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2012年11月20日

本丸・二の丸がよく残っている、三河安祥城

安祥城は愛知県安城市にあります。現在は歴史博物館の隣りに安祥城址公園となっています。 

本丸・二の丸がよく残っている、三河安祥城

1440年頃、和田親平が築城したといわれていますが、1470年頃には、このあたりの豪族松平氏によって攻略されたそうです。その後、徳川家康の祖父・松平清康の代までこの安祥城が松平氏の居城となり、松平清康が居城を岡崎に移した後は松平氏と尾張の織田氏の間で、何度も争奪が行われたようです。

この安祥城は浜松からは、それほど遠くなく何時はと思っていたのですが、中々行く機会がなく、先日の、秋晴れの休日に行ってきました。街道脇によく整備された安城市の歴史博物館があり、安祥城址はその歴史博物館の隣です。駐車場から城址の南の端を歩いていると土塁を見かけました。高さ1mあるかないかの低い土塁で当時からの遺構かどうかも確かではありません。

安祥城のあるこの辺りは岡崎平野の真ん中で、この程度の土塁で敵の攻撃を防げたのか少々疑問です。城址にあった看板によると、この安祥城の周囲は深田になっていて、それが防御線の一部になっていたのでしょう。

城址の南西側は広々と田圃が広がっていて、その景色の中、木々の生い茂った高台に安祥城の二の丸跡が残されています。周囲に堀を模した池が配置されています。この二の丸には八幡社が建っていました。(八幡社が二の丸で、歴史博物館交差点の北側にも隅櫓跡があります)

本丸・二の丸がよく残っている、三河安祥城

青空に映えた八幡社の本殿。隣には秋葉山も建っています。二の丸を北に抜けると本丸です。二の丸と本丸は夫々独立していて当時はその間に堀があったようです。本丸の周囲も、池を配置し良く整備されています。池の周囲には芝生が植えられ、どこか高原の様にも感じられました。

本丸・二の丸がよく残っている、三河安祥城

安祥城の本丸跡には了雲院大乗寺が建っています。山門があたかも城門のように見えます。当時の本丸にはどんな建物が建っていたのでしょうか?城址の碑も山門の近くにあり本丸跡の東南には隅櫓の跡がありました。当時は急斜面の土塁で囲まれていたのでしょうが、今ではそれも崩れてしまっています。この安祥城は、桶狭間の戦いの後、家康が岡崎城に入った以降には廃城になってしまったそうです。それから400年以上の時が経っていますが、よく整備された城址公園を歩いていると当時の様子に思いを馳せる事が出来ました。 

本丸・二の丸がよく残っている、三河安祥城 

かつて安祥城の近には7つの井戸があったようです。(①風呂井、②浅黄井、③筒井、④梅井、⑤中井、⑥桜井、⑦柳井)
安城七つ井…風呂井…じつはこの井戸だけ、安祥城の中にあるんです。しかもコレだけ手厚く整備され井戸の『井』の形をしています。場所は三の丸跡のすぐ側でこれはすぐ分かります。 

安祥城は松平氏で有名なお城ですが、築城者は松平氏ではなく、松平氏以前の和田遠江守という説があります。

そんな安祥城ですが、文明3年(1472)松平氏の始祖・親近から数えて三代、信光が策を持って安祥城を攻略、これにより松平氏の安祥城の歴史が始まります。山奥の松平郷から拠点を平地の安祥城に移した事により、松平氏の勢力拡大は加速し、ここより大給・西福・東条・滝脇に分家を出しています。その後、安祥城の松平氏(本家)は親忠→信忠→清康と続き本城を岡崎城へ移します。

この清康により松平氏がほぼ三河を支配化に納めましたが、「守山崩れ」で清康が討たれてからの天文9~18(1540~49)の間、織田・今川・松平の三氏が安祥城を奪い合いました。この間に繰り広げられた合戦が安城合戦です。

そして天文18年(1549)、当時の安祥城主・織田信広(信秀の長男)が生け捕りにされてしまいます。この時、松平氏は今川氏の傘下に納まっており、松平氏の嫡男・竹千代(後の家康)は織田氏に人質として取られていました。安城西野において織田の人質・松平竹千代と今川の人質・織田信広の交換が行われ、お城は今川氏のものになりました。
その後の桶狭間合戦後、松平氏は岡崎城で今川氏から独立、織田氏と同盟が結ばれた頃、安祥城は廃城となりました。(現地案内板より)

戦国時代が終わり、寛政4年(1792)に安祥山大乗寺が建立され、今日に至る安祥城ですが、一説では、織田・今川・松平三氏によるお城の奪い合いで戦乱が耐えなかった時、前田利家の妻・「まつ」の父親である篠原主計が安祥城で討ち死にしています。
 
別名 安祥城、森城
所在地 安城市安城町赤塚
遺構等 復元土塁、井戸跡、碑、説明板
現状 城址公園、大乗寺、安城市歴史博物館
築城年 永享12(1440)
築城者 和田親平
歴代城主 和田、織田、松平、織田信秀
形式 平城

本丸跡に了雲院大乗寺が建立されていて、復元土塁や隅櫓跡、切岸などが見られます。大乗寺の山門への階段より右手(東)に石碑があり、寺の裏手に本多忠高の碑があります。

本丸・二の丸がよく残っている、三河安祥城 
 
さてそんな安祥城ですが、現在本丸には大乗寺、二の丸には八幡社、三の丸には安城市歴史博物館、安城市埋蔵文化財センターがあり、安祥城全体が城祉公園として整備され、市民の憩いの場となっています。 整備されたといっても、公園の中、周りはお城の史跡がチラホラとありますので、歴史博物館の見学も兼ねて、皆さんも宜しかったら半日位かけて満喫してみてはいかがですか…?(埋蔵文化財センターは入場無料で資料室にある展示品が色々見られます)


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