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2013年05月26日

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

二条城の次は、地下鉄で三条京阪まで出て京阪線で淀に向いました。目的は淀城です。
淀城と言えば、浅井三姉妹の一人でもある、豊臣秀吉の側室・淀君の居城として有名ですが、今の淀城はその秀吉築城の物ではなく、徳川政権後の政権初期に伏見城を廃止し松平定綱に命じ築城させた城です。徳川政権後は山城国としては唯一の大名家の居城となったそうで、秀吉の淀城は現在では「淀古城」と区別して表現され、場所も少し北のほうへ移動した場所になります。

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

淀城は京阪淀駅のすぐ北側にあります。駅を降りると、進行方向左手目の前にいきなり石垣が迫ります。(京阪淀駅のプラットホームの目と鼻の先に天守台の石垣が見える。本の丸南側の堀が今はプラットホームなのです)

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

駐輪場の横をそのまま進んで公園になっている本丸広場を眺め、天守台を見て来ました。
現在天守台入口にはフェンスがしてあり中に入る事が出来ませんが、フェンス越しに充分見学できます。ただここは、駅の南にすぐ京都競馬場がありますので、京都競馬が開催されている時は駅周辺はかなり混むと思います。(開催中でなくよかった…もし開催されていたら私はどちらに行こうかと悩んだのと思いますから…ニコニコ

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城 

現在の城跡は、本の丸部分と西・南部分の堀が残っていて(南東と北西の隅には櫓台跡が残っていて、に南東側にある櫓台が天守台)、本の丸周囲の櫓台には登ることができきました。石垣と内堀跡は今でも整然としていて、二の丸跡には城主であった稲葉氏を祭る稲葉神社があり、そこに建てられた説明板によって「秀吉が淀君の為に建てた城でなかった」ということがわかります。(淀君のお城として知られている淀城は「淀古城」と呼ばれ、淀城から北へ500mほどの位置にあったとされる) 

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

稲葉神社の祭神と淀藩について(現地案内板より)
祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。元亀2年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉貞通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」である。正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり5万石を領した。
秀吉の没後、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、2万石を領したが寛永5年(1628)江戸において没し、現龍院に葬られた。
稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、5代目の正知の時で享保8年(1723)下総国(千葉県)佐倉より10万2千石で入封した。その後明治4年(1871)16代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が12代148年間にわたり淀藩主であった。
 
徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

丹波櫓・西口門跡も比較的残っていて、ここから一旦場外に出て南側へ堀に沿って回る。南側が月極の駐車場になっているので遮蔽物が無く淀城本の丸がここから堀越しに見ることが出来きます。

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

当時の淀城は北を流れる桂川を堀として取り込み三重の堀が巡らされていたようですが、現在では内堀の一部と本丸と本丸天守台の石垣が残るのみで、当時難攻不落とされた淀城は想像するしかありません。

天守台に立ち入り禁止の鎖が張ってあったのは発掘解体作業の名残りが残っているのだと思います。私は足を踏み入れたい思いを押さえてその場を後にしました。

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城
 
歴史(現地案内板より)
淀城は3つ存在した。 中世淀城(古淀城)は、管領細川政元が築城した。 次ぎに豊臣秀吉が天正17年、細川氏の淀城を改修し、愛妾茶々がここに居住した。 このため、茶々は『淀の方(淀君)』と呼ばれることになる。
大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、徳川幕府は伏見城を廃し、元和9年に松平定綱を遠江掛川から移して、近世淀城を築城させた。この時、伏見城天守を移築する予定で天守台を築いたが、実際にはひとまわり小さい二条城天守が移築された。 この天守は、元は大和郡山城天守とも言われている。寛永10年、松平定綱が美濃大垣に移封した後、永井・石川・戸田・松平(大給)氏と城主は替わり、享保8年に稲葉正知が下総佐倉から102,000石で入城して、明治まで代々京都の守護の任に当たった。  

【淀古城】
築城 室町時代、畠山政長が畠山義就への備えとして築城したのが始まりのようで、織田豊臣時代には諸将が攻防が繰り返さしました。天正17年(1589)、豊臣秀吉は側室茶々(後の淀殿)の出産のため、弟の秀長に城を修築させ茶々に与えました。淀殿が産んだ鶴松はわずか3歳で死亡、文禄3年(1594)淀城は廃城となりました。秀吉はこの時、築城中だった伏見城に建物を移したということです。徳川時代に入って築城され現存する淀城址と区別化するため、この城は淀古城といわれています。

徳川時代に唯一存在した京都の大名家の居城

京阪電車の淀駅近くにある淀城址から北へ歩いて7、8分のところにある妙教寺が淀古城の本丸、あるいは天守のあったところといわれます。妙教寺の門を入ったところで正面が本堂、すぐ左に鐘楼があります。この鐘楼脇に「淀古城址」の石碑がありますが、それ以外に古城址を示すものは何もありません。
  
現在淀城の公園は石垣などを内側から見学することができ、石碑なども設置されていましたが、残念ながら天守台へは立ち入り禁止となっています。正直なところ入り口から駐輪場の延長上のようになっていて石垣以外には見所が少ない城なのですが、政令市の郊外で、ここまで立派な近代城郭の遺構を見ることが出来きたのは素晴らしいことでした。
現在あたり一体が京阪本線淀駅の高架化の工事が進んでいるようで、近くの競馬場を含めエリア一体が再整備されるようですが、公園再整備が実現し新たな京都の観光名所として生まれ変わったら再び淀を訪ねたいと思います。
 


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