称賛。小松は、飲食店がうどんで町興しに取り組んでいて、行政もまた「小松うどん」を盛り上げています。



小松うどんの発祥は江戸時代といわれ、加賀藩御用達品として将軍家や前田家に献上されのだとか…?またかの俳諧師である松雄芭蕉が加賀を旅した際に、小松うどんを食し称賛したと言われています。

以来300年の伝統と技により小松うどんの質と味が守られてきました。中佐中店さんは、加賀の食文化として守られてきた小松うどんの味と技を受け継ぎ、郷土の名産として今も尚、人気のあるお店です。




私が注文したのは「加賀丸芋うどん鍋」…摩り下ろした芋を団子にしてありました。

うどん鍋メニューには抹茶・お菓子・アイスが付いています。

昼から地酒も…にんまり


300年以上も前から小松の名物だったうどん、小松の町衆に愛され続けてきたうどんを、もっともっと知ってほしい。うどんを「まちづくり」に生かしたい! という思いが結集し、平成22年に「小松うどんつるつる創研」が誕生し、加盟店を募って「小松うどん」のブランド化を進めているとか…。

小松うどんの特徴は、細くて軟らかくて白い、たおやかな麺。そして白山伏流水を用い、魚の節を使ったあっさり味のダシ。その基本路線を守りながらも、加盟店は各店舗で工夫を凝らした味を提供しているそうです。中には本当にユニークなレシピを開発している店もあるようで時間があれば食べ比べて見たかったです。
  

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2014年11月20日

前田利常の隠居城で楼閣風の天守があったお城

今回の旅行の目的は、長く現在まで続いている兄弟弟子との絆を深めることと、両親への感謝です。皆の師匠である親父を囲んで作った「菊一会」もメンバーはすっかり年寄りの集まりになってしまいましたしょんぼり。以前はよく飲み、旅行もゴルフツアーといった感じでしたが、最近は温泉と郷土料理を楽しむことが多くなりました。そして観光は、もちろん城廻…これは私だけの好みでなくメンバー…特に兄弟子が歴史城好きの影響もあるのです。今回の石川旅行(能登金沢の旅)も、もちろん行ってきましたよ車汗城廻ニコニコ

興味のない方には申し訳ありませんが少しずつ紹介します。まずは「加賀 小松城」からナイス



現在の小松城は、市役所・公民館・公園などになり、城の遺構は市内にはあまり残っていません。小松高校が、本丸・二の丸跡に建てられ、グランド西側の一角に天守台と内堀跡の僅かな石垣が残っていました。



偶然にも車を止めて散策していると、近くに住む観光ボランティアの方が私たちを見つけいろいろ説明してくれました。(市役所に連絡をすればすぐに駆けつけたとのにと言われました。あはは





この天守台は、築城技術がピークに達した時期に築かれただけに、精巧に積まれた石垣は見応えがありました。天守台上には楼閣風の御三階櫓が建てられていたようで、建物の遺構としては、市内の来正寺に二の丸鰻橋門(長屋門)が移築されて現存しているそうです。 





【歴史】
小松城は、天正年間に若林長門によて築かれた。 天正7年、柴田勝家が攻め落城し、織田信長は村上頼勝を城主とした。



慶長3年、頼勝は越後村上に移され、松任城主丹羽長重が12万石を領して入城する。 関ヶ原で西軍に与した長重は、金沢城主前田利長と浅井畷で合戦したが敗退、戦後長重は所領没収となった。 慶長5年以降、小松城は前田氏の所領として城代が置かれていた。 

寛永16年に前田利常が隠居城として幕府から承認され、二の丸・三の丸が増築され、新たに石垣が組まれるなど大改修がなされた。
万治元年、前田利常は没し、その後が小松城代・小松城番が置かれ明治に至った。

  

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2014年11月19日

★女将…勉強と昼食

【11月19日】
昨日は、お店が忙しい中、YEG例会に出させてもらって、ありがとーございます(*^^*)。


昨日は、政策提言の粗削りの原稿提出がありました。
堅物に考えていた私に、皆さんの実体験をふまえた原稿内容で、良いよ♪って言ってくれた一言が、私の肩の力を抜いてくれました。



アフター例会後、YEG大先輩から、最新!家康くん☆ステッカーを頂きました。
来年、家康くん☆で、いくぞ~♪とバワフル宣言。同感(^^)


【11月19日】
今日は、久々、外☆lunch inとし峰。
Pは、いっぱい!辛うじて2台空き(^^)
とんかつ120g、食べちゃったぁ☆



私のお肉にとんかつを吸収させました。衣薄く、隅まで柔らかい。
晩ごはんに13枚揚げる私だから、とし峰修行に行きたくなりました。
最後、サービス♪の杏仁豆腐が、心が和らいだぁ( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
  

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2014年11月18日

寿司の落語は…?

先日の落語会のお礼にと「柳家花いち」さんが色紙と手拭いを送ってくれました。東京に戻り、寄席に勉強会、色々頑張ってるようです。新ネタ披露もするとか…?また機会があったら、ぜひ聞きたいものです。あははそんなこともあって、今日は少し落語の話題を…。



有名な「時そば」や「そば清」「そばの殿様」など蕎麦を題材にした落語はよく聞きますが、寿司を題材にした落語をあまり聞いたことなく少調べてみました。 桂文枝の創作落語「にぎやか寿司」、柳家喬太郎の新作落語「寿司屋水滸伝」がありましたが、他にはほとんどなく、なぜ寿司は落語の題材に少ないのか…?

発酵させる鮓の歴史は古いですが、酢飯を使った寿司は江戸初期で、握り鮨は幕末となります。ただ当時の鮨は、座敷で食べるような料理ではなくて、立ち食いの屋台で庶民が食べるファースト・フード感覚です。握り鮨が現代のような座敷で食べるご馳走の感覚で捉えられるようになったのは戦後になってからです。

鮨が出てくる有名な文学作品は、志賀直哉の「小僧の神様」だそうですが、ここで描かれているのは、握り鮨ですが、まだ立ち食いの屋台です。次郎長伝の石松三十石船で描かれている「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、鮨を食いねぇ」という名台詞は、昭和に入ってからの広沢虎造の脚色・創作になります。

戦後の落語黄金時代の正統派と言われる古典落語においては、戦後の新しいご馳走と捉えられる「握り鮨」はむしろ排除されたのでないでしょうか。もちろん、戦後と言われる時代が終わって握り鮨が一般のご馳走になった後に、噺の中に「握り鮨」を脚色・創作して演じた噺家も少なくないと思いますし、今となっては、「握り鮨」が戦後の新しいご馳走という感覚が薄れて、江戸や明治という古典落語で描かれている日常生活の中に「握り鮨」が登場しても不自然さを感じる人は少ないことと思います。

蕎麦や鰻と違って、鮨は新しい食べ物というのが、鮨を題材にした古典落語が少ない理由では…?

「にぎやか寿司」と「寿司屋水滸伝」のあらすじ…  続きを読む

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2014年11月17日

岐阜の老舗焼肉店

常連さんと焼肉の話になりました。話をしているうちに、若い頃、料理人仲間と見に行ったお店が岐阜にあったことを思い出しました。当時そのお店は、確か予約しないと入れなかったような…?門構えがすごく、和食の料理屋のような趣があるところでした…。勿論、味も値段も…よく覚えています。

びっくりしたのは、その常連さんが岐阜の出身で、地元に帰ると、そのお店を今でも利用しているとのこと…びっくり

焼肉屋さんのポイントは、お肉の美味しさはもちろんですが、サイドメニューにも魂こめてつくられているお店です。白菜キムチ、カクテキ、オイキムチはすべて自家製。このお店の歴史がキムチの製造販売からはじまったこともあり、その味は絶対。キムチに漬け込む野菜は、季節によって仕入れにこだわり、その都度、産地や標高を変えているようで、キムチの薬味となる調味料は、すべて厳選された本場韓国のもののみを使用しているとか…。



大好きな臓物…ホルモンをすぐに送ってもらったようで店に持ってきてくれました。昨晩はそれをつまみに晩酌…ビール

しろセンマイ、タン塩、特選和牛の塩ヒレ、塩カルビ、ロース、ハラミ…そしていちぼ塩
ランプ、ミノ、シンゾウ…韓国豆腐チゲにテールスープとカルビスープ、最後は特製冷麺

長年通い続けている桔梗苑。
今も昔も変わらず良質なものだけ提供する、真摯で誠意に満ちた焼肉屋さんです。
誰でも一度訪れたらきっと虜になると思います。



  

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2014年11月16日

★動く女将(サッカー)

【11月14日】
昨日、行きたくて行きたくて、ようやくYEG★soccer参加。


ボールを蹴る楽しさ、テンションUP!!急に走ったりしたから、足も驚いてたぁ☆もたつくわ、かかとがピリピリくるわ、出たり入ったり、皆様にご迷惑おかけしました。



昨日は、おとうふ扱いしていただき、感謝★
重たい体を支えてくれたスパイクにも、感謝★
(о´∀`о)

【11月15日】
来たぁ~ホーム最終試合★ヤマスタNOW
VS 山形 始まったよ~p(^^)qほぼ満員!!!




名波さんになってから、初めての観戦の私。
セットした髪の毛は、風ですんごいこと!
今になって、筋肉痛の嵐(もも、付け根、脇腹)、小股でしか、歩けません☆
  

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2014年11月15日

金沢グルメ…香箱蟹の丼

11月、いよいよよ石川県産ズワイガニ(加能ガニ)漁が解禁となりました。
加能ガニとは、石川県で水揚げされるズワイガニを指します。加能ガニ漁の解禁期間は旬を迎える11月6日から3月20日の約5ヶ月間。
石川産のずわいがには身はしっとりとしてほのかな甘みがあり、カニ味噌には日本海の香りが凝縮されています。
そして、そのズワイガニの中でもさらに貴重なのが香箱蟹です。「香箱蟹」とはズワイガニの雌で、地域によってさまざまな呼び名があるようですが、主に石川県で「コウバコガニ」と呼ばれています。

内子と呼ばれる朱色の子が特徴の地元石川で人気のある香箱がに。濃厚な内子と粒々した食感が冬の訪れを感じさせる外子。カニ味噌にも石川産ならではの優しい甘みがあります。香箱蟹の漁期は1月6日前後までと、獲ってよい期間がかなりの短さ。これは、産卵する雌を保護し、カニの数を減らさないようにするためです。つまり、食べられる期間がとても短い、貴重な冬の味覚というわけです。



近江市場で食べた香箱蟹の丼…蟹の身がぎっしり詰まった、ぷりぷりした歯ごたえと極上の甘み、獲れたての味は、この上ない贅沢なひとときでした。



  

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2014年11月14日

北陸の冬の風物詩

先日、金沢に行ってきました。

国指定特別名勝で、日本三名園の一つの兼六園(江戸時代の代表的な林泉回遊式庭園特別名勝)では、雪害から樹木を守るため、毎年11月1日 から雪吊りを実施しています。雪吊りは、皆さんもご存知のように冬季、雪が付着することで、樹木の枝が折れないように縄で枝を保持します。過去に何度か兼六園には行きましたが、雪吊りを直に見たのは今回が初めて…紅葉も始まり、いい時期に訪れました。



樹木の枝が雪の重みで折れないよう、幹のそばに芯柱を立て、てっぺんから垂らしたわら縄で枝を結んでいく。兼六園管理事務所の人に聞くと、園では明治時代から続く冬の風物詩で、重心が崩れないようにわら縄の間隔をバランス良くとるのがコツだそうです。



12月中旬までに、名物の唐崎松などの高木114本とツツジなどの中低木約700カ所に施すとのこと…。樹木が黄色い笠をかぶったような風景は3月まで見られます。(取り外したわら縄は堆肥に使われるようです)




紅葉はモミジ類約340本、桜約420本、ケヤキ約60本、その他、ニシキギ、ドウダンツツジ等がある。赤や黄色に色づいた紅葉により、園内は趣深い雰囲気に包まれていました。





今回は、年老いた両親とそのお弟子さん達…古き時代の菊一を共に歩んできた仲間達との北陸旅行…その様子はこれからゆっくりいろいろ書きます。ニコニコ

  

Posted by きくいち at 14:52Comments(0)大将

2014年11月13日

★女将の今週

【11月9日】
おはよー☆☆☆今日の試合は、
★勝つカツサンドイッチ★に託します!!!(*^^*)

私は、浜松YEG全体事業『ハマワクキッズ』のお手伝いに行ってきます( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
去年は、事業委員会でYEG入会、初年参加の私には、子供達の楽しいキラキラ☆顔が、忘れられなくて、今年もたくさんのキラキラ☆顔のお手伝いしたいなぁ~ 微力ですが。

【11月10日】
昨日は、浜松YEG全体事業『ハマワクキッズ』のお手伝い、懇親会に参加(^^)d



去年は、事業委員会に在籍していたため、委員長、副委員長の並々ならぬ日々のご苦労、感じています。皆さんの力が一致団結して、まっすぐな光が眩しかったぁ☆☆☆☆☆懇親会は、充実達成感★伝わりました。




『割烹着まゆみ』は、山口屋の大ちゃん、峯野さん、航さんとの、コラボ!普通では、あり得ない、YEG★powerミラクル~また、写真、撮るの忘れたぁ(T_T

【11月11日】
昨日、☆肴町 酉の市『大安寺 例大祭』☆に恥ずかしながら、初めて行きました。


浜松ブランドフードフェス屋台のお手伝いです。



昔ながらの風習というものは、やっぱりいい(^^)d おじいちゃん、おばあちゃんから、引き継いでくれたらなぁなんて、思いながら、皆さんを見ていました。


最後に福よせにひかれてしまった~(#^.^#)

【11月12日】
おはよー★
昨日は、おしゃれねぎTシャツ、頂きました~(*^^*)


私の三大薬味『ねぎ、大葉、パセリ』メッチャ大好き♪♭♯今日から、Tシャツ着て、バリバリ、ねぎ、食べるぞぉ~!!!
1本1本、愛情たっぷり育ったネギだから~
( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
今日も、天気悪いから、足下、気をつけて☆  

Posted by きくいち at 14:20Comments(0)女将FB

2014年11月10日

海苔巻きの由来

今日は海苔巻きについて少し紹介します。
明治初期、海苔巻きというのは、干瓢巻きしかありませんでした。
当時、 一般庶民の間で「賭博」が流行していて、バクチ打ちは、お腹がすくと片手で手軽に 食べることができる干瓢巻きをこぞって食べていましたが、これに飽きた あるバクチ打ちが、何か他の食材を巻いて食べられないものかと考えていたところ、 「鮪」が一番適していたことからバクチ打ちの間でこの「鮪巻き」が急速に流行り、 一般庶民へも広がりました。 庶民の間では「賭博場」を「鉄火場」と呼ぶことから、 この「鮪巻き」を「鉄火巻き」と言うようになったようです。ちなみに、干瓢巻は、巻いた形が鉄砲の砲身に似ていることから鉄砲巻と言う別名があります。(寿司職人の間ではあたりまで使われています。ニコニコ



岩手県「遠野」と言う胡瓜の名産地があり、ここには昔から河童が住んでいると言われていました。河童は、川や池に住んでいるので、 常に体がウエットな状態でなければいけないのですが、丘に上がると皮膚が 乾燥し、体温が上昇してしまう為、胡瓜を体に巻いて丘に上がっていたと言われています。 (冬の野菜は体を温め、胡瓜などの夏野菜は体を冷やす効果があります)河童が胡瓜を体に巻いていたことから、胡瓜巻を「かっぱ巻き」と呼ばれるようになっ たようです。



かっぱ巻きの由来は諸説色々ありますが、それはまたの機会に紹介します。  

Posted by きくいち at 11:03Comments(0)寿司ネタ