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2014年11月30日

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城

石川県の城廻り、最後は私が一番立ち寄りたかった鳥越城です。
国内に復元されたお城はいくつもありますが、ここ鳥越城は中世城郭として復元された貴重なお城の1 つです。ニコニコ

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
2009 年に公開された映画「BALLAD(バラッド)~ 名もなき恋の歌」のロケ地でもあり、鳥越城を知らない人でも現地に訪れられたらああここかと思いださす人もあるのでは…?。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城

二曲(ふとうげ)城(白山市)と一緒に国史跡に指定されている鳥越城は、大日川と手取川の合流点にある鳥越山の丘陵の先端部(標高312m、比高130m)に築かれた、東西約400m、南北約1200mの城域をもった城です。この城域に本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸の5つの郭と、3つの腰郭を配した輪連郭式の縄張りを持っていました。車で山頂の鳥越城址まで登ることができます。 この林道途中の出丸跡に鳥越城の石碑が建てられていました。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【あやめが池】
後三の丸の北方を巡る空堀は、東向きの谷地で一段深く掘り下げられていて、掘には、水を通す砂の地層と埋め立てられた谷地からの湧き水が常に流れ込んできます。水の得難い山城にあっては、深い堀に溜められた水は城内を支えたのでしょう。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【枡形門】
本丸を守る枡形門は、城内で唯一石垣で三方を固めています。石垣は水平軸を通した布目積みで、形と大きさを揃えた石材の中に大振りの鏡石を置いて魔除けとし、角部には算木積み技法を取り入れていました。斜面地形を生かして石垣の高さを変え、東方の空堀を区切る枡形は、礎石建ちの高麗門を南方に開けます。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【本丸の枡形虎口 高低差を活かした縄張り】

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【本丸門】

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【本丸】
本丸内の建物群…本丸跡は標高312mで、城山の頂上部にあたります。区画は南北に延びる長方形で、西側縁を除いて三方に土塁を築き、内部の建物群は6時期の建て替えを示す礎石と柱穴が数多く配置され、南西側では火災による焼土層が広がっていました。
山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
出土品には石臼・茶臼、鉄釘、銅銭、越前焼の甕・擂鉢、漆塗碗などがあり、碗・皿・盃などで中国製磁器が目立ちます。武器類には鉄砲玉、小刀、鎧断片があり、食料の米・粟は炭化した状態で多量に出土したようです。また、井戸跡北側から金板片を発見した。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【中の丸門】
尾根筋の本丸へ登るために腰部の南端から取り付く坂道があり、大振りの岩を組んだ石垣で固めていました。坂上にある中の丸門は見通しがきかないように土塁などで遮り、礎石建ちの門は南方に向いて開き、大日川を越えて二曲城跡を眼下に臨みます。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【二の丸】
郭には全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰郭側に備えた櫓です。内側には建て替えを表す堀立柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土坑1基が発見されたようですが、礎石が抜き取られていました。土坑内からは炭・焼土に混じって、陶磁器類と刀、鉄砲玉、鏡、漆器碗・皿、賽子が出土したそうです。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【本丸から臨む二の丸、中の丸門】
二の丸跡は腰郭から登る路と中の丸門に隣接する郭で、南側は堀切を配して三の丸を見下ろします。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【本丸西側】
本丸西側は枡形門前から一段下がり、北方に緩傾斜し幅を広げて長方形となりますが、もとは大日川向きに下がる斜面でありました。盛土と削平で階段状の三区画が造成され、それぞれの建物が棟を東西に向けて建てられます。本丸建物と本郭の立ちならぶ建物群は、平地からは威圧的な景観として見上げられたと思われます。
主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷き道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰曲輪を囲み、本丸を防衛していた郭と想定されます。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
【後三の丸】
鳥越城跡の北端を占める本郭は城跡の中で面積が最も広く、屈折する空堀によって本丸側から離されて独立的性格をもちます。西方の裾部には幅の広い腰曲輪が造成され、北東方から東方には空堀が掘られ、水場のあやめが池に落ち込みます。
郭へは腰曲輪の南西隅から入り、階段状の区画を登ります。南西端の狭い区画には堀立柱建物跡や排水溝、玉石敷きの施設が発見されています。城内の中枢部から空堀で隔てられた本郭は、前線基地的な役割を果たすものと思われます。【 城跡案内板より】

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
土塁がめぐらされた本丸内には建物跡が復元されています。

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
土塁の上に登れば周囲を一望できますので、地形の高低差や復元された様子がよく分ります。
鳥越城本の丸からの眺めは極めて良く、越前・美濃から加賀への交通の要所に築かれたことが、ここからの眺めが物語っている。
山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
又振り返った先に見える柵列と中の丸門の雰囲気が素晴らしいです!ここはうまく復元されたというだけじゃなく、何というかまさに中世城郭にいるんだという錯覚を抱かせてくれるいい雰囲気を持っている気がします。映画のロケの様子やパネル展示などがないのもいいですねニコニコ

山頂に築かれた城跡が見事に復元された山城
後三の丸は、二段に分かれ鳥越城の曲輪の中で一番広い面積がある。 後三の丸の周囲には空堀が掘られ防備を固めている。

雑誌などで鳥越城跡が見応えのある城跡であることは知っていましたが、「所詮は一揆の城」と高をくくっていたのですがが、とんでもない大間違いでした。びっくり 規模も大きく、まるで垂直に切り立つような切岸や深くて迫力のある堀切・空堀等々の遺構が良好に残る上、丁寧な復元整備がされ見応え満点…中でも、本丸と後二の丸間の堀切、本丸南側の堀切は迫力満点です。 他にも、本丸虎口の復元された石垣・枡形・城門、そして建物跡が平面表示された本丸、周囲の土塁や櫓台などが良好に残る二の丸等々、見どころ満載でした。兎に角、「素晴らしい」の一言です。びっくり

歴史【現地説明板から】…

この城は、天文年間(1532~54年)に一向一揆の軍事拠点として、一揆集団の山内衆を率いた鈴木出羽守により築かれたといわれている。

その後、元亀から天正年間の前半(1570~80年)にかけて、織田勢の加賀侵攻が必至の情勢となる中、その備えとして修築・拡充が行われた。織田信長は1580年(天正8)、北ノ庄城(福井県福井市)城主の柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は加賀に侵攻して一揆の本拠の金沢(尾山)御坊(のちの金沢城、金沢市)を攻略した。

本拠を失った一揆勢は、鳥越城に拠点を移し、二曲城とともに徹底抗戦を継続したが、同年、勝家の猛攻を受けて落城し、城主の鈴木出羽守とその一族は謀殺された。その翌年、一揆勢は城の奪還に成功するが、勝家麾下の佐久間盛政によって鎮圧された。このときの織田勢の一揆に対する弾圧は熾烈をきわめ、山内7ヵ村の門徒衆を捕らえて300人にもおよぶ門徒たちが磔刑にしたといわれる。

こうして加賀一向一揆は滅びた。鳥越城はその後、織田氏の城となったが、廃城の経緯は明らかではない。

1977年(昭和52)から3年にわたる城跡の調査を経て、1985年(昭和60)に国指定史跡になった。現在、城跡には曲輪(くるわ)・石垣、土塁、堀切、空堀、井戸跡などの遺構が残っている。1990年(平成2)から発掘調査が行われ、城址としての整備が進められ、2001年(平成13)に復元整備が終了した。

城跡の遺構は一揆勢が築城・整備したものと、その後、織田氏の勢力により改修・整備されたものが残っている。たとえば、虎口の石垣や礎石を持つ建造物は織田勢によるものと考えられている。本丸の櫓(やぐら)門・枡形門、井戸などの模擬建造物がつくられている。なお、鳥越山の麓にある道の駅「一向一揆の里」には鳥越村一向一揆歴史館が併設され、一向一揆に関する史料の展示やビデオの上映が行われている。◇別宮城ともよばれる。





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