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2013年05月31日

寿司屋がキスを敬遠するのは

キスは料理の万能魚で、昆布締め、尾をつけたまま三枚卸にしたものを結んだ結びキス、吸い物、焼き物、天麩羅、唐揚げ、骨煎餅などに使える万能魚である。その中でも、身の甘さをかみしめる刺身の糸造りと一夜干しが一番です。

 

中でも一番味わい深いのは単純に塩焼きかも知れません。皮目にやや日向臭い香りがあり、これが持ち味です。鮎の胡瓜の香りに匹敵しています。また歩留りが悪くぜいたくでありますが刺身の繊細なうまさは、初夏の爽やかな味わいです。あっさりとした中に脂が感じられ身の甘さをかみしめる刺身の糸造りは一番です。(皮に風味があるので焼き霜造りに、昆布締めにも向いています…シロギスを生で食べるには、たんに皮を引いて刺身でもいいのだが、その淡白さにもの足りないと感じる向きも多い。そんなときには皮目を焼き、冷水にとり、焼き霜造りにして刺身に切る。ほかには昆布締めもうまい)また病みつきになるのが酒干しで、三枚に卸して軽く塩をふり、酒で洗って一夜干します。

あまり大きな魚ではないのにうろこが硬いので調理がめんどくさいのが、この魚が最近ウケない理由の一つかもしれません。 水分が多いので、いかに水分を抜くかで味が変わってきます。例えば刺身の場合は、 開いた後で塩水で洗って水分を抜いた方が美味しく、天麩羅の場合も、丹念に水分をふき取るようにしたほうがふわっと美味しく仕上がります。 刺身、焼き魚、酢の物、天ぷら、吸い物種、干物、と何にでもできますが、 ずばり言って一番おいしいのは寿司だと私は思いますおすまし
カスゴより香り(風情)があり、サヨリ以上に上品です。 ところが、江戸前の多くの寿司屋ではキスを握りません。これはなぜかというと、「疫病よけに、神様の好きなキスを絶って願をかける」という教えがあるからです。 もちろん、こんな教えを知らないお寿司屋さんもいるでしょうが、 伝統的に師匠から習わなければ、なかなかレパートリーに入っていかないのではないでしょうか…?ひみつ  
 
 

キスが握りダネとして理想的な魚でありながら、不思議と大衆的嗜好の中に飛び込んでこない遠因の一つとして、「疫病神除けにキスを断って船玉様(船霊とも書く船の守護神)に願を掛ける」という俗信からきているのです。
寛政2年(1790)、江戸八丁堀で釣船を稼業とする清次が、自分で釣ったキスを築地に運ぶ時、船の中央から大男が現れて、「美味そうなキスだな。俺に一匹くれんか」と声をかけられ、驚いて恐る恐る差し出すと、大男はそのままムシャムシャとそれを食べてしまいました。そして大男はこう言いました。「ああ美味かった。 俺は疫病神だ。お前さんは正直な人間だからお前さんの名前を書いた紙が門に貼ってある家には、おれは決して入らないことにするよ」と言ってスーと姿を消します。それからまもなく釣船清次に名前を書いてもらうと疫病神除けとなるという噂が江戸中に広まって、 清次の家には名前をかいてもらおうという人が大勢おしかけて大騒ぎになったそうです。お上もこれは捨てておかれぬとお調べになったそうです。このような珍事が調書として残っているのは珍しいことで、しかも、この話にはオチもついている。疫病神とは実は神出鬼没の大怪盗で、お調べのあった翌年、悪運つきて御用となったと記録にあるそうです。 

シロギスは寒い時期には肌がざらりとして脂がなく、当然美味しいものではありません。これが若葉が芽吹いて、ときに蒸し暑い日々が続くと脂がのり、どんどん美味しくなります。寿司ネタとして使われるのもこの時期で、これが7月、8月ともなると産卵が盛期になり、とうぜん味が落ちてきます。目が覚めるような美しい白身にとろんと脂があり、甘くそして旨いシロギスはやっぱりいいですね…ニコニコ 

キスの持味…  続きを読む

Posted by きくいち at 11:17Comments(0)寿司ネタ

2013年05月30日

「渚の貴婦人」繊細で美しい魚(鱚)

キス(鱚)は繊細で美しい魚です。昔は江戸前の代表的な魚の一つでしたが、最近は漁獲量が減って人々の関心から遠ざかりつつあります。夏の料理には欠かせない上品な軽い味の魚なのにもったいないことですね。

体色は海底の砂に似た淡黄灰色で、腹は銀白色をしていて、20~30cm前後のものが多く、そのスマートなスタイルから「渚の貴婦人」や「海の貴公子」、また、「ゆかた美人」や「海のアユ」などと古くから形容されています。



初夏から初秋にかけて産卵する為、餌をよく摂るようになるので美味しくなり、餌を摂る為に水面近くに集まってくるので釣り人には楽しい気分が味わえます。一般に彼岸前後が旬と言われ、春~初秋の献立に登場いたします。又、魚編に喜ぶを綴った字を宛がっておめでたい献立'正月料理他、お祝い事'にも使われます。

魚種はシロギスとアオギス(ヤギス)が主に店先に並びますが、普通にキスと呼ばれるのはシロギスの方です。シロギスは背が淡い黄色で体長30cm程度、アオギスは背が青みがかっていてり50cmぐらいまで育ちます。味はシロギスのほうが繊細でクセがなく美味しいです。 

北海道以南から台湾やフィリピン近海まで広く分布していて、水が澄み岩礁帯が入り混じる砂泥底に棲み、秋から冬は水深40~50mの深場で過ごしています。(日が落ちて暗くなると砂に潜り眠り、朝日が出て明るくなると起き出すマジメ魚です)
産地としては九州以北、ほぼ全国に分布していますが、水質汚染に弱く、日本近海では漁獲量が激減しています。そのかわりに韓国から冷凍ものが多く輸入されるようになりましたが、冷凍にすることによって味が落ちます。シロギスは20cmまで成長するのに5年かかると言われているので、養殖もむずかしいでしょう。



沿岸魚の代表格がキスで、昔は日常の食材として天麩羅、塩焼き、酢の物として献立に致しましたが、昨今は他の魚種が豊富に手に入る事、待っていた旬の魚からは、ちょっと離れている魚の為、家庭料理からは珍しい魚になってしまいました。しかし、食べ方は洋風、中華風にと変化をつけて楽しむ事も出来る、下ごしらえで手間いらずの魚です。くせがなく、白身で、食べ易い大きさがいいですね。また晩春から夏にかけてが旬と言われていますが、一年を通してあまり味が変わりません。(脂質が1%と非常に少ないのが特徴。また、アミノ酸の中ではリジンやグルタミン酸が多いのが、 あっさりとした旨みの基になっています。水分が多いのでうまく水分を抜いて調理した方が美味しいです)
   

Posted by きくいち at 16:29Comments(0)旬の魚

2013年05月29日

すし屋の作法

このところ京都の話題が多かったのでたまには、すし屋らしい話題を…
すし屋に来てよく「すしの作法」をうるさく語るお客さんがいますが今日はその事について一言…。



江戸時代末期、すし屋は安い露店か料亭ばりの店舗を構える店とに完全に別個の商法として分化し、人々はそれぞれの身分と懐具合によって双方を使い分けていたと言われています。

すし屋の屋台はもっぱら夜のもので、日没と同時に辻々で店を開き元来が夜の商売である上に、銭湯帰りや酔客などが小腹が空いた時に、ちょっと一、二個つまむ。このように屋台のすしは大衆的なものだったのです。

それに対して、立派な店舗を構えた料亭風のすし店はお客さんを座敷に上げ、酒を供し、調理場で作られた物を運び、個室で食べさせていたのです。(したがって、客と料理人が顔を合わせるという事はなかった)

このように完全に分離していたかに見えた二つのすし屋の商法が、大正以降衛生面や道路整備などから屋台が都市から追い出され、それまでの屋台商人も店を構える事を余儀なくされました。

他方では、注文に対して目の前ですしを握ってくれるやり方は、すでに大衆の人気となっていた為、固定店舗を構えるすし商も、その流れに逆らえず、その結果として現在のような屋台と店舗をドッキングさせた店が誕生したのです。

以前であれば個室の中で、自分の好きな食べ方が出来た旦那衆たちも、今度は店の中に設置されたカウンターで他の客と袖摺り合わせて、すしを食べる事となり、この頃から、自分達の特権階級を誇示するために、いかにも正統派的な「小うるさい作法」が出来上がったと言われています。したがって、すし屋の作法とは、どの食べ方が本筋であるかと論ずること自体無駄と言えるのです。例をあげれば、すしを手づかみで食べるか箸でたべるかも、前者は屋台の食べ方で、後者は座敷での食べ方の違いにすぎないのです。
  

Posted by きくいち at 13:58Comments(0)大将

2013年05月28日

五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?

京都観光(京都の城廻)最後は、伏見城です。
伏見桃山城運動公園には天守閣を有するお城がありますが、これは豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです。運動公園のお城は、昭和39年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として建築された模造天守です。キャッスルランドは平成15年1月に閉園となり、その際、お城も取り壊される予定でしたが、存続を求める市民の皆様の要望により、伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています。

 

伏見城は、天正20年(1592)豊臣秀吉が隠居所として築城し、徳川家康が再興したお城です。
しかし、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあって、元和9年(1623)廃城となり、天守や櫓などは全国の城へ分与されました。
その後伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいのですが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられ城跡を自由に散策することは出来きません。

 

長束大蔵曲輪・御花畑に模擬天守が建てられいますが、本来の伏見城天守は二条城へ移築されました。以前は、模擬天守の中が、資料館となっていて、秀吉築城の聚楽第の復元(推定)模型が展示されていたようですが…うわっ 



伏見城花畑跡には遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られたそうです。
同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園しますが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備されました。ただ、模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっていて、バリアフリー対応などを含め改修に数億円かかるとされることから現在でも具体的な活用予定は無いようです。
映画やドラマの撮影等のロケ地としての活用も期待されたようですが、「時代劇冬の時代」を迎え、この5年間で3回しか利用されていないそうです…やべー
五層七重の威風堂々たる天守閣は、果して再び登城が許される日は来るのでしょうか…?

  

綺麗に整備されて天守の撮影が自由にできるのがいいですが(模擬天守でもここまで突き抜けてたらなんか良いんですよね)…内部非公開のままでは、あまりにも惜しい気がします。
 
さて、視点を移し、古城山の西側麓にある、御香宮神社に向いました。ここには伏見城の名残を見せる石垣と、当時の大手門が移築されているということで、伏見城を語るには必須な場所なんです。

  

御香宮神社…御祭神は神功じんぐう皇后、仲哀ちゅうあい天皇、応神天皇など9柱を祀る。
社伝によれば、貞観4年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、「御香宮」を賜ったそうです。以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたようですが、度々の兵乱や天災により荒廃します。
文禄年間、豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としますが、慶長10年(1605)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立されたそうです。(表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている) 
 
 
  
 

宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀きんのしつけたち(重要文化財)を蔵し、境内には、伏見義民文殊九介らの顕彰碑があります。また毎年、10月の神幸祭は、伏見祭・花傘祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われるようです。

【伏見桃山城】…   続きを読む

Posted by きくいち at 16:48Comments(0)趣味

2013年05月27日

同一騎手による東京優駿、父子制覇

昨日のダービーは感動しました。
JRA競馬の祭典・第80回日本ダービーで武豊騎手、騎乗のキズナが優勝しました。

競馬ファンならご存知でしょうが勝ったキズナは稀代の三冠馬あのディープインパクトの子供です。ディープインパクトは言わずと知れた最強馬。種牡馬として早くも7頭のGI馬を送り出していて、昨年のダービーでも、ディープブリランテが制し、史上7組目の父子制覇を達成しています。

さらにキズナの半姉にはファレノプシス(父ブライアンズタイム)は、'98年の桜花賞、秋華賞、2000年のエリザベス女王杯などを制した名牝ファレノプシス(父ブライアンズタイム)がいて、桜花賞と秋華賞は武豊騎手の手綱による勝利だった事は皆さんも覚えているのではないでしょうか?

もともとキズナの主戦騎手は佐藤哲三でしたが、彼が落馬負傷したことによって武豊騎手が起用されたわけで、こうして血統を見ると、もとから武豊騎手ととも強い「絆」で結ばれていたのではないかと思ったりしています…。

1990年代から2000年代半ばまで当たり前のようにダービーでも上位人気に乗ってきた武豊騎手ですが、1番人気馬に騎乗するのはディープインパクト以来8年ぶりで、ダービー勝利もそのディープインパクト以来途絶えていましたした。それどころか、彼の成績の下降に比例するように、ここ数年は見せ場も作れず2ケタ着順の惨敗に甘んじていました。



そんな中、キズナの馬主は、勝ち鞍が減った時期も変わらず武騎手をサポートしてくれた恩人だったようで、彼には期するものがあったのではないでしょうか…?

レース後の記者会見で「個人的なことですが、ここ数年は成績が落ちて、なかなかいい結果が出なくて苦しかった。でも、自分も負けずに一生懸命やってきたから、キズナという素晴らしい馬と巡り合えましたし、ずっとダービーを目標にしてきて、こうして答えが出せて本当に良かったですね」と、気持ちを表していました。

やはり、武豊は大舞台が最も似合う男です。競馬ファンもきっと、このシーンをずっと見たかったに違いないと思います。その鮮やかすぎる、そして美しすぎる勝ちっぷりに、昨日の東京競馬場は震えていました。こだまする14万人の「ユタカ」コールの中、天才は、ゆっくり、ゆっくりと喜びをかみしめるようにウイニングランを踏み、何度も右手を上げてその声に応えていたのです。
 
シビアな勝負の世界、結果が出なければ人は離れていきます。ただそうした中でも、彼は冷静に自らの現状も受け止めていたようで「勝ち鞍が減って、離れて行った人たちもいます。悪いのは去って行った人ではなく、結果を出せない自分なのだから仕方がない。でも、ずっと変わらず応援してくれている人のために何時か結果を出すと…」、あの「武豊」がこのまま終わるわけにはいかないと…。
 
馬の力も勿論ですが今回の勝利は武騎手の好騎乗によるものだと思います。
最後の直線、馬1頭分あるか、ないかの狭い箇所に勇気を持って突っ込み、力でこじ開け抜け出していったのです。ゴール前で測ったように福永エピファネイアを差し切ったこの瞬間、「飛ぶ」と評された武豊&ディープインパクトの姿を、キズナと武豊にダブらせたのは私だけではなかったかと思います。

武豊&ディープインパクトで忘れられないのが7年前の凱旋門賞です。3位入線もその後、禁止薬物検出のため失格となり夢を果せなかったレース…「ディープインパクトが凱旋門賞で負け、彼が引退したとき、ディープの子でいつか凱旋門賞に出たいとずっと思っていました」と語る彼に、そのチャンスが…。秋にフランスのロンシャン競馬場で行われる世界最高峰の舞台、凱旋門賞、父ディープインパクトの無念を晴らすことができるか、夢は大きくひろがります。日本競馬界の夢を追い、武豊とキズナがロンシャンの芝で「飛ぶ」姿を目に焼き付けたいものですニコニコ

   

Posted by きくいち at 15:28Comments(0)大将

2013年05月26日

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

二条城の次は、地下鉄で三条京阪まで出て京阪線で淀に向いました。目的は淀城です。
淀城と言えば、浅井三姉妹の一人でもある、豊臣秀吉の側室・淀君の居城として有名ですが、今の淀城はその秀吉築城の物ではなく、徳川政権後の政権初期に伏見城を廃止し松平定綱に命じ築城させた城です。徳川政権後は山城国としては唯一の大名家の居城となったそうで、秀吉の淀城は現在では「淀古城」と区別して表現され、場所も少し北のほうへ移動した場所になります。



淀城は京阪淀駅のすぐ北側にあります。駅を降りると、進行方向左手目の前にいきなり石垣が迫ります。(京阪淀駅のプラットホームの目と鼻の先に天守台の石垣が見える。本の丸南側の堀が今はプラットホームなのです)



駐輪場の横をそのまま進んで公園になっている本丸広場を眺め、天守台を見て来ました。
現在天守台入口にはフェンスがしてあり中に入る事が出来ませんが、フェンス越しに充分見学できます。ただここは、駅の南にすぐ京都競馬場がありますので、京都競馬が開催されている時は駅周辺はかなり混むと思います。(開催中でなくよかった…もし開催されていたら私はどちらに行こうかと悩んだのと思いますから…ニコニコ

 

現在の城跡は、本の丸部分と西・南部分の堀が残っていて(南東と北西の隅には櫓台跡が残っていて、に南東側にある櫓台が天守台)、本の丸周囲の櫓台には登ることができきました。石垣と内堀跡は今でも整然としていて、二の丸跡には城主であった稲葉氏を祭る稲葉神社があり、そこに建てられた説明板によって「秀吉が淀君の為に建てた城でなかった」ということがわかります。(淀君のお城として知られている淀城は「淀古城」と呼ばれ、淀城から北へ500mほどの位置にあったとされる) 



稲葉神社の祭神と淀藩について(現地案内板より)
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。元亀2年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉貞通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」である。正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり5万石を領した。
秀吉の没後、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、2万石を領したが寛永5年(1628)江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、5代目の正知の時で享保8年(1723)下総国(千葉県)佐倉より10万2千石で入封した。その後明治4年(1871)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年間にわたり淀藩主であった。
 


丹波櫓・西口門跡も比較的残っていて、ここから一旦場外に出て南側へ堀に沿って回る。南側が月極の駐車場になっているので遮蔽物が無く淀城本の丸がここから堀越しに見ることが出来きます。



当時の淀城は北を流れる桂川を堀として取り込み三重の堀が巡らされていたようですが、現在では内堀の一部と本丸と本丸天守台の石垣が残るのみで、当時難攻不落とされた淀城は想像するしかありません。

天守台に立ち入り禁止の鎖が張ってあったのは発掘解体作業の名残りが残っているのだと思います。私は足を踏み入れたい思いを押さえてその場を後にしました。


 
歴史(現地案内板より)
淀城は3つ存在した。 中世淀城(古淀城)は、管領細川政元が築城した。 次ぎに豊臣秀吉が天正17年、細川氏の淀城を改修し、愛妾茶々がここに居住した。 このため、茶々は『淀の方(淀君)』と呼ばれることになる。
大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、徳川幕府は伏見城を廃し、元和9年に松平定綱を遠江掛川から移して、近世淀城を築城させた。この時、伏見城天守を移築する予定で天守台を築いたが、実際にはひとまわり小さい二条城天守が移築された。 この天守は、元は大和郡山城天守とも言われている。寛永10年、松平定綱が美濃大垣に移封した後、永井・石川・戸田・松平(大給)氏と城主は替わり、享保8年に稲葉正知が下総佐倉から102,000石で入城して、明治まで代々京都の守護の任に当たった。  

【淀古城】
築城 室町時代、畠山政長が畠山義就への備えとして築城したのが始まりのようで、織田豊臣時代には諸将が攻防が繰り返さしました。天正17年(1589)、豊臣秀吉は側室茶々(後の淀殿)の出産のため、弟の秀長に城を修築させ茶々に与えました。淀殿が産んだ鶴松はわずか3歳で死亡、文禄3年(1594)淀城は廃城となりました。秀吉はこの時、築城中だった伏見城に建物を移したということです。徳川時代に入って築城され現存する淀城址と区別化するため、この城は淀古城といわれています。



京阪電車の淀駅近くにある淀城址から北へ歩いて7、8分のところにある妙教寺が淀古城の本丸、あるいは天守のあったところといわれます。妙教寺の門を入ったところで正面が本堂、すぐ左に鐘楼があります。この鐘楼脇に「淀古城址」の石碑がありますが、それ以外に古城址を示すものは何もありません。
  
現在淀城の公園は石垣などを内側から見学することができ、石碑なども設置されていましたが、残念ながら天守台へは立ち入り禁止となっています。正直なところ入り口から駐輪場の延長上のようになっていて石垣以外には見所が少ない城なのですが、政令市の郊外で、ここまで立派な近代城郭の遺構を見ることが出来きたのは素晴らしいことでした。
現在あたり一体が京阪本線淀駅の高架化の工事が進んでいるようで、近くの競馬場を含めエリア一体が再整備されるようですが、公園再整備が実現し新たな京都の観光名所として生まれ変わったら再び淀を訪ねたいと思います。
   

Posted by きくいち at 15:48Comments(0)趣味

2013年05月25日

お茶屋さんで遊んでみては…

京都、祇園花見小路のお茶屋に行って来ました。
お茶屋には「一見さんお断り」というしきたりがあります。そのため、最初は常連の方に連れていってもらうか、料理屋さんに紹介してもらうことが必要になります。(ただ料理屋さんで常連になるのも大変なことで…)

「お茶屋」は八坂神社や北野神社への、 参詣客のための「茶店」が発展してできた花街という名残りです。花街はお茶屋や置屋が集まって形成している街の事で、京都の祇園は全国的に有名です。京都には「五花街・ごかがい」といって、祇園甲部(ぎおんこうぶ)・先斗町・宮川町・上七軒・祇園東という五つの花街があります。



どんなところか簡単にいうと「お座敷」とよばれる部屋をいくつか持ち、お客さんの要望に応じて舞妓さんや芸妓さんを手配しお酒、料理など遊興に必要とする全てのものを段取りする店の事で、そのほとんどが「一見さんお断り」のスタイルをとっているのです。

舞妓・芸妓は、今からさかのぼること約300年程前の江戸時代に、神社仏閣に参詣する人や旅人にお茶をふる舞っていた水茶屋から生まれました。そこで神社仏閣に参詣する人や旅人にお茶やだんごを運んでいた「茶汲女(ちゃくみおんな)」が、歌を聴かせたり舞を舞ったりしたのが、舞妓・芸妓のはじまりといわれています。

そのうちお茶やだんごだけだったのが、お酒や料理がメニューに加わり、茶汲女たちも歌舞伎の芝居をまねたりして、三味線や舞踊を披露するようになったとか…?そこから現在の舞妓さん、芸妓さんが生まれたんですねえ。
ちなみに関西では「舞妓」と呼ばれていますが、関東では「半玉(はんぎょく)」と呼ばれています。

祇園がもっとも栄えた19世紀初頭はお茶屋700軒、芸妓・舞妓が3000人ほどいたといわれています。しかし今では80軒から90軒ほどで、芸妓・舞妓合わせても100人ほどになってしまったとか…?そんな貴重な存在だからこそ、お茶屋に足を運びたくなるのかもしれません。



「舞妓」と「芸妓」の違いですが、芸妓になる前の修練期間を「舞妓」と呼び、いきなり芸妓にはなれません。舞妓は一人前になるまで、日本舞踊にお茶、お三味線に礼儀作法の他言葉づかいなど、さまざまな芸事を身につけるために、日夜稽古に励んでいます。修行は芸妓になっても続き、辞めるときがくるまで稽古はずっと続けられるのだそうです。

しかも芸事だけでなく、人への気配りや機転、話題の豊富さなど接客業としての基本中の基本をみっちりと体に叩き込まなくてはなりません。それにはたゆまぬ努力が必要なんです。
まさにお客は、その努力に対し高いお金を払っているといっても過言ではないわけです。
そんな努力を重ねて、長年の修行を積んできた芸妓はいわば生きた伝統文化。 その魅力をどう引き出すか、どう楽しむかは、お客の手腕にもかかっています。しかし、残念ながらそんな「粋」をわかるお客も減りつつあるとか。

お客が舞妓や芸妓を育てていくものだという方もいるこの世界では、他のお店では味わえない、お客と舞妓や芸妓との両者間で、目に見えない真剣勝負がそこであるのだろうと思います。

「一見さんお断り」というしきたりは、300年の歴史のなかで、お客を大切にもてなしたいという心遣いが、 必然的に作っていったものなのかもしれませんね。お客の方も、仕事やマナー、素性などを厳しくチェックされるお茶屋に認められているということは、ひとつのステータスでもあります。だからこそ、お茶屋遊びに魅力を感じる人たちが多いのでしょうね。
 
現代では、お茶屋のスタイルも徐々に変わりつつあります。ホームバーをもったり、舞妓・芸妓のイベントへの派遣、着付けの実演などお客がいろんな企画をし、それに柔軟に対応していくスタイルを確立しています。格式や伝統をそのままに、時代の流れをうまく取り入れる柔軟性が、 お茶屋が現代でも続いている理由なんでしょうね。 
   

Posted by きくいち at 15:24Comments(0)大将

2013年05月24日

京の都に時の支配者が次々と造ったお城

二条城は皆さんも修学旅行や京都旅行で、何度となく訪問した事があると思います。ニコニコ
久しぶりとはいえ私も今回が5回目の訪門ですが、お城は何度行ってもいいものです。世界遺産としても登録されている二条城はさすがに訪れる人が多く、一般の旅行者や修学旅行者、そしてたくさんの外国人観光客であふれていました(円安の影響か…?うわっ

拝観料600円を払い、東大手門より入場。東大手門…屋根は本瓦葺で入母屋造りで棟には鯱が飾られています。形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡して,その下を門とした形式になっています。



東大手門を抜けると、広い敷地になっていて、二の丸御殿を取り囲む白い塀が目の前に現れます。右手には、普通のお城には無い番所があります。(ここは将軍の別邸…?将軍様は常にいないので、近隣の大名が交代で当番するための番所があります)
番所…徳川将軍不在の二条城は二条在番と呼ばれる,江戸から派遣された武士によって警備されていました。毎年2組(1組50人)が4月に交代して番にあたりました。この番所はそうした詰め所の一つで正面十間(19.6メートル)奥行三間(6.06メートル)の細長い建物です。現在、門番所の遺構は少なく貴重な建物です。



大手門を抜け、左手に歩くと左側に東南隅櫓が見えます。
東南隅櫓…二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本丸や二の丸の隅にありましたが、天明8年の大火の際に多くの櫓が焼失してしまい、今はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。



東南隅櫓を外から撮った写真が、二条城の代表的な画像として良く使われています。



人波に沿って白い塀を右に曲がるとすぐに、二の丸へ入る唐門が目に留まります。
豪華絢爛な唐門前は、写真撮影のスポットでこの唐門を背景に、多くの人が記念撮影をしてました。
唐門…切妻造,桧皮葺の四脚門でその前後は唐破風造となっています。彫刻がふんだんに使われていて、彫刻で装飾された姿はやはり目を奪います。(障壁画と欄間は素晴らしいびっくり

  

さて、二条城のメインは、やっぱり国宝の二の丸御殿。その大きさと迫力には圧倒されます。この二の丸御殿は、内部は公開されていますが、撮影禁止なのでお見せ出来ないのが残念です。
正面の車寄せから入り、少し薄暗い廊下を歩く。この廊下、「うぐいす張りの廊下」で、歩くとキュキュと音がします。二の丸御殿は、式台・遠侍・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6つの棟からなっています。最初の棟の遠侍は、大名や天皇の勅使が控える部屋。次の式台には老中がいて、大名が挨拶を行ったらしい。各部屋は、狩野派の襖絵や障壁画が描かれてる。老中達がいるこの式台を抜けると、大広間。この大広間で徳川慶喜が、大政奉還を行ったところです。(実際に見ると、思ったよりも狭い感じしました)

大広間を抜けると、蘇鉄の間があり、その先の黒書院は、将軍と老中や大名との内輪話の場で、白書院は将軍の寝室や居間になっています。(蘇鉄の間は、公的な式台・遠侍・大広間と、私的な場の黒書院・白書院を結ぶ通路みたいなものです)
各棟には、音声ガイダンスの装置があって、ボタンを押せば音声で詳しく説明してくれます。 



二の丸御殿を出て二の丸御殿庭園へ向かいます。この庭園、書院造庭園で、池を中心とした造りです。二条城には3つの庭園があります。江戸時代からある二の丸庭園、明治時代に造られた本丸庭園、そして昭和に入ってから造られた清流園があります。全部を見学できるわけではなく、非公開エリアもありますので、立ち入り禁止になっているエリアには絶対に入らないようにしなければいけません。



二の丸庭園は、二条城が造られたとき、その概観に合わせて作庭したと言われています。行幸のときには、一部改修されています。書院造り庭園でもあるこの庭は、神泉蓬莱の世界を現していると言われています。
御水尾天皇行幸のときには、行幸御殿、中宮御殿、長局を増築し、中庭的な庭園として改修されました。池の中に御亭を建て、大広間、黒書院、行幸御殿など、三方向から庭を観賞できるように庭が造り直されたのです。



この庭園、黒書院から最も良く見えるように造られています。



二の丸御殿庭園をぬけて本丸へ向かいます。(本丸櫓門



ここの本丸御殿も大きい建物だった。ただし、内部は公開していないので外から見るだけ。(現在本丸御殿(元桂宮御殿)は耐震性の問題で見学不可となっている)



この本丸御殿は、京都御苑内の旧桂宮御殿を移築したものらしく、庭園は明治時代に作られたものだそうです。



本丸にも二の丸同様、創建当初には庭園があり、二の丸庭園に引けをとらない立派なものだったと言われています。本丸御殿を消失したときに、庭園にも飛び火して焼けてしまったと言われています。幕末には慶喜の居室が建てられたので、それに合わせて茶庭風に庭園も造られました。しかし、この居室は老朽化が激しく、明治14年に撤去され、同時に庭園も取り壊されたのです。やがて旧桂宮邸を本丸御殿として移築する際に、枯山水の庭園が作庭されたのです。

現在の庭園は、明治天皇が本丸に行幸した際に、それまであった枯山水風の庭園の改造を命ぜられ、おおそよ7ヶ月半かかって大改造したそうです。芝生を敷き詰めた芝庭風築山式庭園と言いらしく、曲線的な園路に庭石や燈籠が置かれ、とても落ち着いた庭です。

二条城は御殿が目立ちますが、ちゃんとしたお城です。だから、本丸の南西角には、天主閣があります。天守閣そのものは何度も焼失して、今は残っていませんが、その石垣は残ってます。(パンフレットによるとの5層の天守閣がそびえ建っていたらしい)

 



当然、天守閣の跡にも寄ってきました。





急な石段を登り、天主閣跡に立ってみました。本丸御殿も良く見える景色だったなぁ~。



石垣も内堀も良く見える絶景です~ニコニコ



西門…埋門(うずみもん)で,寛永期に作られたものと考えられています。他の門と違って防備は厳重です。折れ曲がって東側に高い石塁を築き北側に出入り口が設けられています
 


城内の門… 城内には,本丸櫓門・桃山門・鳴子門・北中仕切門・南中仕切門などの門があります。これは北中仕切門です


鳴子門

 
日本庭園(清流園)


清流園(和楽庵)

このように二条城は、煌びやかな御殿建築あり、随所に残る城郭遺構が豊富にあり、また歴史的には徳川の世の栄枯盛衰を見てきたお城でもあるという大変面白いお城です。

【歴史】…   続きを読む

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2013年05月23日

2013年6月コース

新暦では日本の6月は梅雨どきですが、旧暦の6月は梅雨が明けた夏の酷暑の頃で、厳しい日照りで水が干上がり、「水の無い月」でした。そこから水無月…?

日本の多くの地方が梅雨入りします。うっとうしくも、昼間の時間は年間で最も長い時期です。そんな気分を当店のコース料理吹き飛ばしてください。 
  
【5000円コース】
  

サザエ刺身もしくは壷焼き
丸茄子と稚鮎の揚げ出し(茗荷、青唐辛子)
鱧しゃぶ(水菜、榎、しめじ、椎茸)
静岡育ち和牛とホワイト、グリーンアスパラのフライ(万願寺、ミニトマト、もろこし、椎茸)
蒸し鮑順菜とろろ
旬の握り
伊勢海老の味噌汁
デザート


【4000円コース】


サザエ刺身もしくは壷焼き
丸茄子の田楽(葉生姜)
鰻の玉子とじ(ささがき牛蒡、三つ葉)
遠州夢ポークとホワイトアスパラ、グリーンアスパラのトマトソース焼き(もろこし、ミニトマト)
旬の握り
伊勢海老の味噌汁
デザート


【3000円コース】


サザエ壷焼き
丸茄子の田楽
鰻玉子とじ
旬の蒸し物
賄い丼
味噌汁


ご予約お待ちしています。
  

Posted by きくいち at 15:15Comments(0)コース料理

2013年05月22日

明智光秀の娘(ガラシャ)が輿入れしたお城

長岡京の本当の目的は勝龍寺城です。
この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)が16歳のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られていますが、私はまだ行った事がなく今回の京都観光の目玉はここに決めていました。



歴応2年(1339)に細川頼春が築城したといわれ、天正6年(1578)明智光秀の娘、玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁いだ城で、後年の山崎の合戦では光秀がここに本陣を構えました。
鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、我が国の城郭史上でも貴重なモノであることが発掘調査で明らかになりこの跡地が管理棟(資料展示室)、櫓や庭園などを備えた都市の公園の姿で復興しているのです。



勝龍寺城は、現在は勝竜寺公園として、本の丸と沼田丸が発掘の結果に基づいて復元されています。



本の丸周囲には、鉢巻石垣と堀、そして板塀と隅櫓と高麗門まで建てられている。(一見櫓風の事務所棟は紛らわしいが…) 


 本丸跡

 高麗門

 本丸井戸跡

 東辺土塁と多聞櫓

 多聞櫓


北門跡は、L字型に折れ曲がり、石垣が築かれていたのが復元されている。



この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえったそうです。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られその結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされたのです。



(沼田丸跡から)…城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた
明智光秀が山崎の合戦で破れた後で、一旦ここ勝龍寺城に逃げ込んでから密かに城を抜けたといわれる抜け道跡であったり、西部には沼田丸跡として帯曲輪が発掘されています。


 沼田丸への通路
 

約50m四方の敷地の外側を堀がぐるりと取り巻き、中は天守風の復興建物が建っています。





勝龍寺城で忘れてはいけないのが少し北にいったところにある神足神社です。ここにあった神足城を取り込んで勝龍寺城は築かれたとか…?神社本殿側の竹藪の中に勝龍寺城外郭の土塁と空堀が残っています。少し竹薮となっているので写真が撮りにくいのですが実際に堀底に降りて土塁を見上げるとその高さ、そして迫力を実感することができます。
是非立ち寄って見る価値はあるかと思います。

 

京都で城といえば、伏見、二条といった印象が強いと思いますが、発掘調査に基づいて見事に復元されたこの勝龍寺城跡もいいと思いますよニコニコナイス

 
 
勝龍寺城の歴史
勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたと云われ城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷に押さえうる交通の要所に築かれてた。応仁・文明の乱では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。織田信長が室町幕府を滅ぼすと、勝龍寺城は旧城主の流れを汲む細川藤孝(幽斎)に与えられた。藤孝は二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正十年(1582)の山崎合戦では、明智光秀の家臣三宅綱朝が勝龍寺城を守り、秀吉の大軍に攻められて落城。 その後、城も廃城となった。(別名、小竜寺城とも呼ばれる)
   

Posted by きくいち at 11:12Comments(0)趣味

2013年05月21日

菅原道真を祭神とする長岡天満宮

今週は京都の観光編ですニコニコ
京都は修業時代よく先輩達と京料理の店に弁当などを食べに行きました(当時は薄給で昼のお弁当が精一杯で…)その後は、組合の一員として色々な料理屋さんに、そして、娘が関西の大学にいた頃は観光と、私にとっては馴染みの深い場所です。何度となく訪問している京都ですが、今回初めて長岡京に足を運んできました。

長岡京市はその昔、山城国乙訓郡長岡と呼ばれ、延暦3年(784)桓武天皇が平城京から都を移すため、長岡京の造営をされた所です。しかし、延暦4年、都の造営長官藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、天皇は実弟早良(さわら)親王も暗殺に関与しているとし乙訓寺へ幽閉します。この事件に始まり、天皇の周辺で次々起きる不幸は親王の怨念によるものと恐れ、わずか10年間で廃都となり平安京へ遷都しています。



長岡天満宮は、菅原道真を祭神とする神社です。(菅原家の所有地で、道真公が在原業平と詩歌管弦を楽しまれたところでもあるそうです)延喜元年(901)道真公が九州の太宰府へ左遷された時、都との別れを名残り惜しむあまり、この地に立ち寄り「我が魂、長くこの地に留まるべし」と詠まれたことに因み、道真公自作木像を祀ったのが創立とされているそうです。


 
また広大な境内には八条ヶ池が広がり、4月中旬から5月のはじめ頃には樹齢150年以上の「キリシマツツジ」が満開になるようです。今回は少し時期遅れで満開というわけにはいきませんでしたが、それでも所々の残るツツジは色鮮やかでした。(200株余りの「キリシマツツジ」は高さ3mに達し、市指定の天然記念物となっているそうです)
また、毎年3月下旬から、4月上旬にかけて、桜まつりが催され、夜間は夜桜のライトアップも楽しむことが出来るとも…おすまし



長岡天満宮の末社には稲荷社、八幡社、春日社があります。社殿に向って左側が長岡稲荷大明神で、祭神は五穀豊穣、商売繁盛の神と称えられる倉稲魂神猿田彦命、大宮女神を祀り。本殿に向かって右側に、八幡社と春日社が鎮座。八幡社の祭神は、応神天皇で厄除けの守護神。春日社は、経津主命、天児屋根命、比売神で水などの自然神、芸能神とされています。



皇室の崇敬厚く、江戸時代には桂宮家(八条宮家)の領地となり、度々の寄進や造営をうけることとなり、灌漑用としても使われた池を参道を挟んで南北に造営したそうです。八条ヶ池の名はこのためで、中堤の太鼓橋は加賀・前田侯から寄進を受けたもの。八条宮家は、桂離宮を造営したひとでも知られる風雅な宮家だそうです。

 
八条ヶ池畔には筍料理で有名な「錦水亭」がありました。

ここは、日本一の筍料理の店として全国に親しまれているお店ですが、時間の関係で立ち寄る事が出来ませんでしたが、また何時か今の季節でしか味わえない、京都の柔らかくて美味しい筍を会席料理を味わいに来たいと思います。

風物詩になっている、中庭の池で仲良く群れ遊ぶおしどりと白鳥を横目にし、筍のの佃煮を買って次の目的地に足を運びます。
   

Posted by きくいち at 10:54Comments(0)大将

2013年05月20日

麦わらイサキ

初夏の魚として釣り人に人気があるのがイサキです。昔は、漁師以外に新鮮なものが手に入りにくかった為、「野人だけがこれを食う」「早く腐り易い下品魚」と云われていたようですが、そのような臭みもなく美味しい魚です。

初夏から秋にかけてが旬の魚で、生まれて3年目位の大きめで脂ののった活きのよいものはタイやスズキに負けない位、美味しい刺身になる位です。夏が旬の所から「麦わらイサキ」という別名もあり、磯臭さが特徴です。「麦わら鯛」は脂の乗ってない鯛で、この時期のイサキも「麦わらイサキ」と言いますが、鯛とは逆に濃厚な脂肪の乗った磯魚として呼び、独特の香で美味しいです。

   

イサキはほぼ通年市場には入荷されている魚ですが、6月頃から9月頃にかけての夏が産卵期にあたります。その為、産卵前の初夏、5月頃から7月頃までの梅雨頃が最も美味しいとされています。また、産卵後の秋から春にかけては、脂ののりが悪く、美味しい時期のものとの差がかなりあります。水温が下がる秋から春は脂が落ちて身がバサバサになり、まるで別の魚のように味も落ちます。これほど旬がはっきりした魚も珍しいです。   

「伊佐木」や「伊左幾」、「鶏魚」などと書きます。イサキは、外洋の岬付近や沖合の小島など、潮早い荒波の礁が棲息場所で、「魚岬(いさき)」と呼ぶようになったそうです。また、磯(いそ)と魚(き)からなる転訛語という説も…。その他、中国でも鶏魚という名があるが、これは、第一背鰭(せびれ)の棘が3~4本鋭く立ち、鶏のトサカに似ているところから命名されたようです。 

市場で売られている状態は殆ど姿のままの生ものですので、多少値が張りますが出来た料理の味はお墨付きになります。 選ぶポイントは、新鮮なものでも、目はくすんでいることが多く、腹の張り具合を見るほうが良いと思います。体表面の色艶が黒っぽく、綺麗で濁ってないもの、腹部、排泄口のしっかりしたものを選んで下さい。また、出来れば締めてあるものが臭みも少なくベストです。買ったらすぐに内臓を出して薄い塩水で洗って水気を拭き取って冷蔵しておくと味が落ち難いです。



料理法としては刺身(やや磯臭さがありますが旬の新鮮なものは刺身にすると鯛にも勝る)、サラダ風にさっぱり味の料理から、身しっかりしているので、塩焼きやソテー、ムニエル等のの焼き物に使いやすいく美味しい魚です。

やや薄切りにした刺身はタイに劣らぬ美味。また洗いにして、梅肉醤油か生姜醤油もいけます。
【背ごし】…九州の人が好む食べ方で、皮がついたまま、おろさずに背骨ごと輪切りにして、骨ごとかみ砕くという豪快な食べ方。身が水に触れないため、皮下脂肪が損なわれずに口に入るので美味しい。

【珍味】…腹子を指先で取り出して水洗いし、水分を切る。醤油やみりん、酒などで調合した、やや薄味の煮汁でサッと煮る。黄色の真子、白い白子を取り混ぜての煮込みが酒の肴に絶品。また、腹子をホイルにのせ、うす塩で焼いたものも美味い。ポン酢醤油かレモン汁が良く合い、浅葱や万能葱、紅葉卸し等を添えると一層味が引き立つ。

イサキの刺身を作る場合、気がつくのが、大きさに関わりなく味がいいということ。「瓜坊(うりぼう)」と呼ばれる10センチ前後のものをていねいに刺身にして、握ると皮下には鈍色の脂がべっとり…そして軟らかく甘みのある身の味わいが、すし飯に合います。(瓜坊とは猪の子を差す言葉、イサキの幼魚に黄のしまがあることからついた呼び名です) 
刺身などを作るとき、ウロコをとらないで三枚に卸し、皮を引きます。このウロコつきの皮を素揚げ、もしくは唐揚げにするト、これがまた絶品です。



イサキの塩焼きというのは言わば定番中の定番。ご飯のおかずとしても肴としてもまさに白眉です。できれば冬から梅雨入りくらいまでのイサキを選んで、炭を起こして焼くのが最高…それぐらいの手間は惜しんではいられぬ味わいです。

中骨などは、生のときはノドに刺さりにくいのですが、煮物や焼き物、蒸し物にすると俄然トゲが強くなるので気をつけて下さい。その昔、和歌山にイサキの骨がノドに刺さって死んだ鍛冶屋がいたので、この魚に「鍛冶屋殺し」の名がついたと言われていますから…。(現在でも手術を受ける患者さんがいるらしいですよ)           

最近のレストランでは異国豊かにムニエルからアレンジされたお菜サラダ風に味わう料理が多く、家庭でもソースを美味しく作れば出来ます。後、揚げ物も美味しいです。これもマリネー風で異国情緒豊かに仕上げられます。煮つけは磯の臭みが強くなるので今一の料理です。中華風の蒸し物も身離れがよく、薬味を上手に使うと簡単で、豪華に仕上げられます。そのほかあらゆる料理方法が適用できる素材ですから、料理時間を短時間で仕上げるように方法、工夫をしましょう。 
  

Posted by きくいち at 15:36Comments(0)旬の魚

2013年05月19日

京料理を体系作る4つの料理

京料理についてもう少しだけ書きます。京料理を体系作る4つの料理は、公家を中心とした「大饗料理」武士を中心とした「本膳料理」寺院を中心とした「精進料理」茶道とともに発達した「懐石料理」と言われています。

大饗(だいきょう/おおあえ)料理とは、平安貴族たちが、淡水魚、塩物、干物を中心として蔬菜類と、猪、鹿、雉(きじ)、鴨などの肉を使って催した饗宴を「大饗」と称され台盤(だいばん)(机)の上に並べられたため「台盤料理」とも称されています。

有職(ゆうそく)料理…平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した大饗(だいきょう/おおあえ)料理が、公家風の料理形式として残った物で簡単に言うと宮中か宮家で作られてきた料理です。(ただ現在「有職料理」と言われている物は、本膳料理などの影響も受け、平安時代当時そのままの様式ではないようですが…)

本膳料理とは、日本料理の正式な膳立てで、食事に儀式的な意味合いを持たせているものです。
鎌倉時代にあった武家の簡単な儀式(正月に御家人から将軍に料理を献上する)が、室町時代に確立された武家の礼法から始まりものだと言われ、特に室町幕府の将軍を接待する「御成」が盛んになってからは次第に宴会料理の形式が整えられていったようです。この形式はさらに江戸時代に発展しますが、明治時代以降ほとんど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理にその面影が残されている程度です(婚礼の際の三々九度など)

精進料理は、中国において仏教から成立した料理。仏教では僧は戒律五戒で殺生が禁じられており、大乗仏教で肉食も禁止されたため、僧への布施として野菜や豆類、穀類を工夫して調理した料理です。    



懐石とは茶の湯の食事であり、正式の茶事において、「薄茶」「濃茶」を喫する前に提供される料理のことで江戸時代になって茶道が理論化され、禅宗の温石に通じる「懐石」の文字が当てられるようになったようです。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めた蒟蒻などを布に包み懐に入れる暖房具を意味します。

修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で懐石や温石を懐中に入れていて、食べる物がないときのお客にも、せめてもの空腹しのぎにと暖めた懐石を渡して懐に入れてもらっていたことから、お客をもてなす料理を「懐石料理」と言うようになったのです。また「茶懐石」は、茶の湯で、お茶を出す前に出される簡素な料理のことで、禅宗の修行僧が、温石で腹を温め空腹をしのいでいたことから「懐石」と称されるようになりました。最初に、ご飯と味噌汁が出され、料理の後には、薄茶が出され、材料は、旬のものが使われ、濃い調味料や、強い香辛料は避けられ、材料の持ち味が生かされています。

懐石料理…精進料理から茶懐石を経て完成された一汁三菜を基本とした料理です。料理屋の懐石料理では、茶懐石で最初に出されるご飯と味噌汁は省略され、八寸が出されることが多い。茶席における取り回しなどの特別の作法もなく、一人一人に料理が盛って出される。 また、懐石料理は量が少ないことから「量の少ないコース料理」全般を「懐石」と称されることもあり「洋風懐石」や「欧風懐石」と称される料理が存在しています。

会席料理…江戸時代、連歌や俳諧の席「会席」が料理茶屋で行われるようになり酒席向きの料理が工夫され「会席料理」が生まれました。

普茶料理…黄檗宗独特の精進料理(中国 明から招聘された中国 臨済宗の隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師が広め、萬福寺(宇治市)や周囲の塔頭でおもてなしされる。植物油が多く使われており、大皿に盛られて取り分けて食べます。(宗祖 隠元隆琦はインゲンマメや、孟宗竹、スイカ、レンコンなども中国からもたらしたと言われる)

お万菜(おばんさい)とは、昔より京都の一般家庭で作られ食されてきた和食の惣菜のことで、味付けは京都風に薄味です。近年ではヘルシーなイメージから人気が高まっていて、惣菜店で販売されたり、京都をはじめとする飲食店で看板メニューとして提供する店が増えてきているようです。  

Posted by きくいち at 16:23Comments(0)大将

2013年05月18日

創業以来298年の歴史を誇る、京都屈指の老舗料亭

今日は先日の全国大会で伺った美濃吉さんを紹介します。

京都、平安神宮にほど近い閑静な環境の中、清々しい青竹に囲まれて建つ「京懐石美濃吉本店竹茂楼」享保元年、三条河原で腰掛茶屋を開いたのが「美濃吉」さんの始まりだと伝えられています。江戸時代後期には、京都所司代から「川魚生洲八軒」として許可された現存する最後の一軒です。戦後、粟田口に居を移し、格式ある料亭へと生まれ変わったそうです。

こちらの料理は吟味された食材を使い、季節感を大切にした京料理。その献立は伝承の川魚料理・伝統の京懐石。鰻をはじめ鮎やすっぽんなど、川魚独特の旨みを巧みに引き出した料理は、300年の伝統と経験が生きています。

 

建物は数奇屋の本館と富山県五箇山から移築した合掌造りの別館があり、各座敷は小川が流れる竹林の庭に面していました。青々とした竹がまっすぐに伸びた様を眺めていると心が洗われます。洗練された優雅な本館、素朴さが魅力の別館とそれぞれ趣を異にしていますが、掛け軸や花の生け方などのしつらいはどちらも四季折々の情趣に富み、取り合わせの妙を堪能することができました。



前夜祭で出された料理です。
 
【先付】石伏魚(ごり)もろみ煮・一寸豆玉子・菖蒲百合根・鯖粽寿司・うなぎ八幡巻


 
【椀・白味噌仕立て】鱧の濃くしょう、牛蒡、茗荷、山椒



【向】とろ鮪、甘手かれい、岩魚洗い酢味噌、土佐醤油、山葵



【焼物】鮎塩焼き、鮎踊り揚げ、苦うるか蓼酢



【強肴】すっぽんジュレ、由良ウニ独活、オクラ、新じゅん菜、生姜



【鉢物】加茂茄子、万願寺唐辛子、黒あわび、新小芋、花山椒、木の芽



【御飯】名物鰻蒲焼、香の物、大根、胡瓜



【水物】キュウイ、メロン、きな粉アイスクリーム、黒蜜
【甘味】葛饅頭

絶妙のタイミングで出される料理。板場と配膳係の連携、しつらいからサービスまで細やかに目を配る女将のもと、すべてに決して手を抜かない姿勢は伝統ある料亭の心意気を感じさせられました。
  

Posted by きくいち at 15:11Comments(0)大将

2013年05月17日

京料理の真髄を探る

先日全料連の全国大会があって京都に行って来ました。
皆さんもご存知のように京都には、かつては都があり又、仏教などの影響を受け「衣食住」に関して実に多くの文化が発達した場所です。その中でも「食」の文化の発展には目をみはるものがあり、一般に京都の料理をさして「京料理」という言い方をしますが、「京料理」とは、一体どんな料理なのでしょうか…?今では、懐石料理や会席料理をさして「京料理」ということが多いですが本来の「京料理」とは…?



京都懐石料理店・瓢亭の店主である高橋英一氏は、「京料理は有職料理、精進料理、懐石料理、お万菜が融合したもの」と定義していますし、同じく京料理店・梁山泊の店主である橋本憲一氏は、「日本料理の基本である懐石に京都の食材、特性、風土、気候を加味したもの」と定義しています。

京都料理は平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した有職料理から始まって、鎌倉時代に、禅宗の影響を受けた精進料理を経過して、室町末期に、フィリピン辺りからきた料理を南蛮料理(堺とかに世界各国から来た料理で、いわゆるモダンなものとして我が国に入ってきた)これをとりいれて茶懐石が生まれ、最後が町方料理(これが京都の一般の人が食べるお惣菜やお万菜です)この五つが混合して、京都の料理を形を作ってきたのです。


前夜祭が行われた300年の歴史を誇る「美濃吉本店、竹茂楼」

それぞれの料理屋さんが、扱う材料は殆ど同じですが、味付けの仕方や盛り付けの仕方にそれぞれ特徴を出すようになったのです。だから、京料理と言っても、それぞれの店の京料理があるわけです。そして京都の老舗の料理屋さんは、それぞれに皆ルーツをもっているのです。有職系だったら萬亀楼、茶懐石だったら辻留とか、柿伝、町方であれば中村楼、平八、美濃吉とか…。そうしたことで京料理というものが枝を広げてきたわけです。京都ではそういうルーツが的確にあるから老舗と言うのです。他の都市でしたら百年続いたら老舗と言いますが、京都ではとんでもないことなのです。だから、店それぞれが同じようなものを使いながら、どこか少しずつ違うところを出してきたのが京料理で、それがそこの店の京料理というわけです。

基本的に京料理は、野菜や乾物、大豆加工食品を中心とした素材の味を活かす洗練された薄味料理で、味だけでなく、見た目や雰囲気を含めて五感で愉しむ料理であるといったようなイメージが一般に持たれています。(京料理は、食材本来の持つ味や色を生かし、調味料ではなく、出汁や食材でしっかりした味が出され、日本料理の原点とされる) 

京都は、三方を山に囲まれた京都盆地の中にあり、海浜から遠いため、山や野の幸を中心とした料理が発達し、琵琶湖に近いことから淡水の産物を中心とした料理が発達してきました。(魚介類などを塩引きしたものをうまく取り合わせるのも特色で、若狭鰈(わかさがれい)の干物や、ぐぢの一塩物・昆布〆(こぶじめ)・へしこ・棒鱈(ぼうだら)・身欠き鰊(みがきにしん)を用いる伝統があります。また土地の利を生かした野菜料理の蔬菜文化も京料理の特色です)

このように京都は、地理的背景から大坂のような新鮮な海産資源に乏しかったこともあり、質素な素材を活かすための料理技術の発達したのです。古くから都として栄えた京都は、大坂と共に日本の食の中心地として料理文化が発達し、中国料理をもとにした大饗料理に始まり精進料理、懐石料理を経て、西洋料理に出会うまでの日本の料理文化の中心地として京料理は様々な料理手法の特徴を取り入れ発展してきたものです。
  
都には昔から全国の人が集まってきます。優れた人や力のある人も多く来るわけで、そうした人たちには、もてなしをしなければいけません。もてなしをするということは、洗練されていないとできません。様式でも何でも、泥臭い感覚ではいけないということです。料理と平行して器も特徴ある豪華なものが出てきたり、珍しい器がでてきたり、それに加えて歌舞音曲、部屋のたたずまい、生活様式も全部京都は違うわけです。地方から来た人が憧れる、歴史と四季の変化にとんだ洗練された土地柄である京都で食べてこその京料理で、全国各地にある京料理店は(京都の食材を取り入れ京都の料理を真似したところで何も意味はなく)「京都風○○料理」ということになると思います。
   

Posted by きくいち at 15:06Comments(0)大将

2013年05月16日

ウズラ卵の加工新商品

豊橋は全国トップのウズラ卵生産地ですが、鳥インフルエンザで低迷した消費が以前の水準に回復せず、豊橋養鶉(ようじゅん)農業協同組合では、ウズラ卵のおいしさを広く知ってもらおうと新商品開発を進めているようです。

ご当地グルメの豊橋カレーうどんをイメージして、カレーの具とウズラ卵を小麦粉の皮で包んだ「カレーまん」、生地にウズラ卵を混ぜてしっとり感を出した洋風焼きまんじゅう「焼きまーる」、出汁で味付けしたウズラの煮卵「おかずたまご」、玄米に「本たまり」をしみこませ、濃厚なウズラの卵かけごはんの味わいを再現した「玉子掛けごはんせんべい」、さらにウズラの卵かけごはん用の本たまり「あいたまりん」などがあって、いずれも三河地区のJA産地直売所などで取り扱っているようです。

今日はそうしたウズラ卵を使った豊橋の商品から、お客さんに頂いた「うずらプリン」を紹介します。



日本一の生産量を誇る、豊橋(東三河)ウズラ卵を使った菓匠華月の「うずらプリン」です。
(カラメル味・抹茶味・チョコ味の3種類があります)思っていたよりコクがあってクリーミーかつ、まろやかプリンでした。

ウズラ卵は鶏の卵に比べると形は小さいのですが、味が濃縮されていて濃厚な味わいで、ビタミンA、B1は鶏卵の2倍ほど、ビタミンB2も1.5倍ほどあるらしく、栄養価が高く、美容、健康にもいいようです。

日本人は平均して1年で鶏卵は341個食べているのに、ウズラ卵は1年で14個しか食べていないそうです。生産量も、鶏卵200万tに対してウズラ卵は2万t、ところが小さな体に大きなパワーがあり、鶏の卵より美味しくて栄養満点とくれば…びっくり ウズラは鶏に比べ病気にかかりにくいそうです。

皆さんもウズラの卵を沢山食べるしかないですね…ニコニコ

鶉(ウズラ)…  続きを読む

Posted by きくいち at 10:37Comments(0)大将

2013年05月15日

晩春から夏が旬…小樽の蝦蛄

春になると蝦蛄はだんだん脂がのってきて、いよいよこれからが蝦蛄の本番です。
春から初夏にかけてが旬で、漁も最盛期に入ります。この時期、メスは抱卵していて、この真子の味わいを関東では「かつぶし(鰹節)」と言って珍重します。旨味が強く味の奥行きに甲殻類の風味というか甘みを増してくれる渋みがある真子、人手を尽くした鰹節に勝っても劣ることはないのです。

江戸前と言えば、今や千葉、神奈川までをさしますが、蝦蛄と言えば神奈川県小柴の蝦蛄が有名で、東京の高級寿司店では小柴しか使わないというと店もあるほどですが、近年は漁獲量が減っていて値段も高騰しているのが現状です。
 
東京湾、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海と大きな内湾が産地の蝦蛄ですが(暖海性の日本全土に生息している)近年、市場でよく見かけるのが、北海道石狩湾産の蝦蛄です。
北海道の蝦蛄漁はニシンの漁獲漁が激減により、それを埋め合わせるように始まったと言われていますが、大形が多く、茹でて流通されています。


  (小樽前浜産の子持ち蝦蛄)
 
蝦蛄は、1個体ごとに泥または砂泥の海底に浅いU字形の巣穴を掘って生活します。この巣穴で外敵から身を守るほか、摂餌や産卵など日常のあらゆる行動を行います。産卵期は6~7月で、産卵および卵の保育も巣穴の中で行われます。

北海道で蝦蛄漁業が行われているのは石狩湾に限られていて、透明度が高い石狩湾に住む蝦蛄は、海が荒れて海底が濁るようなときに一斉に巣穴から出てくるので、この荒天を狙って刺し網で漁獲しているのです。

甲殻類は何度も脱皮を繰り返す為、自分の身を消化する自己消化酵素を持っていて、死ぬと直ぐに身が消化され、融けてしまうから水揚げ後、手早く網からはずし生きてるうちに即ボイルするのです。この為、カニよりもエビよりも、旨味だけなら一段上なのではないかと思うほどの味です。 

漁獲後直ぐに茹でられ冷却、選別、出荷あるいは剥き身とされた小樽産の蝦蛄。
勿論大きく、その大きさと、コクの美味さが特徴です。旬は春のメス、秋のオス…寿司はオス!
酒の肴にはメス!
是非一度 ご賞味あれナイス 
   

Posted by きくいち at 15:25Comments(0)寿司ネタ

2013年05月14日

カリッと作る空揚げ(揚げ方と下味)

カリッと香ばしい衣の食感の後、熱い肉汁が口中に広がり、ハフハフっとしながら食べるのが楽しい料理と言ったら、間違いなく「鶏の空揚げ」ですよね。日本唐揚協会よると、空揚げの定義は「食材に小麦粉や片栗粉などをまぶして揚げたもの」となっているそうで、美味しい空揚げは好みによって違いますが、王道と言えるのは「衣はカリっときつね色、中は弾力があり肉汁たっぷり」です。皆さんもよく唐揚は調理していると思いますが、大きな鍋がなくても、安い鶏肉でも絶品の空揚げを作るにはコツを今日は少し紹介します。 



家庭の空揚げでよくある失敗パターンは3つです。「中まで火が通る前に焦げる」「肉が硬く、ぱさつく」「ベタっとした衣」これを解消するには、揚げ方にコツがあります。

「肉は68度くらいから縮んで水分が出始めます、軟らかくジューシーに揚げるには加熱時間を短くするのが鉄則ですが、そうすると中まで火が通りにくく、衣がパリッとなりません。その両方を解決するのが「二度揚げ」です。160度の低温で1分半揚げて、全体に火を通し、表面がほんのり茶色になったら、油から取り出し、そのまま2分放置します。中心部はまだ生ですが、余熱でじんわり火が通ります。そして油を190度ほどの高温に上げ、再び肉を入れてきつね色になるまで40秒から1分ほど揚げるのです。2度目に高温で表面の水分を蒸発させるとカリっとした衣になります。

次の問題は味です。専門店は独自の下味を作っています。人気の空揚げ店は、地元の野菜・果物、秘伝の醤油、生姜、ニンニク、ハーブなどを使った特製ダレに肉を何時間も漬け込んでいます。これは味に深みが加わるだけでなく、酒やフルーツは肉そのものを軟らかくするからです。

基本は醤油・酒・葱の青い部分・擂り卸した生姜の和風ダレ。そのほかに粉チーズ・バジル・オリーブオイル・ニンニクのイタリア風、ナンプラー・ニンニク・コリアンダーに漬けたエスニック風、白味噌・砂糖・酒の西京漬け風等色々な下味を試して見ても面白いと思います。

好みにもよりますが、カレーヨーグルト味。ヨーグルト・カレー粉・スパイスのクミン・チリパウダーなどを混ぜ合わせたインド風のタレなんてものも…ひみつヨーグルトの乳酸菌が肉を軟らかくし、程よい酸味で食べ飽きない美味しさですから…ナイス市販の「焼き肉のタレ」に玉葱と一緒に漬けるだけでもOKです、これは一番簡単ですからニコニコ

時間をかけて下味をつけると、肉に愛着がわいてくるでしょうし、揚げたてを口に運ぶと、ほとばしる熱い肉汁に、スープようにほんのり優しい味がついています。このように空揚げは揚げる前の手間がおいしさのカギを握るのです。

鶏の色々な部分を揚げてみてもいいと思います。もも肉よりも脂が少ない胸肉は、揚げ時間はやや短めにすます。逆に骨と皮が多い手羽先は、食べるときに肉が骨から離れやすいよう、10分ほどかけてじっくり揚げるのがコツです。下味や衣次第で、北海道名物のザンギから大分県名物のとり天まで、様々なご当地鶏料理にアレンジが可能ですよおすまし

このように鶏の唐揚は油の温度の見極め方が肝心です、皆さんも何度か料理をしていく間に、肉の状態も見ながらタイミングをつかんで下さい。そして、下味には手をかけてみて下さい…ちょき
  

Posted by きくいち at 11:28Comments(0)菊一本店

2013年05月13日

日本一繊細な糸切餅

若い衆が休みに多賀神社に行って来たようで、多賀の名物「糸切餅」を買って来てくれました。
総本家「多賀屋」は時代とともに息づいてきた名物糸切餅の老舗です。100%純国産米を主原料とし、ほどよい甘さの自家製の漉し餡を包んだ柔らかな風味と口当たりの良い生和菓子です。糸切餅が「日本のお菓子の中でも最も繊細なお菓子」と言われるのは普通の餅の4倍ついたきめの細かいと独特な美味しさと、柔らかく、やさしい食感からです。(甘過ぎずとても美味しいですよニコニコ

その昔、二度にわたる蒙古襲来を台風によってまぬがれました。 平和が甦ったことを喜んだ里人はおだんごを作り、蒙古軍の旗印でらる赤青三筋の線を書き、これを弓のつるで切って御神前におそなえしました。これが今の糸切餅の始まりだそうです。(中央に赤、左右に青の3本の線が描かれています)
三味線の糸で餅を切るのは刃物を使わず悪霊を断ち切る、即ち平和を意味しているとか…?何気ない模様にもきちんと意味があるものなんですね。



「お多賀さん」と親しみをこめて呼ばれる多賀神社は、国生みを行った男女の夫婦 神、イザナギノミコトとイザナミノミコトをお祭りしていて、長生き、縁結び、厄除けの神様として広く知られています。



古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。
日本最古の書物「古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。(祭神は伊勢神宮の親神として知られる伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱)

このように、命の親神様であることから、古くから延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては、武家や民衆の信仰が一気に広まったようです。

甲斐の武田信玄は25歳の厄年に際し、黄金2枚を寄進して厄除けを祈願し、太閤秀吉は母大政所の病気に際して「命の議、三カ年、ならずんば二年、げにげにならずんば三十日にても」と祈願文を寄せ、米一万石を寄進してとか…?幸いに大政所は治癒され、その一万石で正面の太閤橋や奥書院庭園が築造されたのだそうです。

私も以前行きましたが春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉などもみごとで、また、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間多くの参拝者を迎えています。
【ごりやく】延命長寿、厄除け、縁結び、家内安全、交通安全
 
門前町で土産として販売されている糸切餅。販売店には、莚寿堂本舗、多賀屋、ひしやと3軒で、莚寿堂店内には蒙古襲来の展示ありますからこちらもご覧になるといいともいます。  

また、和歌山県和歌山市本脇の射箭頭(いやと)八幡神社前で、江戸時代に売られていたという「糸切餅」もあるそうで、こちらは神功皇后と武内宿禰に関する伝説でだそうです。
   

Posted by きくいち at 10:17Comments(0)大将

2013年05月12日

納豆の粘りと匂い…混ぜ方は?

円安により我々の食卓の意外な所にも影響が出てきているようです。
納豆の値上り…輸入大豆の高騰、さらに原油価格高騰のあおりをうけ、納豆を入れるプラスチックの容器の値段も高くなってしまっているようです。

独特のネバネバに大豆のうまみが絡んで、ご飯にかけると幸せを感じる納豆ですが、皆さんはどのように食べていますか…?ほとんどの人は、醤油かタレに辛子(山葵)、葱や玉葱を加えて、と言う食べ方だと思います。納豆の味を構成する要素は「粘り」と「匂い」と言われていますが、調味料によってにその要素に変化おきるのです。そのことを知ったうえで違う食べ方を試して見たはどうでしょうか…?

まずは納豆らしさを好むマニアックな人にぜひ薦めたいのが砂糖です。東北地方ではよくある食べ方らしく納豆のネバネバ成分は、糖と結びついて威力を増し納豆の、粘りも匂いも強くなります。(但し甘くならない程度の量に限りますが…納豆1パックに小さじ1杯程度)

粘りは強くてもいいが匂いは弱い方が良いと言う人には、カレー粉がお勧めです。粉末は水分が減るためネバネバになりますが、調味料自体の強い香りが目立つので、匂いは弱まります。(カレーライスに納豆を入れるとおいしいが、ぴりっとした風味はパンに載せても酒のつまみにしてもいいと思います)

粘りも、匂いも弱い方が良いと思っている人は同じ発酵食品の味噌や豆板醤を合わせてみて下さい。納豆の風味とケンカせず、ほどよく匂いを打ち消します。(納豆のアルカリ性の臭気は、酢など酸性のものを加えると中和でき、油分は匂いを包み込んで抑えるからです)キムチや野沢菜などの漬物と一緒に食べるのが合うと思いますいます。ポン酢や卸しニンニクも少量加えるのならいけますが、オリーブ油は味がイマイチですね。



色々な食べ方があると思いますがやはりベストはオーソドックスな醤油かタレですね。匂いは残りますが粘りもそれほど強くなく、私もこの食べ方が一番好きです。スタンダード食べ方は味に安心感がありますから…。

補足ですが、納豆好きの食通、北大路魯山人は「不精をしないで、また手間を惜しまず、極力練りかえすべきである」と著書に記していますが、納豆はこねればこねるほど美味しいのでしょうか…?

納豆を器に入れ、箸でこねこね混ぜる。豆と豆がくっついていた最初の状態から、10回ほどで豆がほぐれて糸を引くようになります、さらにこねると糸が太くなり、ネバネバしてきます。この段階では口に含むと豆のゴロゴロした食感が目立ちますが私はこの常態で食べるのが一番好きです。

ここから、納豆をこねるに回数を増やすと泡がひとつひとつの豆に行き渡ります。さらに続けると、泡が増えて全体的に白っぽくなり豆を持ち上げてもなかなか糸が切れなくなり、口に運ぶとネバネバが舌にからみ、人に言わせると旨味が増すと言われています。ここ先続けると泡立ちがふんわりまろやかになり、泡にとろみが加わります。

よく混ぜた納豆は、クリーミーな泡に豆が包まれ箸にまとわりついて糸が切れません。確かに口の中に広がったネバネバと豆のホクホク感が合わさった濃厚な味わいです。ほのかに甘さも感じネバネバが十分でないと、うまみの広がりが少なく手間を惜しまないことの大切さを実感しますが、泡が多すぎて逆にネバネバ食べにくくもなります。

豆のうまみ成分はアミノ酸です。かき混ぜるとアミノ酸が増えるという明確なデータはないようで、変わるのは食感だけです。ネバネバが増せば、舌に触れる面積が広がりうまみが伝わりやすくなりますが、ただそれも多すぎると豆の食感が損なわれるのです。ようするに、たくさん混ぜても味が大きく変わるわけではないのです。何事にもバランスこそが大切と言う事ですね。
  

Posted by きくいち at 11:17Comments(0)菊一本店