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2015年08月31日

世界柔道メダル量産 日本男子復調

前人未到の五輪柔道3連覇を果たし、全日本実業個人選手権で現役を引退した野村忠宏の会見が先程、大阪市内のホテルで行われました。多くの報道陣が詰め掛ける中、野村は「最後負けてはしまいましたが、豪快にぶん投げられた40歳の柔道家に対して、激励のお言葉をかけてもらえたのは一番うれしい」と述べ、終始さわやかな笑顔を見せていました。


(ネット抜粋)

そんな中、日本柔道が復権の兆しを見せました。昨日行われた世界柔道最終日は男女団体を行い、日本は男女とも優勝。男子は2連覇、女子は2大会ぶりの頂点に立ちました。これで今大会の男子は個人、団体で合わせて8個(金4)のメダルを獲得して幕を閉じました。

あくまでも本番は来年のリオ五輪ですが、男子がメダルラッシュに沸いたのはロンドン後から指揮を執る井上康生監督の手腕は無視できまさん。ロンドンで史上初めて金メダルなしに終わった篠原信一前監督の後を受けて就任した井上監督は代表チームの抜本的な改革に着手。井上監督はまず、代表候補選手の間で蔓延していたぬるま湯体質からの脱却を図りました。国内でのライバル意識を植え付けるため、合宿や遠征などの宿舎は同じ階級の選手の相部屋を禁じ、さらに選手個々の精神力向上を目的に、単独での海外武者修行を課し、心技体全てでレベルアップを図ったのです。

これまで以上に海外のライバルの研究にも力を入れた。国際大会前の合宿では各階級ともミーティングに時間を割き、相手選手を徹底的に丸裸にして本番に臨んだと言います。日本柔道はロンドン後に不祥事が相次ぎ、世界的に信用も失墜しましたが、リオでは井上監督の下、お家芸の完全復活なるか、期待したいものです。

  

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2015年08月31日

優美な輝き、宇和島真珠

松山道を南下、大洲道路を抜け目指すは、歴史の街、宇和島に車

宇和島市は愛媛県の南部(南予地方)に位置する都市で、人口はおよそ8万9千人、真珠や魚の養殖が盛んな伊達10万石の城下町です.雨も上がりまずは、トイレ休憩にんまり



道の駅みなとオアシスうわじま、きさいや広場は2009年4月に宇和島港近くにオープンした、宇和島市の新しい交流拠点施設です。グルメやショッピングなどで宇和島の魅力に気軽に触れることのできる場所として賑わっていました。

食も文化もぎゅっと詰まった 宇和島市の新しい交流拠点施設…ここで、我が家の女性陣が立ち寄ったのが、宇和島真珠キラキラsosやべー



愛媛の真珠養殖は、明治40年に平城湾で小西左金吾によって興された、アコヤ貝の購入事業に始まり、大正4年には、真円真珠の生産に成功したそうです。昭和10年には、大月菊男によって宇和島市坂下津、三浦湾においても真珠の生産が開始され、良質の真珠が採れるところから、宇和海の真珠の名声が次第に高まっていきました。



その後、真珠生産に従事している漁業者の技術革新と品質向上へのたゆまざる努力によって、宇和海の真珠生産は昭和42年、我が国で3位の実績をあげ、昭和53年には先進地の三重県を上まわる11,000kgの生産高を記録して、日本一の座に輝くとともに、世界的に飛躍しつつあるとのことです。



リアス式海岸による深い入り江に、波静かにさざめく宇和海。そこは真珠養殖地として最も恵まれた自然環境にあります。この自然の恵みをうまく活かし、母貝を育て、核入れをほどこして養生させた後に沖へ出します。優れた技術と緻密な作業、こまやかなこころくばりで宇和海の真珠は生み出されています。また、万物の母とされる海は、真珠をやさしく育む母でもあります。そして、この美しく静かな宇和海に磨かれる真珠だからこそ、その光彩はひときわ美しく、世界の人々を魅了してやみません。

宇和海の恵まれた自然にいだかれて、真珠は「月のしずく」「人魚の涙」などと称えられるジュエリーへと育つのです。美しく豊かな宇和海で育まれた最高級の真珠は、多くの人々の心を魅了し、広く愛されています。

女性陣も満足はてな次に進みますえーん



  

Posted by きくいち at 10:14Comments(0)大将

2015年08月30日

道後温泉の側にある伊予守護の居城(湯築城跡)

四国旅、2日目のスタートは道後温泉のすぐ側にある道後公園です。ここは国指定史跡となっている湯築城跡です。8年前にここを訪れた時に皆と行動を別にして園内をゆっくり散歩したことがあります。今回は朝も早く資料館も開園していず、時間も限られていたので写真を数枚撮って次の目的地に向かいました車汗うわっ



道後公園(湯築城跡)は、道後温泉で有名な愛媛県松山市の道後地区にある面積8.6haの県立都市公園で、松山城から東へ2km、JR松山駅から東へ3.5kmの距離に位置しています。





道後公園の地形は、直径約350mのほぼ円形状で、中央部は30m程度の高さの丘陵地となっていて、公園全域が、中世伊予の守護河野氏の居城として、14世紀前半から16世紀後半にかけての250年間存続した城跡であり、堀や土塁(どるい)など城の地割(じわり)が当時の姿のままよく残っています。外周は湯築城の外堀で囲まれ、丘陵部を取り巻くように内堀が巡っています。



湯築城は、南北朝時代の築城当時は丘陵部に三段の曲輪が設けられた丘城でしたが、戦国時代に丘陵部を取り囲むように内堀と外堀が設けられました。



湯築城の外堀は、ほぼ完全な状態で残されていて、堀の内側には高さ約5m程の土塁が廻らされています。その内側が河野氏の上級家臣の屋敷が建ち並んでいたようで、発掘調査に基づいて、武家屋敷の一部が復元されています。




武家屋敷街と丘陵の間には内堀と土塁が復元されていて、土塁は、内堀の外側に築かれた外土塁形式となっています。(東側大手口と武家屋敷との境に遮蔽土塁が復元されている)


•湯築城の縄張り図(現地案内板より)

湯築城は、中世の伊予国の守護であった河野氏が南北朝期から戦国期(14世紀前半〜16世紀末)まで、約250年間にわたって居城としていました。河野氏は、風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185年)では河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。

承久の乱(1221年)で没落するものの、通信のひ孫通有が元冠(1281年)で活躍し、一族の力が復活した南北朝期の通盛の時(1335年前後)に河野郷からこの湯築城へ本拠を移しました。その後、有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍家と結びつき近隣の大内・大友・毛利氏などと同盟や縁威関係を持ちつつ、伊予の守護としての地位を確立しました。庶子家との争いも克服し、通直(弾正少弼)は、湯築城の外堀を築き(1535年頃)娘婿の村上海賊衆(来島通康)との関係を強化しましたが、後に離反し、一族の力は徐々に衰えていきました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に湯築城を明け渡し、平安時代末期から戦国期(12世紀末〜16世紀末)までの、実に400年の長きにわたる河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。

※鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、河野通信の孫にあたります。

朝からの雨雨松山を後に次の目的地に急ぎます汗汗


  

Posted by きくいち at 23:18Comments(0)趣味

2015年08月30日

★出世大名家康くん市民応援団

【8月29日】
只今の『家康くんハウス』now☆
ライトアップされて、家康くんが、浮き出てますよ☆☆☆




家康くんに、power頂きました!
もう少し、お仕事、ガンバりまぁす( ☆∀☆)

清き一票を!  

Posted by きくいち at 11:05Comments(0)女将FB

2015年08月29日

夜の道後温泉…坊ちゃんカラクリ時計

日本三古湯の一と言われる道後温泉。その存在は古代から知られています。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一にも見られます。かつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたようで、これはこの温泉にちなむ地名だそうです。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説があるそうです。



道後温泉はこれまで何度か行ってますが、夜の道後温泉の街を散歩したのは初めて、ライトアップされた道後温泉を外から眺めるのは、心安らぎますおすまし



浴衣姿でそぞろ歩く観光客。道後温泉本館屋上には赤いぎやまん張りの振鷺閣が目を引きます。この中には、朝・昼・夕方と1日3回時を告げる刻太鼓があり、古くは聖徳太子から、歴代多くの皇族方、昭和天皇、夏目漱石まで入浴されたというロマンを感じられました温泉ウィンク



坊っちゃんカラクリ時計は、道後温泉駅の正面(放生園)にあります。カラクリ時計は、道後温泉本館の振鷺閣をモチーフにした時計で、軽快なメロディにのって時計台がせり上がり、夏目漱石の小説「坊っちゃん」の登場人物が現れます。その横には足湯があり、いつも多くの観光客が利用しています。

■上演時間・・・8:00~22:00(1時間ごと)、特別期間は30分ごと
■特別期間・・・3月20日~5月30日、 7月20日~9月30日、11月20日~1月30
  

Posted by きくいち at 15:42Comments(0)大将

2015年08月28日

道後キュイジューヌが誘う新しい道後温泉(茶玻瑠 )

今回の宿泊先は道後温泉「茶玻瑠」さんです。

名前の由来は、「茶」は「茶の湯」から名付けたもので、おもてなしの心を意味し、 「玻」は七宝の一つ「玻璃」から名付けたもので、宝石と同じ様に技(人、料理)も毎日磨いてこそ輝くというその精神を意味、そして最後の 「瑠」は七宝の一つ「瑠璃」から名付けたもので、瑠璃のような清らかで深い奥ゆかしさの中にさりげないセンスを漂わせ、やすらぎとくつろぎを感じさせるその環境を意味しているのだとか…。人肌のおもてなし、温かな笑顔とおもてなし、ありがとうございました。

【当日の献立】
先付:本日の逸品

八寸:旬の彩り前菜五種盛り

向付:本日のおすすめ鮮魚の四点盛り

蒸物:甘トロ豚の蒸籠蒸し

洋皿:厳選伊予牛ステーキ

揚物:鱧の東寺揚げ

替鉢:伊予柑鯛素麺

食事:茶玻瑠自慢の鯛飯
香の物
吸物
甘味:宇治抹茶あんみつ 風鈴仕立て

地酒:辛口雪雀


料理もお酒も堪能しましたナイフ&フォーク温泉上昇

  

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2015年08月27日

★豊橋美術館(女将FBから)

急遽、豊橋美術館に来ています
特設展は、岡本太郎vs中村正義展でした。



昔から岡本太郎さん、好きなんです~
独特の感性を持たれてて、色調の豊かさにエネルギー‼入ったぞ❤
中村正義さんは、多面性を持った方と、絵を見て感じました。
芸術的な格好いいコメント出来なくて、太郎さん、正義さん、ごめんなさい♪

  

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2015年08月27日

タオルの概念を変える!今治タオルの魅力

100年以上の歴史をもつタオルの一大生産地で、made in 今治と言えば、高級・上質タオルの代名詞です。



今治のタオルメーカーを取りまとめる四国タオル工業組合では、独自の認定基準に合格した、上質のタオル商品であること保証する、ブランドマーク&ロゴデザインを定めているとか…?
「白」は、「空に浮かぶ雲」と「タオルのやさしさ・清潔感」を。「青」は、「波光煌めく海」と「豊かな水」を。「赤」は、「昇りゆく太陽」と「産地の活力」を表し各々の色のイメージを重ね合わせ新しいJAPANブランドとしてのメッセージとして託しているようです。



内祝いや出産祝いの定番、タオル。そんなタオルの中でも段違いの品質を誇るブランド「今治タオル」。国内最大規模のタオル産地、四国愛媛県北部の地で、百十余年の歴史がある。伝統的な製造技術と最新技術を巧みに融合させながら、使い心地を重視したタオル。



今治のタオルメーカーがニューヨークホームテキスタイルショーでグランプリを連続で受賞するなど海外でも注目されたことから、経済産業省の「JAPANブランド育成支援事業」に指定され、今治タオルとしてブランドを確立する取り組みが行われているのだそうです。



ちなみに、今治タオルの特徴はというと、一番は吸水性!
汗や水分を素早く吸収するので、風呂上りに体を拭いても汗をぬぐってもべとつかず、肌にもやさしいのが特徴です。

毛布みたいな肌さわりで、とにかくやわらかいく、娘が言っていましたがバスタオルを初めて使ったときの、感動はいまだに覚えてると…。今回も6000円ぐらいのタオルを買っていましたびっくり本人曰く、いい買い物をしたと喜んでいましたので、皆さんも愛媛に来たら、お土産に是非どうぞニコニコ
  

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2015年08月26日

2017年NHK大河ドラマ…舞台は浜松?

2017年のNHK大河ドラマが、戦国時代に男性の名で城主となった女性・井伊直虎の生涯を描く「おんな城主 直虎」に決りました。

俳優の柴咲コウさんが主演。脚本は朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」などを手がけた森下佳子さんが担当する事をNHKが発表しました。

発表を知り調べてみると、井伊直虎は徳川家康を支えた重臣・井伊直政の養母で、若くして出家しましたが、井伊家の当主が相次いで亡くなったため、男性名で還俗。遠江の城主として、群雄割拠する戦国の乱世に立ち向かった人物とだったそうです。勉強不足で、自分も知らなかったのですが、直虎は、地元の英雄…?これで浜松も少しは注目されるのでは…「おんな城主 直虎」56作目の大河ドラマに期待ですちょき


(写真はネット抜粋)

直虎に関する詳細な記録は残っていないようですが、柴咲さんは記者会見で「男性社会の中で負けない精神の強さがある。史実に残っていない願望も含めて、壮大に作り上げることができると思う」と話したそうです。

私も井伊城には2年前の夏に行ってきましたにっこりナイス

今から再来年が楽しみです応援ヨロシクなのじゃ

  

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2015年08月26日

★夏休み最後の宿題(女将FBから)

今日は、最後の宿題、家庭科、タイトルは、幼児のおやつ☆『さつまいものお団子』





幼児が食べるから、さつまいもの味と、外にふりかけるきな粉がメイン♪
お団子じゃなくて、雪だるまにする発想が、中学生☆なかなかオモロイ( ☆∀☆)
  

Posted by きくいち at 15:18Comments(0)女将FB

2015年08月26日

藤堂高虎の傑作、最新鋭で斬新な海城(今治城)

城づくりにおいて築城三名人といえば、加藤清正、黒田官兵衛、藤堂高虎の3人ですが、中でも藤堂高虎という人は生涯において20以上の城づくりに関わった城づくりのスペシャリストと言える人物です。その藤堂高虎が携わったお城の中に今治城があり、数ある名城のなかでも斬新で新しい時代を象徴するお城であると言えます。



今治城は1602年に築城が開始され、完成までに6年の歳月を費やしました。それまで今治の支配拠点は国府城というお城だったものの、唐子山の山頂に位置し、都市型の城が時代にマッチしているという判断から築城決まったといいます。海上交通の要所でもある今治らしい作りも随所に見られますが、当時の外観や内部と復元された現在のものとは全くの別の物で、実際には当時日本初の層塔型であった天守ですが、現在は鉄筋コンクリート製の望楼型になっています。今治城の天守は京都の丹波亀山城に移築されたとも言われています。



今治城を訪れる人のほとんどが、最大幅60mもある巨大な水堀に驚くことでしょう。しかも大変面白いことに、水が澄んできれいなためよく見てみると、鯛やヒラメが泳いでいるのが見えます。お城の水堀に海水魚が泳いでいるなんて前代未聞!今治は海上交通の要所で、お堀を作る際に瀬戸内海から水を引き入れているのです。



これまでお城が海に面するなど絶対あってはならないタブーでもありました。これは海にから自由に侵入できるという最大のデメリットがあった。しかし、弱点を逆手にとって海への出陣をスムーズに、そして海上掌握健を得ることに成功するなど戦略的に優れた水堀となっていて、これこそが弱点を利点にした藤堂高虎のアイデアです。



伊予今治城は関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城です。別名吹揚城(ふきあげじょう)ともいいます。




慶長7年(1602)に築城を始め、建造物も含めて完成したのは同13年頃と推測されます。海水が引かれた広大な堀や、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城でした。寛永12年(1635)より松平(久松)氏の居城となりました。




明治維新後に建造物のほとんどが取り壊され、内堀と主郭部の石垣を残すのみとなりました。昭和28年(1953)に県指定史跡となり、昭和55年(1980)以降、主郭部跡に天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せています。


今治城正門へ向かう土橋です。



枡形の入口には往時、高麗門が建っていたようですが再建はされていません。




右奥の黒い門は鉄御門(くろがねごもん)。正面の巨大な鏡石を含め、鉄御門の石垣は明治期にほとんど撤去されていたため、門の再建時に築城当時の野面積みで復元したとのこと…。鏡石は勘兵衛石と呼ばれ、築城奉行を務めた渡辺勘兵衛に由来するのだそうです。


2007年に復元された鉄御門は厚さ3ミリの鉄の板を打ち付けという真っ黒な門扉です。枡形虎口の原型とされています。さらに門前を土塀ではなく多聞櫓で囲ってあるのも特徴で、はしごを使っても突破できないようになっていて、防御面にも優れた城と言えます。(鉄御門…その名の通り、全面木部全体に3mmの黒い鉄板を鋲で打ち付けた力強い門です)


鉄御門を越えると二の丸へ。現在は広場になっていて、ここから見る本丸の天守(模擬)と、二の丸に建つ藤堂高虎公の騎馬像のコラボが素晴らしいです。


天守のある本丸へは、二の丸の奥から入ります。二の丸の奥には城主が住む御殿が建っていたようですが、現在は石碑等が建つだけで建物は何もありません(角の御金櫓は復興されている)。


本丸御門へ。現地ガイド氏曰く、天守は高虎時代には本丸の中央に建っていたようですが、天守台(石垣)がなく跡地には神社が建てられたため、再建された模擬天守は本丸北端の北隅櫓跡の櫓台上に建っているとのこと…。


本丸御門前の今治城沿革 説明板。高虎が建てた5重の天守はその後 丹波亀山城の天下普請の際に移築され、明治になって建物は破壊されたため残っていません。



本丸内は主に吹揚神社の境内となっています。



今治城 現天守。昭和55年に再建された模擬天守で、当時の高虎天守に関する詳細な史料が残っていない(天守が建っていたという文書以外の物的証拠もないらしい)ため、やむなく模擬天守となったとのこと…。移築されたという丹波亀山城の古写真では破風などが一切ないシンプルな層塔型天守ですが、模擬天守には大きな千鳥破風がついています。さて当時の今治城天守は果たして…よく見ると、石垣(北隅櫓台)よりも一重目の建物の方が大きく、かなりせり出している凄い構造になっています。


鉄御門の反対側、城の北西部にあたる、山里櫓とその裏側にある山里門の様子。山里門は橋の手前にある門ではなく、山里櫓に付随している門(この角度からは見えない)


鉄御門 方面。門だけでなく、付随する長大な多聞櫓まで復元されていることが分かります。先端に建つ二階櫓は武具櫓で、天守と同時期の昭和55年に再建されたものです。



南東方面。角に建つ二階櫓は御金櫓、昭和60年に再建され、内部は郷土美術館になっているとのこと…。

御金櫓へ続く土塀。


北東方面。本丸内に建つ吹揚神社。表から見るよりずっと大きい、立派な神社です。


天守を出て二の丸へ。高虎公 騎馬像。名前は側面に付いていることが多いような気がしますが、正面についていました。鉄御門パンフによると、この高虎公像は彫刻家 中村晋也氏による平成16年の制作とのこと。(鉄御門再建と同時期)




山里櫓と山里門、旧町名山里通り


武具櫓…石垣も再現工事時の積み直し(石垣も破壊されていたため)だが、所々石灰岩と思われる白い石が混じっているのが良い感じ。


今一度、二の丸および模擬天守を見ます。高虎の建てた天守は層塔型と言われていますが(移築先の丹波亀山城天守が層塔型だったため)、模擬天守は何故か望楼型です。


鉄御門を出て、土橋上から内堀および二の丸石垣を見ます。犬走りの上に樹木が植えられていて、石垣が見えないのが少し残念です。


土橋を渡り、内堀の外側から土橋および鉄御門方面を見ます。土橋を渡りきったあたりから犬走りへ降りる石段があるようですが、行かなかったので立ち入りできるかは不明です。


土橋横の駐車場に今治城跡の立派な石碑が建っているのを発見しました。奥のスーツメガネの銅像は檜垣俊幸翁とのこと…。今治市名誉市民で今治造船の会長らしく、ここに立ったのは、氏が鉄御門再建や高虎公騎馬像の設置に尽力したから、とのことだそうです。銅像作成者は高虎公像と同じ中村晋也氏。


天守は模擬ですが、内堀に浮かぶ石垣に囲まれた城内には高虎公の騎馬像が立ち、そして何より史実再現された見事な鉄御門があり、見所は多かったです。



最後にまとめ…今治城の見どころ
築城の名人藤堂高虎が、伊予半国20万石の居城として築城しただけに、三重の堀に海水を導入した、大規模な海岸平城です。今は本丸の周囲の内堀しか残っていませんが幅の広い堀、高虎築城の城によく見られる犬走りのある石垣、その上には復元された隅櫓、そして高々とそびえ立つスマートな感じのする天守は、結構絵になります。

今治城の五層の天守は、 丹波亀山城の天守として移築(明治まで存続)され、古写真を基に現在の天守が建てられました。天守同様に、御金櫓・山里櫓・武具櫓・鉄御門が復元されています。

今治城の駐車場辺りから見る鉄御門と武具櫓とそれに連なる多聞櫓、そして後に天守、近世城郭の典型的な姿はお城好きにとって堪らない光景です。私も何枚カメラのシャッターを押したことか…にっこり



歴史…慶長5年、関ヶ原の戦功により藤堂高虎は、伊予半国20万石に加増され、今治城を築城して居城を伊予宇和島から移した。慶長13年、高虎は伊勢・伊賀22万石へと加増され伊勢安濃津へ移封されたが、今治城は藤堂氏の飛び地領となり、養子藤堂高吉が2万石を領し居城する。寛永12年、藤堂高吉は伊賀名張に移り、替わって松平定房が伊勢長島より3万石で入城する。 以後久松松平氏が⒑代続いて明治を迎えた。

日本三大海城の一つ、今治城は三重の堀に海水をたたえた海城 でした。海城を満喫し大満足でしたちょき

  

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2015年08月26日

★第39回スッポン供養祭(女将FBから)

【8月25日】
第39回、スッポン供養祭、突風にも負けず、 滞りなく終わりました。in 佐鳴湖






生きてるものを、食する尊さを、見つめ直す1日になりそうです。
日本語、おかしかったら、ごめんなさい。

PS 皆さん、懇親会までお付き合い頂き、有難うございました。





スッポンジュレのスープ…献立にもお気遣い頂き有難うございました。



今後とも組合活動にご協力をお願い致します。

  

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2015年08月25日

遠く芸予諸島まで一望出来る城…今治海山城公園(遠見山城)

瀬戸内しまなみ海道を抜け、四国今治市に…もちろん目的地は今治城。ただその前に少し寄り道を…立ち寄り先は今治市波方郷にある「海山城公園」の展望台。事前に調べてはいったのですがナビでは現地案内が出ず、町の主要場所を頼りに走行していると、なんとラッキーにも案内板を発見…ナイスこれで、ここも立ち寄れます。ニコニコ

この公園一帯が旧海山城(遠見山城)とされている。



遠見山城(おみやまじょう)…別名 海山城(砦)
現在「海山城展望公園」となっていて、観光用の模擬天守が建てられています。

砦は海山山頂部を削平した単郭の縄張りで、資料に拠れば曲輪北側に土塁が記されています。確かに盛土はあったが、これが遺構なのか、それとも公園化の際に作られたものなのか判別はしがたい…?



歴史…遠見山砦は、築城年代や築城者は定かでないが、大宝律令時代から烽火台ととして利用されていた。 中世初頭の頃には養老館を構えた在地勢力の詰の城として活用され、室町時代には来島村上氏の勢力下に入り、来島城・波方館の水軍城砦群の一つとして遠見番所が置かれた。



展望台から見た瀬戸内に島々にっこり




  

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2015年08月24日

★ひとり呑み(女将FBから)

【8月23日】
今日も1日、息子の用事がおわり、
ひとり、お酒、呑みにきてまぁす( ☆∀☆)
皆さん、1週間、お疲れ様でしたぁ☆☆☆



明日からも、1週間、頑張ってね♪
でも、やっぱり、ひとり、淋しい…ね
  

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2015年08月24日

港から見上げる山城には三層の模擬天守が…伯方ふるさと歴史公園(木ノ浦城)

伯方島に立ち寄ったもう一つの理由は、伯方ふるさと歴史公園に行ってみたかったからです車



伯方港や燧灘を望む高台にある伯方ふるさと歴史公園は、かつて存在したとされる木浦城の居館などを想像的に復元しています。(中世前期に築城されたとされる木浦城の居館・城門・望楼等を復元するとともに、平成元年にこの高台(山頂)で発見された岩ヶ峰古墳を保存し、ふるさと歴史公園として整備した)




大規模な城郭であったようですが、整備されすぎて、面影はありませんでした。資料館の前に当時っぽい門を復元したと書かれてあり、郭はほぼ東西一列に並んでいました。



資料館には、伯方島から出土した土器などの考古資料のほか、塩田や海運業など島の暮らしを物語る歴史民俗資料を展示しています。



伊予 木ノ浦城…木ノ浦城は、木浦港を見下ろす丘陵山頂部に築かれたています。
現在は、「伯方ふるさと歴史公園」となっていて、模擬天守(資料館)、城門、井楼が建てられていて、公園から瀬戸内の島々を眺めは一見の価値があります。



城の縄張りは、公園化によって改変されていますが、資料の縄張り図を参考にすると、模擬天守がある一帯が主郭で、一段下がって駐車場となっているところが二の曲輪、井楼がのある当たりから西側が三の曲輪であったようです。 



伯方島の城独特の呼び方だそうですが、駐車場あたりが三平、建物がある辺りが二平、古墳が本楦(本丸)と呼ばれ。また、本楦の西には堀切~御前曲輪があったようです。そしてすべての郭を取り囲むように武者走りもあったようです。




本楦跡には岩ヶ峰古墳があり、土器や鉄器、製塩土器が見つかっていて、築城以前から有力者が居たことがわかります。古墳に関しては築城時に大方取り除かれたようです。




歴史 (現地案内板から)
木ノ浦城は、嘉応2年頃に紀氏によって築かれた。 紀氏は、源平合戦の頃には伊予河野氏の有力な武将であった。 承久の乱には後鳥羽上皇方として河野氏にしたがって出陣したが敗れ、鎌倉方の攻撃を受け落城し、紀氏は滅亡した。




瀬戸内の島々を抜けいよいよ四国に上陸ですちょき
  

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2015年08月23日

伯方の塩を使って伯方島をアピール「伯方の塩ラーメン」

しまなみ海道(西瀬戸自動車道)は、広島県尾道市の尾道ICを起点とし、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市の今治ICに至る、59.4kmの本州四国連絡道路です。6つの島を抜け今治に渡りましたが、今回は途中で二つの島に立ち寄りました。前回の記事で紹介した、因島ともう一つは、「伯方の塩」で有名な伯方島。この島には、造船所4社があるほか内航船主体ながら船主の集積も見られ、海運と造船の島としても知られています。

全国ブランドの「伯方の塩」は、伯方島が発祥の地です。かつて瀬戸内海には多くの塩田が存在しましたが、昭和46年に施行された「塩業近代化臨時措置法」により日本中の塩田は廃止に追い込まれました。しかし、「自然塩(塩田製塩)を残そう」という消費者運動もあり、昭和48年に伯方島で特殊用塩として生産できるようになりました。

今回この島に立ち寄ったのは、伯方の塩をベースにした今までの塩ラーメンとはひと味違う 瀬戸内海をイメージして創り上げた優しいラーメンがあるという事で是非食べてみたかったからですナイフ&フォーク



しまなみ海道が開通する前年、伯方島の塩田で生まれ育った「さんわ」の店主福羅さんは、全国的にも知名度のある「伯方の塩」が「伯方島」で作られていることを知ってもらおうと「伯方の塩ラーメン」を完成させました。県外の物産展などにも積極的に出向き、塩ラーメン作りに意欲を燃やしています。



「さんわ」さんのオリジナル塩ラーメンです。あっさりしていながらこくのある塩味ベースのスープに岩海苔の香りがマッチした塩ラーメンの傑作です。



伯方の塩ラーメン…あっさりだけどコクがある塩スープ。太めのお素麺のような、白い細麺がスープによく絡みます。(麺は細ストレート角麺、茹で加減は普通で加水率が高そうです)、具は厚めのチャーシュー、メンマ、海苔、きくらげ、ネギ、カマボコ、うずら卵。いっぱい汗をかいた体に味が沁みますナイス



うま辛ラーメン…2種類の辛子を使った自家製辛味ペースト入り。辛さはそれほどでもありませんが、ほどよくパンチがきいてとても美味しかったです。



コク旨塩ラーメン…特製にんにく&干しえびペースト入り。あっさりした塩スープに、にんにくの香りとコク、海老の旨みが加わって、ハマる味です。



塩はミネラル分を持っているものの、味噌や醤油のように旨み成分を持っていません。使い過ぎるとしょっぱく、足りないと水っぽくなり調節が難しい調味料です。しかし、ぜんざいなどの隠し味として投入されると、名脇役としていっそう主役の味を引き立ててくれます。

お吸い物やテールスープにヒントを得た伯方の塩ラーメンのスープは、野菜や煮干、豚骨、鶏がらなど17種類の食材を煮込んで取ったスープに、適量の塩を投入。するとその味が何倍も膨らみ旨みを引き出してくれます。極細のストレート麺とよく合い、塩味を前面に出し過ぎていない、深みのあるスープの味が感じられます。「瀬戸内海の穏やかな島の風景をやさしい味で表現したい。」という福羅さんの想いが表現されていました。



ラーメンの土産と供に100%柑橘ジュースも買ってきました。
はかた甘夏ジュース&はかたみかんジュース(500ml)…水を一切加えない無添加の100%ジュースです。よくある濃縮還元の100%ジュースではありません。 伯方島とその周辺の甘夏を衛生的な工場で搾っているそうで、刺激的だけども柔らかな酸味と美味さを感じるジュースでした上昇


  

Posted by きくいち at 23:06Comments(0)大将

2015年08月22日

水軍のふるさと、因島水軍城(片刈山城)

今年は何年かぶりに夏休みを3日間とりました。仕事から離れ気分をリフレッシュするには家族との旅行が一番ナイス子供達の仕事と自分の店の予約状況を考慮し、数か月前より計画した四国(愛媛)旅行は、やはり城廻にっこり
自分の思い中心で、家族には無理言って付き合ってもらった感はありますが、充実した休みを過ごせました。

四国への旅は8年ぶり、下の娘がまだ大学生で、神戸にいた頃、車で淡路島から四国を約1週した時以来です。前回は確か、高松(屋島・高松城・栗林公園)高知(はりまや橋・高知城・桂浜)松山(道後温泉・松山城)そして徳島鳴門海峡を廻ってきましたが、今回は、愛媛南部の城と(宇和島・大洲)今治城を中心にコースを考え新幹線と車の旅を計画しました。2泊3日でかなり強行ではありましたが…ウィンク

まずは新幹線で、尾道まで…そこから車で、しまなみ海道に入り、最初に向かったところは、因島水軍城です。



昭和58年、水軍のふるさと因島に築城された、全国でもめずらしい城型資料館です。



村上水軍は南北朝から室町戦国時代にかけて、この辺りの海路を制覇し、水軍王国として活躍しました。八幡大菩薩の旗を掲げ、朝鮮半島から中国、東南アジアまでその名をとどろかせました。





本丸には武具、遺品、古文書などの歴史資料が展示され、展望台を兼ねる隅やぐらは船の資料館となっています。



村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)です。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域で、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれました。



彼らの多くは真言宗徒であり、信濃町などに子孫が多いと言われ、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住んでいろそうです。主な活動は航行船の広宣流布・祈伏を通じた平和構築で、20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかと言われています。



代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など



備後 片刈山城(因島水軍城の模擬天守)





片刈山城は、因島中庄町の市街地背後にある独立丘の山頂部に築かれていて、現在も山頂部に数段の曲輪が残されているそうです。
西側の山腹に観光用の「因島水軍城」が建てられいて、村上水軍の資料などが展示されていて、ここからは、因島村上氏の居城であった青陰城が西側に臨むことが出来ます。 片刈山城は、築城年代や築城者は定かではありませんが、清原守高の居城と伝えられています。

しまなみ海道因島北IC~国道317号線…因島水軍城から今回の旅はスタートです。 車

皆さん暫くお付き合い下さいナイス


  

Posted by きくいち at 15:26Comments(0)趣味

2015年08月22日

★ゆるキャラグランプリ(女将FBから)

おはよっ☀☀☀
今日の浜松は、太陽3つかなぁ( ☆∀☆)
皆さんの、毎日1票、毎日1票をお願いします。





もう、遅れをとっていますので、巻き返す~!!!

  

Posted by きくいち at 09:46Comments(0)女将FB

2015年08月21日

★女将FBから

【8月19日】
息子の明日からのタイ遠征試合⚽中止になりました。
国境を越えて、サッカー⚽をしたいだけなのに…
なんとも言えない気持ちです。





1度も、ユニフォームを着ないまま、終わるなんて
でも、もっと、息子本人が一番ツラく、
悔しいから…見守ります。 母

【8月20日】
今の私の気持ち



ちょっと形、悪いけど、 愛❤は、たっぷりです


  

Posted by きくいち at 10:43Comments(0)女将FB

2015年08月17日

★2015年夏休み(女将FBから)

週末のスケジュール☆、少し、遠出もしたけど、やっぱり〆は、サッカー⚽だぁ~











私用に、ギンギン冷たい麦茶とアイスコーヒーの水筒、贅沢に2本作ったのに、両方、家に忘れたぁ(T^T)今日も、ゆでタコなり☆☆☆

  

Posted by きくいち at 10:21Comments(0)女将FB