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2013年05月28日

五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?

京都観光(京都の城廻)最後は、伏見城です。
伏見桃山城運動公園には天守閣を有するお城がありますが、これは豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです。運動公園のお城は、昭和39年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として建築された模造天守です。キャッスルランドは平成15年1月に閉園となり、その際、お城も取り壊される予定でしたが、存続を求める市民の皆様の要望により、伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています。

五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…? 

伏見城は、天正20年(1592)豊臣秀吉が隠居所として築城し、徳川家康が再興したお城です。
しかし、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあって、元和9年(1623)廃城となり、天守や櫓などは全国の城へ分与されました。
その後伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいのですが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられ城跡を自由に散策することは出来きません。

 五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?

長束大蔵曲輪・御花畑に模擬天守が建てられいますが、本来の伏見城天守は二条城へ移築されました。以前は、模擬天守の中が、資料館となっていて、秀吉築城の聚楽第の復元(推定)模型が展示されていたようですが…うわっ 

五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?

伏見城花畑跡には遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られたそうです。
同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園しますが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり無償で京都市に贈与されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備されました。ただ、模擬天守については耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっていて、バリアフリー対応などを含め改修に数億円かかるとされることから現在でも具体的な活用予定は無いようです。
映画やドラマの撮影等のロケ地としての活用も期待されたようですが、「時代劇冬の時代」を迎え、この5年間で3回しか利用されていないそうです…やべー
五層七重の威風堂々たる天守閣は、果して再び登城が許される日は来るのでしょうか…?

五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?  

綺麗に整備されて天守の撮影が自由にできるのがいいですが(模擬天守でもここまで突き抜けてたらなんか良いんですよね)…内部非公開のままでは、あまりにも惜しい気がします。
 
さて、視点を移し、古城山の西側麓にある、御香宮神社に向いました。ここには伏見城の名残を見せる石垣と、当時の大手門が移築されているということで、伏見城を語るには必須な場所なんです。

五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?  

御香宮神社…御祭神は神功じんぐう皇后、仲哀ちゅうあい天皇、応神天皇など9柱を祀る。
社伝によれば、貞観4年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、「御香宮」を賜ったそうです。以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたようですが、度々の兵乱や天災により荒廃します。
文禄年間、豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としますが、慶長10年(1605)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立されたそうです。(表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている) 
 
五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…? 
  
五層七重の威風堂々たる天守閣…再び登城が許される日は来るか…?  

宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀きんのしつけたち(重要文化財)を蔵し、境内には、伏見義民文殊九介らの顕彰碑があります。また毎年、10月の神幸祭は、伏見祭・花傘祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われるようです。

【伏見桃山城】… 

遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルとして、岡山市の林原美術館所蔵の洛中洛外図に描かれた伏見城を参考に、豊臣秀吉の築城した姿を再現した。建築費用は6億円(当時)。鉄筋コンクリート製。大天守閣は50メートルで名古屋城と、三層五重の小天守閣は約30メートルで彦根城と、ほぼ同じ大きさを誇る。

模擬大天守、小天守
別名 桃山城、指月城、木幡山城
城郭構造 梯郭式平山城 複合式望楼型5重6階

•伏見城は新旧二つの城がありました。
•豊臣秀吉は、天正19年(1591)関白職を甥の秀次に譲り、宇治川に近い伏見指月の森の丘陵に隠居所として伏見城をの築城を始めました。このとき、天守は淀城の天守を移築したといわれています。文禄3年(1594)には本格的な平山城に造り替えた(指月山伏見城)
•慶長元年(1596)に完成した「指月岡伏見城」はその年に近畿一円を襲った大地震のために大天守・門・櫓などが倒壊してしまいました。秀吉は、直ちに木幡山へ再普請を命じ、翌年、指月の森の東北の木幡山(現在の桃山・明治天皇陵域内)に大城郭を再建し秀頼を伴って移住しました(木幡山伏見城)
•新・伏見城(木幡山伏見城)は五層の天守閣を中心に12の曲輪群で構成され、殿舎に金銀をちらばめた桃山文化の粋を集めた豪壮華麗な大城郭だったといわれています。
•慶長3年に秀吉はこの城の中で没します。
•慶長5年、関ヶ原の合戦の前哨戦で徳川家康の老臣・鳥居元忠が籠城し、西軍の攻撃にさらされ天守などが焼けました。
灰燼に帰した伏見城は、家康の命により、徳川の城として再建開始(徳川伏見城)
その後、しだいに軍事的な重要性を失い、元和9年(1623)徳川三代将軍家光の将軍宣下後廃城となり、建造物は江戸城伏見櫓、西本願寺大玄門・客殿など各地に移転されたといいます。(本丸天守は二条城へ、櫓は大坂城・淀城・福山城・江戸城へ移築された)
•昭和39年五層大天守と三層小天守が「お花畑山荘」跡に復興されました。(当時の天守は現在の伏見桃山御陵のところに建っていたそうです) 


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